期待の期
期待するものを超えたものを目の当たりにしたとき、その瞬間は驚きおののくが、次の機会にはそれが当たり前になっている。そして、次の時に元に戻っていたとしたら落胆の瞬間が待っている。
だから私は期待するのを辞めた。どんなことに対しても期待せず、ただ周りに合わせて驚いたり喜んだり、それこそ落胆したりする。
そんなこんなでもう何年も過ぎた。
「ただいま」
帰っても
「おかえり」
の声はない。
六畳一間に広がるのは簡易テーブルと、仕事で使う服、資料のみ。
家を出るときは何かいいことがないかなんて期待せず、帰ってきて、ほら、やっぱり何もなかったじゃないか、と言い聞かせる。
違う、多分、期待して、落胆している。それを感じないように、工夫して、工夫して、簡素な生活を心がけた。
今になって思えば、それがいけなかった。何もない、ただただ過ごす毎日だからこそ、ちょっとした変化を心のどこかで望んでのかもしれない。
人は弱い生き物だとはよく言ったものだ。
齢40を迎えたとき、ふとしたことで涙を流した。
「ただいま」
このセリフさえ口にしなかった日々だったが、同じ道、同じ時間に家路につく私に声をかけてきた女の子がいた。
「あ、おじちゃん、おかえりなさい。」
長い髪の、小学校低学年の、黄色い帽子をかぶった女の子。
公務員として、変わらぬ毎日、市民には疎まれ、上司には怒られ、気付けば周りに誰もいない私に、女の子はおかえりなさい、といった。
「・・・だめだよ、知らないおじちゃんに声をかけちゃ。」
「だって、先生が、いっつも見る顔には挨拶をするのが普通だぞっていってたもん。おじちゃん、この時間にいっつも見るから、だからおかえりなさい。」
・・・こんにちは、でなく、おかえりなさいと言われたのはいつ以来だろう。
「いっつも見る顔か・・・ごめんね、君の顔、私は知らないんだ。」
女の子は首を傾げ
「でも、でも、ね。いっつも見るよ!で、おじちゃん、いっつも・・・フフフー、ちゃりんちゃりんっていうの!」
「ちゃりんちゃりん?」
「うん、ちゃりんちゃりん!変な音―フフフー」
女の子はじゃあね!と言って、そのまま家路を走り出した。
ふと、ポケットに手を入れると、家の鍵、についた鈴に目が留まった。
(あんたはものをよくなくす人だから、これ、つけときなさい)
私が上京してすぐに他界した母、誰かと関わるのを良しとしない私に、知らない誰かの目に留まるように、もしかしたら忠告しているのかもしれない。
すると、どうだろう、私はその場でそっと涙を流してしまったのだ。
不思議だった、5秒経って動揺した。
何も期待しない毎日、変わらない毎日、いつの間にか人と関わるのが怖くなっていた毎日。
知らない誰かに助けてもらいたかった毎日。
でも、何もしなくても、知っている誰かに助けられ、知らない誰かに心を動かされ、知らない誰かの心に何か影響を与えている。
期せざるところに、面白い発見だ。
期待の期、って、時期って意味だと思ってたけど、私は、この期を、誰かが待っている時期ではなく、誰かに気付かれないうちに与えている、期だと、そうとらえるようになった。
今日も帰っても何もない、だけど、久しぶりに口に出した
「ただいま」
鍵を玄関口の鍵置きに置くと、ちゃりん、となった。
私には、「おかえり」と、そう聞こえた気がした。