悪魔+女=救世主(?)
滅多なことでは立ち入ることのない、深い深い山奥。地面が震えるほどの大滝の裏に、その岩屋はあった。轟々と瀑布の音が届く洞穴のなかで、不気味な儀式が始まろうとしていた。
苔の匂いがたちこめ、湿った空気が肌にまとわりつく。ごつごつとした岩壁に松明がいくつも掛けられている。それなのに、暗い。松明の灯りはあっけなく闇に呑まれている。
「間違いなく成功するのだろうな」
緑色の詰め襟服を着た男は、前方に怪しく光る水晶の柱を見つめながら横に問うた。
「間違いなく成功するだろうが、今から召喚するのは悪魔だ。本当に呼んで良いのか」
そんな答えが横から返って来る。
一国の宰相ヒエムスはしばし間を置いてうなずいた。
「国にとって、いや世界にとって一大事だ。手段など選んではおれん」
深く刻まれた皺が、表情を険しくするといっそう深くなった。白に染まりきった頭は整髪油できれいになでつけられている。すっと伸ばされた背筋とまとう雰囲気からでは、とても七十歳には見えない。
「悪魔は気まぐれだ。善良であると思わせて実は姑息で用心深く、時に子供のようにわがままで融通がきかない。せいぜい気をつけろよ……魔王を滅ぼした後に、この国ごと滅ぼされないようにな」
ヒエムスはどこか緊張した面持ちで、傍らに立つ者を見た。
声音から壮年の男だった。漆黒のローブを着ており、フードを深く被って顔を見せようとしない。この男の他にも儀式の準備を進める者たちは、総じて黒いローブを着用していた。
彼らの手によって、岩床に巨大で複雑な円形の図が描かれていく。描く為に使っているのは、白い軽石。子供が地面に落書きする時に使うような、ごく一般的に目にする石だった。
横に立つ男はおそらく、この者たちの上に立つ存在なのだろう。彼らはこの男に従順だ。この男を含め彼らは皆、まじない師と呼ばれている。
ヒエムスを護衛する十人の兵士たちは、今から始まる禍々しい儀式に顔を強張らせていた。それもそうだろう。「悪魔」なんて聞こえの悪い存在を呼び出すのだから。
「完成したか。儀式が始まったら合図をするまで声を出すなよ」
ついに悪魔召喚の儀式が始まる。
黒いローブを着た者たちが一斉に呪文を唱え始めた。
宰相はこの空間が異様なものに変わっていくことに驚いた。体が重い。水底にいるかのような圧迫感と息苦しさがある。
儀式用に描いた図形が怪しく光出し、脈打つかのように明滅を繰り返す。洞窟内の影という影が、物凄い勢いで円の内側へと集まる。集まった影はやがて、沸騰した水のようにゴポゴポと泡吹く。
「来るぞ」
男はヒエムスにそっと耳打ちした。
図形内に異変が起こった。
地面から、ヌヌヌヌ……、と頭頂部が出てきたのだ。
その奇異な光景に、ヒエムスと兵士たちが怖気立つ。
徐々に現れてくる「悪魔」の姿をまじない師を除いた一向は、固唾を呑んで見守った。
――なんだ、これは。
声を出すなと言われていなければ、そうもらすところだった。
ヒエムスは唖然とした。床から三十センチほど浮上したまま静止する「悪魔」の姿は、あまりにも想像とは違うものだった。
現れたのは人間の女そのものに見えた。いや、そうとしか思えない。
見慣れぬ形をした紺色の上着と同色のスカート。襟の下で結ばれた赤いスカーフ。すらりと伸びる細い脚、膝下は紺色のソックスが包んでいた。艶やかに光る革靴はつま先が丸く、子供が履く靴のようだった。
腰に届かんばかりの髪は柔らかく細い金糸のよう。あどけなさが残る小さな細面に、色白の肌。鼻は低く鼻先も丸いが、全体的に愛らしさはあった。
細い眉根をぎゅっと寄せて、まぶたも硬く閉じられていた。
怯えるようにまぶたが開き青い瞳が覗く。視点が定まると、やがて激しく動揺し始めた。
「え? え? え?」
大きな目をまばたきさせて、困惑した声がこぼれる。「悪魔」は床につま先を着け、かかとを下ろし、ふわりと降り立った。
呪文を紡ぐ声がぴたりと止み、召喚の儀式が終わる。
傍らの男がちらりとヒエムスを見て、うなずいた。声を出しても良いということらしい。
ヒエムスは恭しくその場で片膝を着き、頭を垂れた。
「ようこそ、ルーメン王国へ。我々の国と世界をお救い頂きたく、召喚させて頂きました。突然のことで、お怒りであろうことは重々承知しておりますが、どうかお聞き届け頂きたく存じます。代わりにあなたの望みはなんでも叶える所存です」
反響した声が岩壁に染み、消えた。瀑布の音以外はなにも無かった。
ヒエムスにとっては耳に痛いほどの静寂だった。耐え切れず、再び声を絞り出す。
「どうか、我々の力になってください」
「い、いやです。帰りたい……」
はっと顔を上げると、若い女は肩を震わせた。
頭を振りながら後退する女に、宰相は焦った。
「美しき御方よ、まず最初にあなたの望みを聞きましょう」
「元の場所に帰して!」
「我らの国を救っていただきましたら、お帰し致しましょう」
「近づかないで!」
どうにか納得させようと詰め寄る宰相を男がとっさに止めた。
女はポロポロと涙を零し、両腕を抱くようにしてしゃがみ込んだ。
「やばいことになったな」
男の声音に緊張が走る。
「ここで印象を悪くしたら、今後に響く。あんたはもう黙ってな」
「しかし、この瞬間のためにわたしは」
「いいから」
男はヒエムスを厳しく見据えた。
周囲の者が静観するなか男はローブを脱ぎ捨てた。
黒い頭髪に、目尻にしわを持つ三十歳はとうに過ぎた顔があらわになる。
「怖がらせるつもりはなかったんだ、ごめんな」
朗々とした声が響く。
女の姿をした「悪魔」は険しい表情のまま押し黙り、足元の一点を見つめて動かない。
「突然呼ばれて、知りもしない世界に来て、助けろなんて意味不明だよな。同じ境遇だったら俺だって怒る。けど、意味なんてあとで知ればいい。とりあえず状況を受け入れたほうが楽になるとは思わないか? ん?」
女の横顔に逡巡が見えた。
男は畳み掛けるように、しかし努めて明るい声で続けた。
「俺の名前はレウェ。王国の城下町に住むまじない師だ。といっても普段は子供に物書きを教えている身だがな。あんたに名前はあるのか」
「猿渡千里」
「サワタリセンリ。長いんだな」
「ち、違います! ……さわ――いえ、えっと。千里です」
「センリ。いい響きだ。それじゃあセンリ、あんたを帰すも帰さないも俺次第だ。ひとまず、俺の手を取ってみないか」
レウェは躊躇なくまっすぐに「悪魔」へと手を差し伸べた。
センリと名乗った「悪魔」は、ゆっくりと立ち上がりレウェの手を取った。
そのやりとりを見てヒエムスはようやく安堵した。
「センリ様を王城へとお連れする。皆の者、移動の準備をせよ!」