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想い再び藤村知美


 藤村知美は、東京の美術大学に進学した。

大学は郊外にあり、下宿先も大学のそばにあった。

母親の学生時代の友人が営む下宿で、女性のみ受け入れている。

武蔵野台美術大学は、聖都と同じ私鉄の沿線にある。

聖都からは、急行で3つ先の『武蔵野の森』駅が最寄り駅になる。

 知美はデザイン科でコンピューターグラフィックを専攻している。

小さい頃からアニメーションが大好きで、セル画を集めるのが知美の趣味だった。

特にディズニーなどのアニメ映画ものは通信販売や専門雑誌の情報を元にアメリカのコレクターとも売買をするほど熱の入ったものだった。

将来は、こういったアニメの製作会社に入って、キャラクターデザインなどをやりたいと思っている。


 教室には、最新のコンピューターが10台ほどと、それに関連した周辺機器がずらりと並んでいる。

もちろん知美はコンピューターに触るのは初めてで、まして、これほどの設備は見たことさえなかった。

知美と一緒に大学へ入ってきた連中も、ほとんどがそうであった。

まずは基本的な操作を覚えることが、当面の目標だった。

 この日も、パソコンに向かって奮闘している。

知美のそばには、1年先輩の横山司よこやまつかさが付っきりで指導している。

「藤村君、なかなか物覚えが早いね。」

「当たり前です!いつまでもこんなことに時間を掛けていたら、私、何をしにここへ来たのか分からないわ。」

「そりゃそうだ!」そう言って笑う横山司は藤村知美を“とっておき”の後輩、そう確信している。

言ってみれば一目惚れというヤツだった。


 新学期が始まってすぐに、司は風邪をこじらせて寝込んでしまっていた。

久しぶりに、教室に顔を出したときに、知美を見て一目惚れした。

司には、何人もいる女の子達の中で、彼女だけが輝いているように見えた。

 薄いブルーのカーディガンに白いコットンパンツ。

大きめの襟の白いブラウス。

まっすぐに肩まで伸びた黒い髪。

「新人さん達、まだ見ぬ先輩のお出ましだよ。」

横山が出てきたのを見つけて、教授の二階堂が新入生に声を掛けた。

一斉に振り向く新入生達。

髪をなびかせ、振り返る彼女。

その瞬間は、スローモーションのようにくっきり司の目の焼き付いた。

色白でキリッとした瞳、スッと通った鼻、薄い唇の奥にちらっと見える白い歯、無表情だが確かな意思を感じる顔立ち。

司は、吸い込まれるように彼女の顔を見つめた。

「運命だ!」口には出さなかったが、そう思った。

司の頭の中には、ヴェートーベンの交響曲第5番が鳴り響いていた。

そしてすぐに脳から命令が下った。

「彼女をものにするために、あらゆる努力をせよ!」

脳からの命令に司の身体は即座に反応した。

司は、真っ直ぐに彼女の前に向かって歩き出した。

「やあ!初めまして。横山司です。君は?」

彼女は、少し驚いた様子だったが、すぐに、落ち着いて、応えた。

「初めまして。藤村知美です。宜しくお願いします。」

「よしっ!わかった。藤村さん!君が卒業するまでの4年間、ボクがキッチリ面倒見るよ。」

そんなやり取りを聞いていた二階堂教授が「3年間じゃないのかね。」と口を挟むと、司は笑みを浮かべて、ちらっと二階堂教授の方を見た後、知美の目を見つめて、言い放った。

「いいえ、4年間です!彼女が立派に巣立っていくのを見届けるためなら、1年くらい留年してもいい。」

「バカか?お前は。そんなことじゃあ、一生卒業なんぞできんかもしれんな。」

二階堂教授はあきれた顔をしてデスクの椅子に腰を下ろした。

他の学生達は一斉に笑い出した。

「さあ、今日はこの辺にしようか。」

二階堂教授がそう言うと、学生達は一斉に「お疲れさまでした。」と挨拶をし、それぞれに教室を出ていく。

知美は、その後もパソコンのそばを離れようとはしなかった。

「まだやるのかい?」

背中越しに司の声が聞こえたが、振り向きもせずに、知美は答えた。

「ええ。もう少しだけ。」

司は知美の隣の席に腰を下ろして、パソコンの画面に目を移した。

「じゃあ、俺ももう少し付き合うか!」

「先輩、気にしないで下さい。本当にあと少しだけですから。」

「だったら、なおさらだ。付き合わせて貰うよ。」

 司と知美は大学の正門へと続く銀杏並木の下を歩いていた。

後から、司の同期の皆川亨みながわとおるが近づいてきた。

女の子を二人連れている。

皆川は、油絵を専攻していて、二人の女の子は同じ科の後輩になる。

額を出して、髪を後に束ねた娘はスポーツキャップを被っていて、なかなか活発そうな娘だ。

もう一人は、ショートカットでジーンズの上下を来ている。

「よう!これからボウリングに行くんだけど、お前らもどうだ?」

亨が司達に声を掛けた。

司は、知美の顔を見て少し考えたが、たまには気晴らしもいいだろうと思い、知美を誘ってみた。

「どう?たまには気晴らしに付き合ってみるかい?」

「いいわよ。私、けっこうやるわよ。」

「よしっ!決まりだな。かおるが向こうで待ってるから、早く行こうぜ。」


 平日だというのに、ボウリング場は、けっこう混んでいた。

「先に来ておいて正解だったなあ。」

小田切薫は、皆川達よりひと足先にボウリング場に来ていた。

受付カウンターで待ち時間を確認すると、30分待ちだと言われて予約カードを受け取った。

レーン手前のベンチに腰掛けて、若い女の子達のグループがプレーするのを眺めていた。

不意に後から肩を叩かれ、皆川達が到着したものだと思いこみ、振り向き座間に口を開いた。

「早かったじゃないか…」

そこに立っていたのは皆川ではなく、高倉伸一だった。

「久しぶりだなあ。誰かと待ち合わせでもしているのか?」

小田切と高倉は高校時代の同級生で、親友同士だ。

「何だ、伸一か…」

伸一の他にCIPのメンバーが勢揃いしている。

「お前達もボウリングをしに来たのか?」

「当たり前だろう。こんなところ、他に何の用事があって来るってんだ?お前みたいに女のケツでも眺めに来るヤツなんて他にはいないぞ。」

小田切はチラッとレーンの方に目をやって、顔を赤らめながら弁解した。

「バ、バカ!そんなんじゃないさ。」

そう言って、予約カードを伸一に見せてから続けた。

「皆川が、新入生の女の子を誘って、ボウリングやろうっていうから、先に予約しに来たんだ。」

伸一は、「ふ〜ん」と言いながら辺りを見回した。

「まあ、そう言うことにしといてやるよ。」

そう言って、伸一はCIPのメンバーが待つ予約レーンの方へ歩いていった。

間もなく、皆川達がやってきた。

「よっ!どうだ?すぐできそうか?」

「ああ、あと10分くらいだろう。」

「そうか。それより二人追加だ。」

皆川は、そう言って司と知美を指した。

「6人かぁ…ちょっと窮屈かな…まあ、何とかなるか!それより、向こうを見てみろよ。」

小田切は、伸一達の方を指して皆川に言った。

皆川がそっちの方を振り向くと、伸一達がレーンのベンチに座って、靴を履き替えているところだった。

「へぇ〜、お友達じゃないか。あちらも新入部員が入ったみたいだな…あれっ?あの娘…」

そう言って、横山の連れの顔を見た。

瓜二つだった。

それから、知美の方に叫んだ。

「ねぇ、藤村さん、向こうを見てみなよ。」

そう言って、CIPの連中が居る方を指さした。

知美は何気なくそっちの方に目をやった。

「広瀬君…」

司もほぼ同時に同じ方を見た。

「藤村…さん?」

ふたりは、顔を見合わせ口を閉じた。

皆川は、知美にそっくりな女の子が居ることを教えようとしたのだが、知美は真っ先に広瀬孝太に目がいった。

司は司で、知美にそっくりな女の子に目がいった。

「広瀬?って?」

司は、知美に聞いてみた。

知美は、ちょっと気まずそうな顔をして答えた。

「高校の同級生なの。あそこにいるの…」

そう言って、皆川が指さしたのと同じ方を指さした。

そして、その時初めて皆川が何を言いたかったのかに気が付いた。

孝太の横にいる女の子が自分にそっくりなのである。

知美はかなり動揺していた。

司は、そんな知美の動揺を見逃さなかった。

その時、場内アナウンスが、皆川達の順番が来たことを告げて、一同はレーンへ移動した。

レーンはCIPの連中の隣だった。

 伸一は、空いた隣のレーンにやってきた小田切達に気が付いて、高校時代の親友だと良介に紹介した。

「よろしくな。伸一のダチなら、僕たちのことは知っているね?」

良介は、軽い挨拶をしながら、ボウリングの勝負をしようなどと持ちかけているようだったが、孝太は、自分を呼ぶ声に気が付いて、ふと、目線を上げた。

「広瀬君?広瀬君だよね?」

そこにいたのは、広瀬涼子?そんなバカな…涼子は確かにそこにいる。

と言うことは、「藤村さん?」

孝太は驚いた。

そして、卒業式の時に、そっと手渡されたメモのことを思い出した。

そうこうしているうちに、温子が知美に気が付いた。

「キャー!涼子ぉ、見て、見て。涼子にそっくり。孝ちょんの知り合いなの?」

「孝ちゃん?」知美は不思議そうな顔をして孝太を眺めた。

孝太は気まずそうに目を伏せた。

そんな孝太の様子を見て、温子は急に何か得たいの知れない感情が心の奥底から湧き上がってくるのを感じた。


 孝太は、ボウリングをしながら、CIPのメンバーに知美のことを説明しつつ、知美にもCIPのことを説明したりで、スコアの方はさっぱりだった。

そもそもボウリングをやったのは、今日で2回目だったのだから。

最初の1回は知美と明弘と三人で行った。

逆に、知美はストライクを3回出して165を出した。

これは、13人のメンバーの中で良介の221、皆川の198、鵬翔の187についで4番目の成績だった。

勝負の方は、人数が違うのでメンバーの平均アベレージで武蔵野台美術大学に軍配が上がった。

聖都は良介と鵬翔以外は100を越えるか越えないか程度で、孝太に至っては64と散々なものだった。

武蔵野台は、ほぼ全員120以上だったが、司だけは孝太と同じでボロボロだった。

勝負に負けた聖都は、後日、良介が“F&N”に招待すると約束して解散した。


 デザイン科の教室では司が元気なくボーっと窓の外を眺めている。

「ボウリングになんか行くんじゃなかった。」

知美は、きっと孝太のことが好きに違いない。

もし、あの日、孝太に会いさえしなければ…そう思うと、気が滅入るばかりだった。

 知美は、ようやくパソコンの基本操作をマスターしつつあった。

司も付きっきりで知美の指導をする必要もなくなった。

もともと、司が一方的に知美に一目惚れしていただけのことだった。

知美にしてみれば、ただの親切な先輩以外の感情はもてなかった。

それは、やっぱり、孝太のことがずっと気にかかっていたからだった。

ボウリングに行ってからというもの、知美はなんだか毎日が楽しそうに見える。

司は、今まで自分と接していたときより、楽しそうにしている知美の姿を見ているのがとても辛かった。

「知美、なんだか最近とても楽しそうだね。なんかいいことでもあった?」

そう尋ねてきたのは、同級生の河合洋子だった。

「うーん。ちょっとね。高校の時、ひかれていた人に偶然会ってね…ねえ、洋子、聖都大学のCIPって知ってる?」

「CIP…?」

洋子は首を傾げて続けた。

「CIPはともかく、その人って聖都なの?すごいじゃん!」

うらやましそうに、そう言う洋子に、知美も得意気に話しを続けた。

「そうなの。高校の時にすごく頑張ってたから。それで、CIPって言うのはね、カレッジ・イベント・プデュースの略でね、この辺の大学のイベントを一手に取り仕切っているんですって。そこの日下部良介って人は業界でも注目されている有名人なんだって。すごいでしょ?」

洋子も興味津々と言った感じで、知美の話しに耳を傾けている。

「それで、あなたの彼は、その日下部って人なの?」

「違う、違うよ。それに、彼だなんて…」

「あら、違うの?」

「そうよ。まだ付き合っているわけではないもの。それに、広瀬君には今きっと彼女がいるわ。」

「へぇ〜、広瀬って言うんだ。彼。」

「だから、違うってばあ。」

「だけど好きなんでしょ?その“広瀬君”って人のこと。なんだか、羨ましいわ。」

そんな、知美と洋子の会話が、いやでも耳に入ってくる。

司は、突っ込んだジーンズのポケットの中で,こぶしを握り締めた。

そして、心の中でつぶやいた。「クソッ!」

そして、教室をあとにした。

知美と洋子は、呆然として司が出ていくのを見送った。

「わかりやすい人ね。横山先輩って。ねえ、知ってた?横山先輩、知美のことが好きなのよ。だから、最近知美が楽しそうにしているものだから、やきもち焼いているのね。」

洋子に、そう言われて知美は驚いた。

「まさか?」

洋子は、“やれやれ”と言った表情を浮かべて、話しを続けた。

「ねえ、先輩が新学期になって初めて教室に顔を出した日のこと覚えてる?あなたに気が付くや否や、まっすぐにあなたのところへ行ったでしょ?そして、その時言ったせりふ覚えてる?きっと、知美、あなたに一目惚れしてしまったんだと思うわ。」

知美は、その時のことを思い出していた。

そう言われれば、思い当たる節もある。

「そんなぁ…私はただ…」

知美は、自分のせいで司を傷つけてしまったのかと思うと、少し、自己嫌悪に陥った。

「そんなこと分かっているわよ。誰が見ても横山先輩の片思いだと言うわ。それに、先輩は思い込みが激しいタイプみたいね。だから落ち込み方も半端じゃないのよ。いい?知美、下手に慰めようなんて思わないことね。よけい話しがややこしくなるわよ。」


 屋上のペントハウスの扉が開いた。

出てきたのは、皆川と小田切だった。

二人は、屋上に出てくると、振り向きざまに叫んだ。

「いた、いた。やっぱりここだったな。」

司は、皆川の声には気が付いたが、無視して、武蔵野の森の景色を眺めていた。

すぐに、皆川がタラップを登って、ペントハウスの屋根に上がってきた。

続いて、小田切も上がってきた。

司は屋根の床に、あぐらをかいて座っていた。

「こりゃまた、えらい傷心なされたようですなあ。」

司は無言のまま身じろぎひとつしない。

皆川は構わず続けた。

「まったく、お前も進歩のないヤツだなあ。もう少し大人になれ。熱く燃え上がるだけじゃあ、恋なんて出来ないぞ。」

そう言って、司の横に腰を下ろした。

司は、相変わらず、遠くの景色を無言で眺めている。

「明日は、お前も来るだろう?」

明日は、良介が“F&N”に招待してくれる日だった。

良介は何も言わない。

「まあ、いいや。それより、あの娘覚えてるか?藤村さんにそっくりな娘がいただろう?こう考えたらどうだ?もし、あの広瀬ってヤツが藤村さんのことを好きだって言うなら、付き合っているのはキャピキャピした方じゃなくて、そっちの方じゃないか?ってことはだな、まだまだ諦めるには早すぎるんじゃないか?そんなに逃げてばかりいたんじゃあ、まとまる話も前に進まないんじゃないか?」

それだけ言うと皆川は、立ち上がってタラップを降りていった。

「そう言うことだ。元気出せよ。俺達も応援するからさ。」

小田切も皆川に続いて、ペントハウスを降りていった。

「明日、必ず来いよ。」

ペントハウスの下の方から皆川の声が聞こえた。

それからすぐに、扉の閉まる音がした。

司は、しばらく動かなかったが、やがて立ち上がって、ペントハウスの屋根から飛び降りた。

「そうだな!前に進まなきゃ。」


 天井は白いクロスが貼ってあるが、横になったベッドの真上には氷室あすかのポスターが貼ってある。

温子はベッドに仰向けになって、考えていた。

「もぉ〜なんなの?あの藤村って娘。孝ちゃんとどんな関係なのかしら?」

温子は、知美に会ってから、孝太の様子が少しおかしいと感じていたのだ。

そして、最初に温子たちに会ったとき驚いたような顔をしていたのを思い出した。

「あのとき、孝ちゃんが驚いたような顔をしていたのは、涼子があの娘にそっくりだったからだわ。だとしたら、孝ちゃんが、本当に好きなのはだれ?私?」

温子は、そんな風に考えた。

そして、こう思いこむことにした。

孝太は、高校時代に藤村知美と付き合っていた。

そして、大学に進学したときに、何らかの理由で別れた。

聖都に来て、涼子に会って、彼女にあまりにも似ていたので驚いた。

しかし、アルバイト先で近づいてきた温子と過ごしているうちに温子にひかれるようになった。

今は、誰よりも温子のことが好きなはず。

藤村知美も広瀬涼子も、孝太にとっては過去の思い出。

「そう!何も問題ないわ。私がしっかりしなくちゃ。もっと孝ちゃんを支えてあげなくちゃ。そうよ!そうだわ。孝ちゃんが、迷ったりしないように。」

温子は、ベッドから飛び起きると部屋を出た。

「ちょっと、出掛けてくる。」

キッチンの方から母親が心配そうに声を掛けた。

「こんな時間にどこへ行くの?」

「バイト先に忘れ物して来ちゃったの。」

「また明日行けばいいじゃない。」

「明日はバイト休みだから。それに、明日涼子と出掛けるときに必要なものなの。」

「仕方ないわね。気を付けて行ってらっしゃい。」

「大丈夫!もう、子供じゃないんだから。あとで電話するね。」

そう言って、家を出た。

「もう、子供じゃないんだ…」心の中で、そう呟いて駅への道を走った。

行き先はもちろん、孝太のアパートだった。


 まさか、あんなところで藤村知美に会うなんて。

孝太は、テーブルの上に置かれた1枚のメモ用紙を見ていた。

卒業式の時に知美に手渡されたメモ用紙だ。

進学する武蔵野台美術大学の地図に、東京の下宿先の住所と電話番号が書かれている。

そして、孝太へのメッセージが“一緒に東京だね!これからは、ゆっくり会えたらいいね。落ち着いたら連絡して下さい。”と書かれていた。

正直、聖都で広瀬涼子にあったときには、知美が孝太に会いに来てくれたのではないかと思った。

温子と付き合うようになってから、何度もこのメモは処分しようと思ったが、結局出来なかった。

温子には申し訳ないと思いながらも、孝太の中には知美の存在が消えることはなかった。

その時、玄関のドアをノックする音が聞こえた。

孝太はメモ用紙をあわててジーンズのポケットにねじ込んだ。

 ドアを開けると、温子が飛び込んできて、しゃにむに孝太に抱きついてきた。

そんな温子を受け止めながらも、知美の顔が頭の中をよぎった。

「どうしたんだ?こんな時間に。」

温子を抱きしめたまま、そう聞きながら、孝太はドアを締めた。

「会いたくなったから来ちゃった。」

無邪気にそう告げる温子の目には、涙が一粒流れ落ちようとしていた。

知美のことで、温子が不安になっていることは、孝太も感じていた。

出来るだけ、気にしないように装っては見たが、かえってそれが不自然だったのかもしれない。

いずれにしても、このままの状態を続けていたら、傷口が大きくなって取り返しが付かなくなる。

しかし、今の孝太には、どうしていいのか分からなかった。

とにかく、今は、温子を抱きしめることがいちばんだと、そう思えた。


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