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接近/広瀬孝太と廣瀬温子

 私鉄の『聖都大学前』から、各駅停車で二つ目の駅より、5分ほど歩いたところに孝太が住むアパートがある。

駅の改札を出ると、駅前商店街の真ん中で左右に延びた道路の両側には、ありとあらゆる商店が軒を連ねている。

道幅は軽トラックがようやく通れる程度で、一方通行になっている。

店先に箱積みされた商品などを並べられたら、乗用車でもそこを通るのは至難の業だ。

夕方の四時から七時までは歩行者天国になる。

この商店街を、一方通行と逆に右へ曲がり、コンビニの角を左へ入って3件目にある鉄骨の骨組みに軽量コンクリートのパネルを貼った3階立ての共同住宅がそれだ。

道路の際に側溝があり、はめ込まれたコンクリートの蓋が所々壊れている。

建物の廻りは、道路面から4段ほど積まれたブロックの上に、L型の骨組みにネットが張られたフェンスで囲まれている。

建物に向かって、左側に内開きの鉄の門扉があり、それは常に開け放たれている。

門扉は錆びて、動かすことが困難に違いないほど古くなっている。

敷地に入ると、すぐに1階の廊下と2階へ上がる鉄骨の階段がある。

廊下といってもプラスチックの波板張った目隠しで仕切られただけのもので、その外側が階段になっており、階段の奥は雑草がのびのびと育った荒れ地のようにになっている。

孝太の部屋は二階に上がるとすぐで、五軒並んだうちの一番奥の二○六号室だ。

 孝太はポケットに手を突っ込み、部屋の鍵を取り出した。

青いペンキが塗られた扉の鍵穴に鍵を差し込むと、取っ手を掴んで手前に引いて扉を開けた。

廊下の広さは1メートル弱で、扉を一杯に開いたら、人が一人、やっと立っていられるほどの余裕しかない。

部屋には、玄関に備え付けの下駄箱があり、短い廊下の左側が洗面所とトイレになっている。

右側には洗濯機置場とユニットバスが据え付けられている。

廊下の突き当たりには正方形のガラスが八枚はめ込まれたドアがあり、ドアの向こう側が狭いダイニングとキッチンになっている。

キッチンは、一応システムキッチンになっているがタイルの目地は黒ずみ、流し台の扉の表面には穴が開いているものもある。

ダイニングと格子状の縁が入った、引き違いのガラス戸を隔てて、六畳ほどの洋室がある。

洋室の床はフローリングになっているが、あちこちにキズやめくれているところがあるため、安物のカーペットが敷かれている。

浴室の裏側にあたる位置に、1間ほどの押入と半間ほどのクローゼットがある。

外側は引き違いのアルミサッシになっていて、ドアを開けるとバルコニーがある。

バルコニーは5件分が連なっていて、各戸の境はスレート板の隔てで仕切られている。

 孝太は、背負っていたリュックを床に置くと、こたつに潜り込んで、仰向けに寝転がった。

テレビはないので、ラジオをつけて、FM放送を聞き流しながらあれこれ考えていた。

部屋中に、まだ段ボールに入ったままの荷物が置かれていた。

 聖都に合格してからすぐに、この部屋を借りることにした。

決して余裕があるはずもないが、礼金と敷金を母親が出してくれた。

その替わり、今後の家賃と生活費は自力で何とかしなければならない。

弟は今度小学校の4年になるが、家計の足しになるような働きは期待できない。

食い扶持が一人減っただけでも助かるから…と母親が無理してこのアパートを借りてくれたのだ。

 体を起こして、リュックから求人情報誌を取り出すと、沿線別の『聖都大学駅』近辺のアルバイト求人の欄を入念にチェックし始めた。

勤務時間、時給、職種などを一つ一つ比較していき、良さそうなものに赤鉛筆で○印を付けて、そのページを折り曲げ求人情報誌を閉じた。


 次の日、早速面接に行って来た。

即答で採用され、その日からすぐに働くことになった。

そこは大学が近いこともあって、聖都の学生や、聖都の学生目当てに遠征してくる他の大学の学生達で開店から閉店まで客が途絶えることはなかった。

チェーン展開している居酒屋で、メニューも豊富だし値段も学生向きだった。

店長から、店のはっぴを手渡され、ロッカールームで着替えてから、あらかたの仕事の流れを聞いた。

孝太は最初、開店前の店の掃除から始め、店が開店したら客が注文した酒や料理を運びながら、注文の取り方などを先輩に教えて貰った。

店が混み始めると、孝太も注文取りに応じたが、分からない料理のことを聞かれて答えられなかったときは、かなり困った。

そばで見ていた、先輩に助け船を出されてホッとする場面も、しばしばあった。

後半は厨房で皿洗いを手伝った。

十一時に店が閉店すると、残り物で食事をとらせてくれた。

アパートで一人暮らしの孝太にはとてもありがたかった。

店を出ると、女の子に呼び止められた。「広瀬君…」

店に居たときは、同じはっぴ姿で豆絞りの手ぬぐいを頭に巻いていて、孝太自信かなりテンパッテいたから気がつかなかったが、私服に着替えた彼女は、赤いスタジアムジャンパーを着ていた。

廣瀬温子であった。

「広瀬君、私のこと覚えてないの?合格発表の時に会ったでしょ?ずっと同じ店でバイトしてたのに気が付かなかったの?」

彼女はちょっとムスッとした表情で、孝太のジャンパーの袖を引っ張った。

「ごめん…俺、今日初めてだったから、なんだかテンパッちゃって余裕なくて、全然気が付かなかった。“廣“の方の廣瀬さんだよね!」

孝太は気まずさと同じくらいの驚きで、温子の全身を眺めた。

温子は、孝太に覚えて貰っていたことに少し機嫌が良くなって、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ孝太の腕に、自分の腕を巻き付けて、「一緒に帰ろっ!」そう言って、腕を組んだまま駅の方へ歩き出した。

孝太も引っ張られるように、歩き始めた。

女の子と腕を組んで歩くことなんて経験したことのない孝太は、うれしさよりも緊張が先に立って、何かと話しかけてくる温子に、ただ、あいづちを打つだけで精一杯だった。

駅前までたどり着いたとき、温子が時計をちらっと見て「終電までにはまだちょっと時間があるわね!…」

そう言う温子の言葉に、孝太は少しドキッとしながら、次の言葉を待った。

「…私、お腹減っちゃった!ちょっと付き合ってくれないかしら。」

温子は食事をせずに、店の外で孝太が出てくるのをずっと待っていたのだ。

温子の目線の先には、24時間営業の牛丼屋があった。

「私、一度食べてみたかったのよ。だけど女の子一人じゃ、とても入れないもの。」

孝太は、一瞬、良からぬことを期待した自分に嫌悪感を覚えたが、すぐに気を取り直して頷いた。

「俺、さっき店で飯食ってきたけど、廣瀬さんのこと…」

「温子でいいよ。名字で呼ばれたら、同じのが三人もいるんだから誰が誰だか分からないでしょう?」

温子がそう言うので、照れくさかったが改めて言い直した。

「…温子のことすぐに思い出せなかったお詫びに、お付き合いさせて貰います。」

「本当?ありがとう。うれしい!私も広瀬君のこと、孝太君…孝ちゃんって呼んでもいい?」

「別に、かまわないけど…」

「やった!じゃあ、孝ちゃん早く行こう。」

温子は欲しいものが手に入った時の子共のような目で、孝太を見ながらそう言うと、孝太の腕を引っ張って店の中へ入っていった。


 廣瀬温子の父親は警察庁に勤務するエリートキャリアだ。

無論、聖都を卒業している。

自宅は『聖都大学前』駅からは急行で3つ目、各駅停車だと8つ目の駅で、始発駅からは、急行が最初に止まる駅だ。

都心にほぼ近いが、閑静な住宅街にある。

父親が思い入れのある聖都の沿線に新居を構えたのは、温子が幼稚園に入園する少し前だった。

殆ど家にいるところを温子は見たことがないが、温子がまだ小さい頃は、よく近くの公園で遊んでくれたものだ。

温子の父親に対する思いは、そのころの優しい父親のままなのだ。

物心が付いた頃には、何かと家を空けることが多くなったが、だからこそ今の地位にまで上り詰めることが出来たのだ。

しかし、温子の誕生日などには必ず、プレゼントを抱えて帰ってきてくれた。

もちろん、温子がまだ起きている時間にだ。

温子も、中学生くらいになると、友達同士で買い物に出掛けたり、図書館で勉強したりと、自分のことをそれなりに楽しんでいたので、家にいない父親を恨んだりなどしてはいない。

むしろ、父親の仕事を誇りに思い、尊敬していた。

下心のあるボーイフレンドは、まず寄りつかなかったし、友達からも一目置かれていた。

そんな父親の影響もあって、正義感が強く、誰とでも差別なく、つき合えるような女の子に育った。

 温子も小さい頃は警察官になりたかったのだが、女の子なので弁護士を目指すことにした。

幼稚園のころから、私立のお嬢様学校の系列に属したところに通っていたが、気取ったところが全くなく、誰からも好かれる人気者だった。

広瀬涼子とは、高校で初めて一緒になった。

温子が出席番号32番、広瀬涼子が33番で、席もいちばん窓際の前から2番目と3番目に並んで授業を受けていた。

 二人が仲良くなったのは、日下部良介が最初に予測したとおり、そんな理由だったが、それ以上に、成績も優秀で将来弁護士になりたいという広瀬涼子とは、目標も同じで、いつも一緒にいることを温子の方が望んでそうしていたのだった。

広瀬良子は、どちらかといえばおとなしくて控えめな子だった。

温子とは正反対の性格といってよかった。

いつだったか、学校の図書室で国語の担任に言われた言葉を温子は今でも時々思い出す。

「おまえ達は本当に仲がいいな。名字も同じ(字は違うけれど)“ひろせ“だしな。だけど性格はまるで反対だな。名前の通り温子の方は熱くて活動的だが、涼子の方は穏やかな風のようだ。」

考えてみれば、本当にその通りだった。


 初めてアルバイト先で温子にあって以来、孝太は駅前の牛丼屋で温子と飯を食って帰るのが日課となっていた。

「なあ、いつも牛丼ばかりで飽きないか?」

孝太にそう聞かれると温子は、首を横に振って答えた。

「全然!だって、牛丼がこんなに美味しいなんて知らなかったから…」

そう言いながら、どんぶりを抱えたまま、箸を持った右手でどんぶりの中を指し示した。

孝太はあきれてそんな温子を眺めながら、具がほとんどなくなって米だけになりつつある自分のどんぶりに、紅生姜を一掴み乗せると一気に残りをかき込んだ。

温子が食べ終わるのを待って、勘定を払おうとすると、温子に制止された。

「いつも悪いよ。たまには俺が…いや、その、せめて自分の分くらい…」

財布を取り出そうとする孝太の手を押さえて、「いいのよ!私が付き合わせているんだから。それに、孝ちゃん一人暮らし始めたばかりで、何かとたいへんでしょう?ここ、いつも食べているところに比べたら1/3くらいの値段で食べられるし。」

そう言って、温子がいつも通り、感勘定を支払った。

孝太は女の子に、(しかも自分と同じ年の)ごちそうして貰うのは、どうも気が進まなかったが、今は甘んじてその厚意を受けることにした。

「あさっては高校の卒業式だから、明日、一度、実家に帰るんだ。だから、バイトも休みだ。」

「私もそう。でも、私は地元だからバイトには来られるけど孝ちゃんがいないなら休んじゃおうかな…」

「式が終わったら、すぐに戻るよ。だから明後日のバイトは出るつもりだよ。」

そう言って、孝太は席を立った。

温子も従い、二人で店を出た。


 孝太の実家はアパートから電車とバスを乗り継いで、二時間半はかかる。

朝、ゆっくり起きて洗面所で顔を洗った。

パジャマ代わりのスウェット上下のまま、鍋で一食分だけ米を研いで火にかけた。

炊飯器は孝太にとって贅沢品だった。

冷蔵庫…冷蔵庫はアパートに備え付けのものがあったが、今はまだ使う必要がないのでコンセントからプラグをはずしてある…からキャベツを取り出すと、少しだけ切り取り別の鍋に放り込んで、みそ汁を作った。

米が炊けると、ラーメンどんぶりによそって、みそ汁をぶっかけて昼食を兼ねた朝食を取った。

歯を磨いて、服を着替えるとバルコニーに出て外の空気を確かめた。

今日はそれほど寒くはない。

火元を確認し、電気のブレーカーを落としてから部屋を出た。

 電車を二回乗り継いで、地元の駅についたのが、アパートを出て、二時間を少し過ぎたくらいだった。

バス通りを進行方向に100メートルほど歩いて左に曲がると、住宅公団の団地がある。

27号棟の308号室が孝太の実家だ。

昔、父親が抽選で引き当てた。

当時は、この3Kタイプは結構人気があり、入居希望者が殺到し、10倍近い競争率であったにもかかわらず、見事に当選したのだ。

部屋のドアには鍵がかかっていなかったが、中には誰もいなかった。

孝太は自分の部屋…正確には自分と弟の雄太の部屋で、今は雄太一人の部屋だ…でジャージに着替え、父親の写真に手を合わせた。

しばらくすると、弟の雄太が帰ってきた。

玄関のドアを開けると、すぐに孝太の靴に気が付いた。

「お兄ちゃん?帰ってきたの?」

久しぶりの…久しぶりといっても1週間かそこらなのだが…兄の姿に顔をほころばせながら、孝太に飛びついてきた。

 父親が死んでからというもの、母親の春江が働きに出ているため、雄太の面倒はずっと孝太が見ていた。

雄太はいつも、学校から帰ると団地の中の公園で、近所の子供達と遊んでいた。

春江が家に戻るのは、夜の十時頃になることもあるので、そんなときは孝太が夕食の支度をしていた。

雄太もそれを手伝っていた。

おかげで、小学校3年になった頃からは、カレーやハンバーグなど、そこそこのものは作れるようになっていた。

孝太にしてみれば、自分が大学に行けば必要になると考え、雄太が一人でも料理できるように教えていたのだ。

孝太が家を出てからは、雄太が遅く帰ってくる春江の分まで夕食の支度をするようになっていた。

「ねぇ、今日はカレー作るから、お兄ちゃんは黙って見ててね。」

そう言って雄太は、炊飯器の中に残った米の量をのぞき込み、充分な量があることを確認してから、カレーを作り始めた。

「知ってる?カレーって次の日が美味しくなるって言うよねぇ?あれねぇ、早い時間に作っておいて、一度冷ましちゃうんだ。それで、食べるときに温め直すと、あら不思議!次の日のカレーになっちゃうんだよ。」

ジャガイモの皮をむきながら、雄太が自慢げに話してくれた。

孝太は、受験勉強中、夜食で食べたとき、そのことに気が付いて、感激したことを思い出した。

「へぇ!良く気が付いたなぁ。」

1週間離れていただけで、雄太はすごく頼もしくなったように思えた。

カレーができあがると、雄太は火を止めて、ちょっと出掛けてくると言い、またすぐ戻ってきた。

手には焼き芋を二つ持っていた。

「それ、どうしたんだ?」

雄太は焼き芋を一つ孝太に放って、「管理人のおじさんが焼きいもやるって言うから、落ち葉かきを手伝って二つ貰うことにしたんだ。今日は母さんも早く帰ってくるから3人で次の日のカレーを食べよっ!これ、それまでの継ぎねっ。」

 二人でテレビを見ていると、玄関の扉が開いて「ただいま〜。」と春江の声がした。

春江は、近所の物流センターで仕分けの仕事をしていた。

「孝ちゃん、久しぶりね。向こうの暮らしにはもう馴れた?」

作業着の上着を脱いでハンガーに掛けながら、ポケットからタバコを取り出した。

雄太が、カレーとキャベツのみそ汁を温め直してテーブルに出した。

春江がタバコをふかし、「明日卒業だねぇ。母さんは仕事で孝ちゃんの晴れ姿、見て上げられないけど、ごめんね。」そう言うと、タバコの火を揉み消した。

食事が終わると、孝太は、雄太と二人で風呂に入り、寝床を共にした。


 孝太が通っていた高校へは、自転車で20分ほどだが、今日は1時間近く掛けてゆっくり歩いた。

帰ってこようと思えば、いつでも帰って来られるのだが、生まれ育った土地の風景を心に焼き付けながらゆっくり歩いた。

途中で何人かの同級生達が自転車で追い越しながら、声を掛けていった。

高校3年間、勉強とアルバイトに明け暮れた孝太には、親友と呼べる友達はほとんどいなかった。

それでも、幼なじみの中西明弘だけは何かにつけて孝太のことを気に掛けていたくれた。

明弘は、成績がいい方ではなかったので、高校を卒業したら家業の自転車屋を継ぐことにしていた。

孝太が高校時代に使っていた自転車は、壊れた中古を明弘が修理して譲ってくれたものだった。

 学校に着くと、校庭のあちこちで、はしゃぎまわる同級生達の姿があった。

孝太はまっすぐ教室に向かい、自分の席に着いた。

教室の黒板には、在校生により、卒業を祝うメッセージが書かれている。

机には、相合傘に孝太と“知美”の名前が記された落書きが彫り込まれている。

これも明弘の仕業だ。

“知美”とは孝太が中学の頃、思いを寄せていた子で、明弘と一緒に同じこの高校に進学し、3年間3人はずっと同じクラスだった。

高校に入ってからは、付き合うなどということもなかったが、これを刻まれてからクラスで噂になった。

知美はちっとも気にしていないようだったが、孝太にはそのことがかえって心苦しかった。

そんなことを思い出しながら落書きを指でなぞっていると、誰かが孝太の肩をポンと叩いた。

振り返ると明弘だった。

「ちょっと来いよ。」

そう言って、明弘は孝太を手招きすると教室を出ていった。

孝太は、席を立ち明弘を追いかけた。

体育館の脇まで行くと、明弘は更にその先をあごで指し示した。

その方向に目を移すと、そこには藤村知美がいた。

「じゃあな。がんばれよ!」

孝太の背中を押して明弘は去っていった。

藤村知美は、上品でスタイルも良く肩まで伸ばした髪がとてもしなやかで綺麗だった。

そして、広瀬涼子と瓜二つでもあった。

「呼び出したりしてごめんなさいね。迷惑だったかしら?」

孝太は驚いていたので、とんでもない!藤村に呼び出されるなんて…そう言おうとしたが、声にならなかった。

知美はそう言うと、手提げ袋の中からサイン帳を取り出し、孝太に渡した。

「これ…お願いしてもいいかしら。」

孝太はサイン帳を受け取り、パラパラとめくってみた。

空いているページはどこにもないように見受けられた。

知美が、最後のページを示して、何色かのカラーペンを出したが、孝太は黒のサインペンで一言だけ書いた。

『3年間いっしょで本当に良かった。ありがとう。』

さっと、サイン帳を閉じ、知美に返した。

「ありがとう、広瀬君。」

知美は深々と頭を下げて礼を言うと、右手を差し出して握手を求めた。

「どういたしまして。」

そう言って、右手を学生服で拭いてから知美の手を握った。

「!」

握った知美の手の中に、何か入っている。

すると、知美はすぐにもう一方の手を添えて、両手で孝太の手を握りしめた。

そして、それが落ちないように孝太の手を閉じさせてから、走ってその場を去っていった。

孝太は、しばらくその場に立ちすくんでいたが、チャイムの音に我に返って、右手の中のものを握ったまま、その手をポケットに突っ込んで、大急ぎで教室に戻った。

 卒業式は、つつがなく終了した。

孝太は、一度、家に戻ってから学生服を脱いでタンスにしまおうとしたが、ハッとしてポケットの中をまさぐった。

知美に渡されたメモ用紙が入っていた。

それには東京での知美の下宿先の住所と電話番号が書き記されていた。

孝太はメモ用紙を財布にしまい直し、学生服をタンスにもどした。

雄太が中学に上がったら、これを着ることになるのだ。

孝太がアパートへ戻るので、雄太は駅まで見送ると言った。

駅前の大衆食堂で昼飯を食べられるように、母親が雄太にお金を渡してあったらしい。

孝太は野菜炒め定食を頼み、雄太はオムライスを注文した。

食事が済んだら、孝太は駅の改札に向かい、雄太は近くの本屋で立ち読みをしてから帰ると言い、二人は別れた。


 バイト先で、開店前の店の掃除をしていると、温子が近づいて来た。

「卒業式、どうだった。」

孝太は、知美から貰ったメモのことを思い出したが、何食わぬ顔で弟の雄太のこと、友達の弘明のことなどを話して聞かせた。

温子は、そんな孝太の話を興味深く聞いていた。

「ふ〜ん。そうなんだ。私はずっと涼子と一緒でね…」

それから温子は、自分の卒業式のことを話し始めた。

「…それで、そこの喫茶店でお茶飲んでて、今別れてきたところなの。孝ちゃんもここでバイトしてると言ったら驚いていたわ。」

涼子の名前が出てきたので、孝太は一瞬ドキッとしたが、そもそも温子と涼子は同じ高校なのだから卒業式も同じなのは当たり前の話しだったが、温子と一緒にバイトしていることがなぜか後ろめたく感じられた。

 店はこの日も多くの客でにぎわい、忙しかった。

このころは孝太も店の仕事にもだいぶ慣れて、先輩に助け船を求めなければならないようなこともなくなっていた。

店が終わる頃には、孝太も温子もへとへとになっていた。

孝太は、かなり腹が減っていたので、“今日は店で飯を食う”と温子に告げた。

なじみになったとは言え、一人で牛丼を食べる気にもなれないので、温子は、昼間、涼子とお茶を飲んだ喫茶店で待っていると孝太に告げ、先に店を出た。

“おまえ達付き合っているのか?”などとバイトの仲間にからかわれたりしながらも、余った刺身をどんぶりにたっぷり乗せた海鮮丼を孝太は腹一杯食った。

ロッカールームで、はっぴを脱いでジーンズ地のジャンパーに着替えると、そそくさと店を後にした。

白を基調にしたデザインの外観をしたその店の扉を開けると、カランカランと鈴の音が店内に響き渡った。

店の奥の席で温子が手を振っている。

孝太が温子の向かい側の席に着くとウエイターが水を運んできてオーダーを確認した。

孝太はちらっと温子の方に目をやってから、首を横に振った。

ウエイターは、「それではごゆっくり。」とだけ告げ無表情のまま去っていった。

「あら、遠慮しなくてもいいのに。」

温子はそう言ってメニューを手に取ったが、正直、孝太は腹が一杯でもう何も入らない状態だったので「たらふく食ってきたから。」と温子の厚意に感謝してから左手でお詫びのポーズをして見せた。

しばらくすると、さっきと同じウエイターがスパゲティーミートソースとオニオングラタンスープを運んできた。

「食後にコーヒーを二つお願いします。」

温子がそう言うと、ウエイターは無表情のまま「かしこまりました。」と言ってその場を去った。

「気を使わなくても良かったのに。」

申し訳なさそうに孝太が言うと、温子はミートソースにタバスコをほんのひと振り、振りかけながら、否定した。

「ちがうの、確かに水だけで何時間もいるのは気まずいだろうと思ったけど、それより女の私だけ食べていたら、大食らいのバカ女みたいに見えるじゃない!」

温子がそんなくだらないことを真剣に考えていたと思ったら、孝太はつい、吹き出してしまった。

しかし、すぐに疑問が浮かんできた。“まてよ…何時間もいるつもりなのか?”

温子は食べ終わると、コーヒーカップを両手で包むように持って少しずつすすり始めた。

「この席ね、昼間涼子と来たときにも座ったの。だからというわけではないんだけれど…窓際の席だと外から見えるし、お店の人に見られて変な詮索されるのも面倒くさいものね。」

そう言って、何かを確かめるように孝太の方を見た。

「そうだな。俺も今店でさんざんからかわれてきたところだ…」

温子は、初めて孝太に会ったときから、少なからず好意を寄せていた。

孝太が店にバイトの面接を受けに来ているのを見たとき、“やった!”と、そう思った。

しかし、今の孝太のせりふは、孝太にはその気がないのだというように感じられて少しがっかりしたが…

「…でも、俺は、まんざらでもないんだ。温子は嫌かもしれないけれど。」

孝太がそう続けたので、温子は嬉しくなって「いやだ、孝ちゃんったら、もしかして私に惚れてる?」

とちゃかして見せた。

「まだ、分からないけど、嫌いじゃないさ。温子といるとなんだかとてもあったかな感じがするんだ。惚れたとかそう言うことではないかもしれないけれど。」

温子には、充分な回答ではなかったが、“今はこれで良しとしておこう。”そう思った。

これで、親に嘘を付いてきた面目も立つというものだ。

実を言うと、温子は卒業式の後、涼子の家で卒業祝いのパーティーに招待されたから泊まると言っていたのだ。

無論、今日は孝太のアパートに泊めて貰うつもりでいた。

昼間、涼子にもアリバイ工作を頼んでいた。

涼子は最初気乗りしないようだったが、最後には根負けして理由も聞かずに承諾してくれた。

もしかしたら、理由は“薄々感ずいていたかもしれない”と温子は感じていたが、隠さなければいけない理由もなかったので、そのときは別に気にも留めなかった。

 そうこうしているうちに、充分な時間が経過したのを見極めて温子は白々しく腕時計に目をやった。

「いけない!もうこんな時間。終電間に合うかしら?」

その言葉に孝太もハッとして、店の中の時計を探した。

カウンターの奥に白い文字盤の丸い時計を見つけて時間を確認した。

零時三十分!

「やばい!早く出ないと終電が行っちゃうよ。」

孝太は温子の手を取って立ち上がった。

急いで勘定を済ませると駅へ走った。

ちょうど最終電車が出た後だった。

孝太は、時刻表と駅のデジタル表示の時計を何度も見たが、今出た電車が最終電車だったことは間違いなさそうだった。

「まいったなあ。」

温子の思惑通りにことが運んだとはつゆ知らず、孝太は温子に申し訳なさそうな視線を送った。

自分は二駅なので、這ってでも帰れるが、温子はタクシーでなければ無理だろう、そう思ってタクシー乗り場の方に目をやったが、早くも並び始めた行列をよそにタクシーは一台も泊まっていなかった。

温子は、一瞬困ったような表情を作った後、孝太の腕にしがみつき、諦めたような口調で言った。

「仕方がないわ。歩きましょ。どこか途中でタクシーを拾えばいいじゃない。」

歩くと言っても、タクシーが捕まらなければ温子の家までは2時間以上かかるだろう。

孝太は迷った。

自分は二十分も歩けば済むけど、その先、温子を一人で放り出すわけにはいかない。

下心があると思われたくはなかったが、迷った末に、孝太のアパートに“泊まらないか”と温子に聞いてみた。

温子にしてみれば、予定通りのことだったが、少し考えたふりをして「泊まるだけだよ。」と承諾した。

「もちろんさ!」

孝太は、何もしないことを約束して線路沿いの道を二人で歩き始めた。

温子の髪からは、ほんのりとシャンプーのいい香りがした。


 孝太も温子も初めてだった。

孝太のアパートには、当然、布団が一組しかなかった。

この時期に、布団も掛けずに寝れば間違いなく風邪を引いてしまうだろう。

かといって、暖房と呼べるものは800Wの電気ストーブ一台しかなかった。

必然的に二人は、ひとつの布団で寝るしかなかった。

孝太は温子に背中を向けて横になったが、後ろから温子が抱き付いてきた。

「孝ちゃん暖かい…ねぇ、こっちを向いて。」

孝太は温子の方に向き直った。

お互い見つめ合ったら、あとはもう、そうなるしかなかった。

 次の日は、日下部良介に入学式の打合せに出るように言われていた。

温子は涼子と待ち合わせをしているというので、先にアパートを出た。

『聖都大学前』駅のホームに降りると、ちょうど反対側から来た電車に乗っていた涼子が降りてきたところだった。

温子は涼子に手を振り、涼子もそれに答え、二人は一緒に改札を出た。

駅から大学までは、歩いて十分ほどだった。

二人は大学の中庭まで行くと噴水の前のベンチで日下部を待つことにした。


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