グランド・ゼロの中心より
ハルが生まれて初めて、趣味らしい趣味を持つに至ったのは、もちろん彼女自身が望んでのことではなかった。
三月末の、とある晴れた日。放射冷却のおかげで、吐き出す息が白くなるくらいにはまだまだ寒い春の朝。
政府が管理する、だのにひと気の感ぜられない、ムダに広い自然公園。
その真ん中に広がる、湖を一望できる野原と林とのちょうど境目。屋根付きの細い丸太を組み上げた椅子に腰を落ち着け、携帯の液晶を人差し指で撫で上げながら眼前を流れる文字列をただただ目で追っかけている時。
「わざわざこんなとこまで出張ってやること家の中と変わらんってどうなんよ?」
という春休み二週間限定の友達・イオからの至極もっともな指摘からだ。
ちなみに彼は彼で、ヘリコプターのフィギュア――ミルというらしい――にぺたぺたマスキングテープを貼って、上から黒のスプレーを吹いている真っ最中。それだってじゅうぶん、家の中でやるようなことではないのではないか。
そんなニュアンスを僅かばかり込めたジト目を向けると、
「部屋がシンナー臭くなる」
せんべえをひっくり返すようにプロペラを裏返し、今度は灰のラッカーを吹き付けながら言った。加えて床や壁に飛び散った塗料を処理するのが面倒だから。その際使用する剥離剤の臭いのなんの。一週間は黄色と黒のバリケードテープを貼っておかなければならない、とも。
それならばなるほど。ハルは納得した。殆ど聞き流していたけれど、なんだか外でやるべきことなのだろう。
液晶から目を逸らさずにうんうん頷くハルの鼻元に、スプレー缶の先が寄せられる。
「……臭いってより、なんか癖になる」
「今後絶対、お前に嗅がせんようにせんとな」
そんな訳で翌日。ハルは面の狭い、細長いラケットを持つことになり、
「これは?」
朝っぱらから片手サイズのラインマーカーをコロコロ転がすイオに向かって、「ついでにおはよう」手の代わりに細長いラケットを小さく振った。
「バドミントン。最後にバドったんっていつか覚えとる?」
「あぁ……昔子ども会で少し。景品がうんこチョコだったの、なんとなく覚えてる」
そのチョコレート、形がアレだったのは勿論、容器まで……その、なんというか、ソフトクリームみたいな形だった。それが男のなにかしらのリビドーを突き動かしたのか。なぜかしら男子人気が非常に高くて、不運にもそれを貰ってしまった女子と、不運にもそれを貰えなかった男子がトレードしていたことを思い出す。
ハルはどうだったか。うんこチョコのインパクトのおかげで、そこらの記憶が曖昧だ。
「俺は中学んときやな。クラスマッチで男女混合ダブルス」
「中学の時はバレーだった」
「そっちのがいいんならコートつくり直すよ? まだ作りかけやし。あ、けどボール持ってない」
イオの提案にべつにいいよぉ、と長い髪がバラけないように、頭を緩く横に振った。
「ただわたしがバレー部だったってだけ。そういうの、そっちでもなかった?」
「野球部はソフトに、サッカー部はフットサルに強制連行されてたな。そういや」
「しかもそのふたつがたいていクラスマッチの目玉っていうね。クラスの強さがサッカーと野球部員の数に比例してた」
「たしかに。ちなみに俺は野球部やったよ」
「ふぅん。どこ守ってた?」
綺麗な長方形からちょびっと飛び出た白のラインを擦って消そうとする脚が動きを止め、イオは逡巡する様子を見せる。
もともと思ってはいたけど、ハルの乙女センサーあるいはレーダーによると、イオは見た目中の上クラス。癖っ毛がやや強く、彫りが少し深めの基本整った目鼻立ちをしている。
それが黙って思索するのは、背景も相まってなかなか絵になった。
そのまんまの意味で。ギリシャ時代的な。いや、もちろん褒めている。
彼は再び、今度は長方形の内側にラインを引き始めると、
「……左サイドベンチ」
「つまり補欠、と」
「やかましい」
「や〜い、補欠補欠〜」ハルが柔らかな野次を飛ばして、イオは「ありゃだいたい監督が――」とかそれらしい言い訳を並べ立てながら、縦に横にさっさとラインを引く。迷いのないあたり、ずいぶんと要領が良い。
「つか少しは手伝いなさい」
「ぶー」
「ぶー垂れん。ブタ箱にブチ込むぞ」
椅子に立てかけてあった支柱を指差して、持ってこいと指で指示する。
しかたないとラケットを地面に置き、やけに重い支柱を担いで持っていく。
「でも勝手にこんなことやっていいわけ? ここっていちおう、地球国家管轄の保養所だよね」
「大丈夫。問題なし。許可はとってある」
支柱を遠慮なしに地面に突き立てて、なんの気なしにイオは言うけども……、
「許可って……誰に?」
人影ひとつ見当たらない公園をぐるりと見渡し、それから係員ひとり居ない埃の積もる事務所と寂れた入場ゲートを思い出して、訊いた。
「自然公園というものは非常に不衛生だ。抗菌タイルは殆ど敷かれず、雑菌だらけの土と、それから草の茂る地面。栄養ジェリーではなく、地面に深々と根を降ろした広葉樹たちーー」
そしてそこかしこに糞をバラ撒く鳥や虫やその他動物。
公園中央に佇む一見すると綺麗に見えるけど、寄生虫のいるとも知れない湖。
極めつけは空気中ナノマシン濃度がゼロという、ウイルスだらけの大気。
∣審判の日以降、医療がとことん発達して衛生に口やかましくなり、そこに秩序の新たな体系の糸口を見出した社会すらも加担するようになって約一世紀。
人々はこのような当たり前の事実を前にして、億や何百万という具体的な数字に踊らされ、怯え、恐怖するようになった。じっさい顔の表面にすら、億を越える細菌がうじゃうじゃしているというのに……。
つまりここは現代人にとっての、都会にぽっかり開いたグラウンド・ゼロで。ここの駐車場が公園を囲み込むようにして、ムダに広い造りになっているのは政府の要請で後付けされたからだ。ここの放射性物質に準ずる汚いなにかが、外の街に漏れ出ないように。
「なんでミレニアムがそこまでしてこの公園を保全するのかはともかくとして……ここが田舎の無人駅みたくなってんのはもちろん、やって来るのはせいぜい回顧に浸る老人か、未だ旧世代的な考えを持つごくごく少数の愚か者」
あるいはそのことを知っている、訳あり人くらい。これはハルの妄想なのか。イオのすっと細められる目が、そう言ったように見えた。
「だから許可は、自分の良心にとることとした」
ネットの紐をくるりと巻き支柱ごと結び付けた後、ボスっと焦げ茶のモッズコートに覆われた胸を叩いてサムズアップ、「さぁ、バトミントンしようぜ!!」とハルに爽やかな笑顔を向ける。
「うんうん」
首元に指を突っ込み、空気が通るようにマフラーを緩めて軽く準備体操。
今日で四日目。たまに理屈っぽいことやハルの知らない、知る必要のないどうでもいい諸々をイオが言うのを聞き流して、昔の話に少しだけ花を咲かせて、あとは携帯を弄る日々。
今日からはそれに趣味としてバドミントンが加わる。
でも、それは昨日となんら変わらなくて。
きっと人生のどこにも記されることない、一方でなににも煩わされることのない、実りなき無意味で空白な一日が、今日もまた繰り返される。
誰かは天国には歴史が無いと言っていたけど、それも今なら理解出来るような気がした。具体的になんなのかって聞かれると、わからないけど。
あと、イオは絶望的に、笑顔が似合ってないなと思った。
○●○●○●○●○
宇佐見ハルノはあと一週間と三日で高校二年生になる。
親子関係は良好。成績もそこそこ。でも社会貢献度数ーーSDoCは一般より少しばかり高い。SDoCに偏差値は存在しないけど、わかりやすいよう敢えて偏差値で示すなら六十オーバーあたり。ではなぜ成績も同じように偏差値で表さないのか? みなまで言わせるな。
そして性格はSDoCが高いことからも解るように、寛容で穏健。そして社交的。玉にキズなのは、人懐こいくせして人を妙に選ぶ点。
自分の見た目に対しては、普段つるむ友だち二人と比べてもっとも可愛くないと自負していた。でもそれは決してハルが不細工であるとかではなくて、可愛いのは可愛いのだろうけど、取り立ててなにがと聞かれると反応に窮するような、そういう微妙な可愛さ。可愛いのはっきりしたベクトルが存在しないとか、そんな感じだ。
そしてあの二人には、それがある。なんとなく妬ましいような気がしないではないが、容姿を利用した用事なんて取り立ててなかったからあまり意識した覚えがない。
だからハルに彼氏がいないのは、彼女がそう望んでいるからだ。断じて、つくれないから居ないのではない。
そのようなベストオブ一般人なハルがなぜ友人のさまざまな勧誘をさらりと躱して、このような場所で貴重な春休みを消費しようと思い至ったのか。
それは彼女自身、定かではない。昔、子どもの頃に来たことがあるからなんとなく行ってみたくなった。たぶんそんな、なんでもないことだ。深い理由なんてなにもない。あるいはそうした、いっさいの思考放棄が赦される場所を求めていたのか、ともなんとなく思ってみたりする。
そして、その思考放棄の延長線上にハルは今立っていて、こうしてなんとなくシャトルを打ち返すのだ、とも。
「ねぇ、シャトルが打ったっきり返ってこないんだけど?」
「はて、なんでやろな?」
足もとを転がるシャトルを摘み上げて、イオは構える。
シュコッと音がしてシャトルが打ち上げられ、ハルが左手をシャトルの方へ掲げ、右手のラケットを振り抜くと同時に胸の方へ捲くる。
ファコッと音がして、今度は先程よりも高くシャトルが打ち上げられる。
イオは軽く助走をつけて宙に浮くと、膂力すべてを以てラケットを振り抜く。
時空が歪んだような音ともに、ほんとうに時空が歪んでしまったのか、少しだけシャトルが体勢を崩す。けれどもそのままシャトルはフラフラ落ちていって、今度はちょうど、イオの頭に当たって落ちた。
マヌケな様だった。
「くっ……はははっ」
「笑うなよっ!」
堪えきれず、笑いがこぼれ出す。
「確かにこれじゃ、万年補欠だね〜ふふ。笑いが止まらない」
「やけぇあれは監督との折り合いが悪かったんよ!」
「うんうんわかってるよ。わたしたちって自分の能力不足を嘆く前に、べつのものに当たっちゃうよね」
「フロイトの防衛機制やめれ」
「クソ、次から本気出すかんな!」あるあるな台詞を呟いて、それでも今度は助走をつけず飛びもせず、手首のスナップだけで打ち返そうと試みてーーシャトルはイオの靴の上にちょこんと載った。なんだそれは。笑わせに来てるのか。
「〜〜〜〜!!」
「…………ちょっとタイム」
彼は断って、バックパックのある場所まで行ってなにやらゴソゴソし始める。
次はなにを出して来るのだろうか。もしかしたら白旗かも、なんて首を捻っていると、イオは地面を踏みしめるようにして戻ってきた。
変わらず右手にはラケット。どうやら戦意は喪失していないらしい。そして……左手にもラケットを持っていた!
「あぁ〜、懐かしい。良くやってたそういうの」
「…………」
「結局利き手の方しか使わないで邪魔になるって言う……。よしものは試しだ。気合だ。やってみよー!」
イオの迸る理解不能の気迫に圧されて、捲し立てるように言った後。シャトルを打つーーと、イオは珍妙な構えをとった。どう言い表すべきか、太鼓を打つ人のような構え方。そのまま平行に並ぶラケットを一度も重ねることなく移動させると、シュパッと小気味良い音が聴こえて初めてラリーが成立した。
四回ほど彼と彼女の間をシャトルが周回して、ハルの方に落ちる。ふつうにスカった。
それでもおぉー、と素直に感心して手袋をつけたままポフポフ拍手を贈る。
「ふぅ、太鼓の技が活きたんな」
かいてもいない額の汗を拭って、さっきの気迫はどこへやら。いつもの間抜けた調子で空を仰ぐ。
「ていうか太鼓の技ってなんだ。あんたはそんなこともやってたのか」
「興味が湧いたら、基本なんでもやってた。んで、飽きたら辞めた。な〜んも身に着けらんなかったし、得たもんなんて何もない。話の種にはなるけど」
「うわっ、三日坊主の究極体だ」
「よく言われんよ」
言葉を交わして、シャトルを交わして、ハルは普通に、反対にイオは太鼓打ちでラリーを続ける。
不思議なことに、実力差はあまり感ぜられない。
ハルの側に落ちることもあれば、イオの側に落ちることもある。
初めはイオの側にしか落ちなかった。そしてハルの側にもイオと同じくらい落ちるようになって、最後あたりにはやはり、イオの側に多く落ちるようになった。
時間が経てば、やっぱり全身を使うイオはバテバテの様子だ。肩で息をして、今度は本物の汗を手の甲で拭う。
「そろそろ昼だね〜」
「休む?」ハルの申し出に、イオは手だけで了解する。膝に手をついて、ほんとうに疲れているようだ。
というよりもむしろ、苦しそうだった。少し心配になってしまう。
「ほんとに大丈夫?」
「どうやら、太鼓打ちは、スタミナ消費が激しい、らしい。ゼェ……」
「いやいやだとしてもそれは疲れすぎ」
「運動は、やっぱ好かんな。ハァハァ……」
イオの返す応えは、なんとなく答えになっていない。自分でも気付かないふりして、話題を逸らしているような感触を覚えた。
まぁ、人にはひとつやふたつやみっつ、言いたくないことはある。
というか、これを問い質すと少しリアクションに困る返答が来そうな気がして……ハルはいつものように逃げた。
「まぁ、とりあえず休もうか。手ぇ貸すからさ……あ、ごめんやっぱ無理」
「……オーケー」
汗が滲むTシャツ姿のイオに近付いて、どこにも乾いた場所がないことを知り苦笑いを浮かべるのを、片手で軽くあしらって椅子までよろよろ歩いて糸が切れたようにして腰を落とした。
ハルもシャトルをポンポン打ちつつ遅れて向かい、彼の座る椅子の端と直角に交わったもうひとつの方に座る。
「にしても、けっこう楽しいものだ」
「やろ」
「あんま疲れないし」
「……やろ」
「ただ変な打ち方しか出来なくてちょっと身体動かしただけで瀕死になっちゃう人とやるのはちょっと、ねぇ?」
「…………善処します」
イオはべふぅっ、と詰めていた空気を吐き出して風船が潰れたみたいに椅子でぐったりする。
こうなるともう、夕方までは動かないのだろう。
「昼メシは? 食ってきた?」
「朝七時に食べたものを昼メシと言わないなら、たぶん」
「俺んバックのなか。重箱入ってるやろ? 持ち上げるんは丁寧にな」
漆塗りのテラテラした三段重ねの重箱を持ち上げ、そろそろとテーブルの上に置く。
なかなか重量感のある、実際に重量のある代物。
「わお、彼女さんも張り切るねぇ」
「アレを彼女とは言わん」
彼は基本、昼ごはんには弁当を持ってくる。それも親がつくったものではなく、彼の女友達がつくったもの。
それはイオが女友達と思ってるだけで、アレ呼ばわりの可愛そうな女の子は自分のことをイオの彼女と信じて疑ってないのではないか。
そういうすれ違いが起きているのではないか。以前、というか二日前にそんなことを訊いたけども、本人は「違う。断じて」の一点張り。
ハルはそれ以上の追求はしなかったけど、その人のなんと報われないことか。
姿も形も名前すらも知らないけど、イオの彼女に向かって「いただきます、あとご愁傷様」重箱の蓋を開く。
「スメァブレーツっていうらしい。デンマークの昼食によく食べられらるんてさ。ふつうにオープンサンドイッチって言えよって、見て初めて思うんやけど」
「ふぅん。でも、綺麗だね。腹のなかに入れば変わらないのに」
「まったくな」
色彩豊かで造形の凝ったそれらに対し、ハルとイオは血も涙もないような評価を下し「旨い旨い」と胃に落とし込んでいく。
花より団子を地で行く匍匐姿勢だった。
読了ありがとうございました。