願い
アメリカのニューヨークのとある空港。《オーシャン》はそこに現地の朝に漸く到着した。滑走路には、黒塗りのリムジンが何台も待機している。
《オーシャン》が停泊すると、すぐに『白金』の役員たちが降りる準備がなされた。その十数分後、恵良を除く討伐部隊の隊員たちは、『白金』の役員と会長・社長を敬礼しながら送り出した――と言っても敬礼は形だけで、彼らは微塵も敬意を持っていないが。
ちなみに、アメリカの領土内に入ると、何故か『ナンバーズ』は襲ってこなくなった。さながら妖を退ける結界に入ったかのような感覚になっている。
『白金』の連中を送り出した後、雪音は勇気たち四人を管制室に呼び出してミーティングを行った。
「今日もいつも通り訓練を行ってくれ。尾翼の修理で少し騒音が出るかもしれないが、我慢してくれ」
四人が大声で返事をすると、雪音はミーティングを終わらせた。四人が各々管制室を出ていく。
独り管制室に残っている雪音は、昨日自身が言ったことを思い出していた――『白金』は、もとい日本政府は腐っていて歪んでいる、と。
雪音は、悔しさのあまり拳を強く握っていた。自分は討伐部隊の隊長であるのに、部下一人守ることができなかった、と。否、隊長であるからこそ『白金』というスポンサーに振り回されてしまったのだと。
恵良の絶望が多分に混じった叫び声が、雪音の脳内で反芻されていた。自分が指揮を執っていれば、恵良を絶望から救うことができたかもしれないと、今更になって考え始める。過ぎたことだと指摘されればそれまでであるが、今の彼女には『過ぎたこと』と考えることができなかった。
「私は……隊長失格だ」
雪音が独り言ちる。今の『白金』はクソッタレ以外の何物でもないが、それに刃向かえば最悪SW等の支援を打ち切られてしまいかねないというジレンマも抱えている。それを彼女は理解していた。
さらに、雪音にはもう一つ後悔していることがあった。沖縄の事件を思い出してしまったことである。
『白金』の横暴で、彼女は真っ先にそれを連想してしまった。彼女にとって、それは思い出しただけで自身の精神が不安定になる代物であった――彼女の想い人が巻き込まれたのだから。
沖縄の『事故』でも、政府や『白金』は報道規制じみたことをやってのけていた。爆発の原因が判明した途端――その原因の解明も半ば強引なものであったが――、マスコミの報道はピタリと止んだ。昨日雪音が言及していたジャーナリストの夫妻は、その事故の原因を追究している最中に彼らの家がガス爆発で吹き飛んで死亡した。雪音はこれを、あからさまな『対応』だと踏んでいた。
雪音は首をブンブンと振り、息を大きく吸って吐いた。このことはもう忘れよう――雪音は呟いてそうするように努めた。
恵良が目覚めたのは、討伐部隊がミーティングを終えたすぐ後であった。
彼女の目は覚めたが、薬が未だに効いているのか頭は十分に覚醒しておらず、両眼を動かしてカーテンで遮られた空間を視索することしかできない。口の中はカラカラに乾いており、声を出すことすらも叶わない。
彼女は身体・精神ともに衰弱していた。鎮静剤を打たれて寝かされていたとはいえ、昨日から何も口にしていないので、そうなることは必然であった。恵良は口を半開きにしながら、未だにここがどこであるかを把握するのに必死になっている。
すると、カーテンが開かれて恵良に光が差し込んだ。覚醒しきっていない頭では何が起こったのかも分からず、彼女は目を細める。
「恵良ちゃん……、目が覚めたんだね」
優しい雰囲気を醸し出す女性の声。澄佳が恵良の顔を覗き込んだ。
「う……あ……」
「大丈夫だよ。ここは医務室。今、水持ってくるからね」
澄佳は笑っていた。しかし恵良は、先程自身の顔を覗き込んだ女性が澄佳であることは認識したものの、何故彼女が嬉しそうに笑っているのかを理解することができなかった。
恵良が少しの間ぼおっとしていると、澄佳がコップ一杯の冷たい水を持ってきた。彼女は恵良をさながら全介助の老人のように取り扱って、上半身を起こさせる。恵良をベッドの端に座らせ、腕で彼女の姿勢を支えながら、澄佳は彼女の口にコップを持っていく。
「ほら。飲んで」
恵良は自力で、震える両手でコップを掴んで水を一気に飲み干した。しかし、一気に行ったのがまずかったのかむせてしまった。吐きだしてしまった水が彼女の病院着を濡らし、冷温覚が彼女の頭を刺激した。
「あらら……慌てないで飲もうね。大丈夫だよ。もう一杯持ってくるからね」
子供をあやすような澄佳の温かい声に、恵良はむせながらも澄佳の方を見た。
何故自分にこんなに優しく接しているのだろう――恵良は口を拭いながら思った。自分は用済みのはずなのに、死ぬべき存在なのに――彼女の頭は、そこまで思い出すことができるくらいには覚醒していた。
澄佳が、もう一杯水を持ってきた。恵良は今度はそれを慌てずに飲み干す。砂漠のように乾いた身体に潤いが染み込む感触と、冷たい水が身体の中を駆け巡る感触を、彼女は味わった。
死にたいと思っているのに、そのような感触を味わっていることに、恵良は違和感を覚えた。
「もっと欲しい? 欲しかったら遠慮なく言ってね」
澄佳は恵良ににこやかに接する。しかし、恵良はそれに無表情でコップを返した。
「今持ってくるからね」
「……要らないです」
恵良の冷たい返事に、澄佳はキョトンとした表情を見せる。
「……遠慮しなくてもいいんだよ?」
「要らないです!」
恵良が絶叫し、押し付けるようにしてコップを澄佳に返す。澄佳はそれを受け取ると、悲しげな表情をして自分のデスクに戻っていった。それを一瞥することもなく、自分の身体が濡れているのも気にせず、恵良はシーツを頭まで被って動かなくなってしまった。
「恵良ちゃん……」
彼女の苦しみは尋常ではない――澄佳は雪音から説明されたことが理解できた気がした。
澄佳は恵良に鎮静剤を打って寝かせた後、雪音から事情を説明された。その時にも彼女は大きなショックを受けたが、今になって、恵良のショックが尾を引いていることを実感した。
兎に角今は彼女を見守るしかない――澄佳はそう考え、悲しげな雰囲気でため息をついた。
ニューヨークに到着して、早くも二日が経った。恵良以外の討伐部隊の面々は、相変わらず重力粒子発生装置抜きのシミュレータで訓練をしている。しかし、装置なしの訓練に物足りなさを感じているのもそうであるが、恵良がいないことが四人の間の空気を二日間ずっと重くしていた。
特に勇気は、時々抜け殻のように気が抜けていた。それを度々礼人や雪次にどやされたり、賢に心配されたりしていた。それでも、勇気をどやしている二人も彼のことを心配していた。
午前の訓練が終わると、四人は食堂で昼食をとっていた。しかし、今までとは雰囲気が異なった。
四人が固まって、同じテーブルで昼食をとっているのである。
礼人・賢・雪次の三人は、いつも以上に勇気とコミュニケーションを取ろうとしていた。彼は恵良がいないと途端に沈鬱な表情になり、それを三人は見ていられなかった。
三人は勇気が気を紛らわすことができるように、彼と会話をするように努めた。実際に、勇気は三人の前では笑顔を見せていたので、三人の目論見は成功した。
四人が昼食を取り終え、訓練室へ向かうときも、会話は欠かさなかった。一時的に恵良がいなくても勇気の気持ちを沈ませないように、三人は常に気を配った。
すると、訓練室に着いたとき、礼人が調子に乗り始めた。
「なあ、勇気」
「何でしょうか?」
「この前の、『お姫様抱っこ』って奴を教えてやるよ」
勇気が興味深そうに目をキラキラさせる。礼人の表情もにこやかである。
すると、礼人が突然勇気を横にして抱え上げた。勇気が呆気にとられて、すぐ近くまで迫った礼人の顔をじっと見る。
それからワンテンポ置いた後、勇気は素っ頓狂な悲鳴を上げて礼人の両腕の中で暴れまわった。それを礼人はカラカラと笑いながら落ち着いて降ろす。床にへたり込むことしかできない勇気は、顔を真っ赤にして息を荒げながら笑っている三人を見上げている。
「い、いきなり何するんですかっ。ビックリしましたよ!」
「これが『お姫様抱っこ』ってやつだ。実演しただけだろ? そんなカッカするなって」
「だからって、自分で試すことないでしょう!」
勇気はまだ顔を赤らめている。勇気が幾分か落ち着くと、礼人が腕を引っ張って立たせる。
四人の雰囲気は、一気に明るくなった。三人は恵良がいなくても、勇気を明るくすることができた。
「さて、そろそろ訓練の時間だ。準備してくる」
雪次が、午後の訓練の開始を告げた。四人は明るい雰囲気のまま、訓練に臨もうとしていた。
午後の訓練が終わり、勇気たち四人はいつも通り雪音に呼び出されてミーティングを行っていた。雪音から四人に対して特に連絡はなく、四人から雪音に対しても同様に連絡は無かった。
何事もなくミーティングが終わり、四人が敬礼をして管制室を出ようとする。すると、勇気だけが雪音に呼び止められた。
勇気は、自分だけが呼び止められたので、雪音が何を言おうとしているのかを大体は察した。
「勇気。これから私と一緒に医務室に行こう」
「……恵良のお見舞いですか?」
雪音が勇気に向かって頷く。その返事に、勇気は浮足立った。俄かに心拍数が増加する。しかし、それに反して雪音の表情は暗くなった。
「だが……恵良は今衰弱していると澄佳が言っていた」
「衰弱……?」
勇気は茫然として雪音の言葉を鸚鵡返しした。
「ああ。恵良は弱っている。精神的にも不安定だ。だが話し合うなら今しかないとも澄佳は言っていた」
「……分かりました」
勇気は俯いて、唇を噛み締めた。恵良の状態がここまで酷くなっているとは思ってもいなかったからである。
「勇気、大丈夫だ。お前のありったけの気持ちを伝えればいい。そうすればきっと恵良も聞いてくれるだろう」
「ありったけの、気持ち……」
勇気が顔を上げると、雪音が微笑んでいた。
「そうだ。お前が恵良に思っていること、全て吐きだしてしまえばいい」
勇気はその言葉に頷いた。彼の中に、彼にも不思議なくらいに自信が湧いてくる。彼は恵良のいいところしか知らなかったので、彼女に肯定的な気持ちしか持っていなかった。それが自身の強みだと彼は気づく。
「分かりました! 自分が……恵良を救います!」
「よし。じゃあ、行こうか」
雪音が椅子から立ち上がり、管制室のドアを開けて外に出ると、勇気はそれに追随した。
――恵良……俺が今助けるから……。
勇気は拳を握りしめて決心した。その目には、戸惑いや迷いはなかった。
ニューヨークに到着してから二日間で、恵良は大きく変わってしまった。
彼女のベッドの周りはカーテンで遮られており、暗さも相まってその空間自体が異常な雰囲気に包まれていた。
この二日間、殆ど食物を摂っていないので、彼女には起き上がるどころかベッド上で動く気力すら殆ど残っていなかった。唯一彼女が口にしたものと言えば、少量の水のみである。点滴を用意していなかったので、緊急の栄養補給も叶わなかった。
心労も相まってか髪は乱れ、頬はこけ、さらにこの二日間で殆ど睡眠をとっていなかったので目の下にはくまができていた。着衣も乱れており、病院着がしわだらけになっている。以前までの健康的で快活な恵良とは似ても似つかない、酷い姿であった。目は死んだ魚のようであり、何が見えているのかも判らなかった。
医務室の澄佳はこの状況をなんとかして変えようとしたが、恵良は彼女の問いかけにはまともに応じず、水を持っていくと辛うじてコップに口を付けて飲む程度の反応しか見せることは無かった。彼女が恵良から聞いたものと言えば、何を言っているのかも解らない掠れた呻き声であった――その頻度もごく僅かであった――。彼女は、時が経つにつれて確実に弱っていっていると解る恵良を見ることが耐えられなかった。
更に、同じく医務室で澄佳のお世話になっている舞香も、恵良を心配していた。彼女は恵良に話しかけようとしたが恵良が話しかけてくれるわけもなく、終いには澄佳からストップを言い渡された。舞香も、恵良の現状に心を痛めていた。
恵良は、まさに死にかけているのである。
そこに、勇気と雪音がお見舞いに来た。雪音は勇気を先に部屋に入れて外で待機している。
入ってきた勇気を、澄佳は笑顔で迎え入れた。
「勇君、来てくれてありがとう」
「いいえ、礼には及びません。恵良はこのカーテンの中ですか?」
澄佳は笑顔が消えて、勇気に向かって頷く。勇気は意を決してカーテンを掴んだ。
「恵良……。開けるよ」
カーテンが開かれる音とともに、ベッドに横たわっている恵良が姿を現した。彼女は勇気に背を向けて寝ていた。
勇気はその姿に絶句した。小さい背中がより小さく見え、乱れた髪と着衣を見て、彼女が後ろ姿だけを見ても荒んでいるのが彼には分かった。
それでも勇気はそんな恵良に優しく接しようと努めた。澄佳が用意してくれた丸椅子に座り、彼女を見つめながら話し続ける。
「恵良。俺だ。勇気だよ」
恵良に聞こえるような声で、しかし大きすぎない声量で勇気は話しかけた。彼女に通じるよう、彼は心の中で祈っている。
すると、その祈りが通じたのか、恵良がゆっくりと寝返りを打って此方を向いた。勇気は逸る気持ちを抑えて、恵良の顔を見ようとする。
しかし、彼女顔が此方を向いたとき、勇気は閉口した。こけた頬、目の下のくま、輝きを失った瞳――全てが彼にとって痛々しく映った。それでも勇気はそれを顔に出すのを堪え、恵良と目を合わせようとする。
「恵良、聞こえる?」
勇気が恵良に話しかけると、彼女は首を僅かに動かして彼の方を向こうとした。半開きの口を微かに動かしている。
「ゆ……う、き? どう……し、て……ここに……」
恵良はこの二日間まともに言葉を発していなかったのか、掠れた声でたどたどしく言葉を発した。すると二人の間に澄佳が断りを入れて割り込んで、恵良にコップ一杯の水を飲ませた。彼女の口の周りと喉が潤う。
「恵良に、話があるんだ。とても重要な話が」
「じゅ……よう、な、話?」
恵良の口が回り始めた。勇気が大きく頷く。そのすぐ後、彼は大きく深呼吸をした。その様子を、恵良は口を半開きにしながら訳も分からず見つめている。
「恵良に、生きていてほしい。俺には、討伐部隊には、恵良が必要なんだ!」
勇気は思いきって声を出した。これは彼の、討伐部隊全員の願いだった。勇気が縋るような目つきで恵良を見つめる。
しかし、彼女は勇気から目を逸らした。口も真一文字に引き結んでいる。勇気は愕然とした。
「そんな……どうして――」
「私は、いらない子」
恵良が掠れた声を出して皺だらけのベッドの上で丸まった。
「私は……裏切られて、捨てられて、もう行き場がない。死んだ方が、まし」
「そんなことない! 討伐部隊っていう居場所があるじゃないか!」
勇気は思わず椅子から立ち上がっていた。ガタリと大きな音が医務室の中で響く。
「俺は恵良が解ってくれるまで何度でも繰り返す。恵良は『ナンバーズ』を倒してくれた。この国のために役に立ってくれている。それと、何より、恵良はいるだけで討伐部隊の皆を元気にしてくれる!」
勇気の声は大きくなっていた。それでも恵良は彼の方を向こうとしない。
「それと……、俺は……恵良に助けられた。恵良がいなかったら、俺はきっと立ち直れなかった。だから、恵良がいないと……俺は……」
そこまで言って、勇気は力なく丸椅子に座った。彼の目には、涙が溜まっている。
「俺には、恵良がいないとダメなんだ! 恵良は俺にとっての『光』だから……俺にとって必要な存在だから! だから恵良が落ち込んだときには、俺が『光』になりたい。恵良に恩を返したいんだ!」
その言葉を言い、勇気は純粋な瞳から涙を零した。少し嗚咽も漏れている。自身が恵良に抱えていた気持ちを全て吐きだした。
恵良は勇気の必死な告白を聴き、固まってしまった。しかし、彼女の表情は今まで死人のようなものではなく、心底驚いている時に見せるそれであった。
恵良には、勇気が何故そこまで自身の生に執着するのかが解らなかった。自身の生殺は自身で決めるものだと思っていた――それが彼女の中で揺らぎ始める。
更に、彼女の中で自身が必要のないものという認識も朧げになり始めていた。勇気の涙声が、彼女の頭の中で響き始める。それに彼女は頭を抱えてさらに丸まった。息遣いも荒くなる。
「……いや」
「え?」
勇気がキョトンとした顔で、丸まっている恵良を見る。
次の瞬間、恵良が獣のような叫び声を上げた。勇気が驚いてのけ反ると、我に返って彼女を凝視した。
「恵良、どうしたの!?」
勇気が恵良に向かって手を伸ばして触れたその時、恵良が彼の手を女性とは思えないような強い力で振り払った。
その衝撃で、彼は尻餅をついてしまった。すぐさま澄佳が駆け寄る。
「大丈夫、勇君!?」
「自分は……大丈夫です……」
勇気は狐につままれたような顔で、発狂している恵良を見つめていた。恵良は未だに叫び声を上げたまま暴れている。勇気は澄佳に介抱されて立たされた。
「恵良ちゃんが暴れちゃったから、お見舞いはこれで終わりにしてほしいの。ごめんね……本当にごめんね!」
澄佳が酷く悲しそうな顔で勇気に告げると、勇気は頷きもせず、彼女に感謝の言葉も伝えずに医務室を出ていった。その足取りは覚束なく、医務室を出てドアが閉まった途端にガックリと膝を折った。それを見た雪音が勇気を介抱する。
「大丈夫か、勇気?」
「……自分は大丈夫です。ですが、恵良が――」
「分かった。お前は自分の部屋に戻ってくれ」
勇気は雪音の方を見ようともせず、ただ彼の真正面の壁を見ながら返事をした。その尋常ではない様子に、雪音の表情も暗くなる。
「……私がついて行こうか?」
「……自分一人でも行けます」
勇気はそう返すと、一人でフラフラと歩きだした。今にも頽れそうな彼を雪音は見ていられず、医務室のドアを見つめ始めた。
「勇気……恵良……」
雪音は悲しげな表情をして呟いた。隊員が壊れる姿を見るのは、彼女にとってこれ以上経験したくなかった。
雪音は、意を決したかのように唇を引き締めた。
勇気は、自分の部屋に帰るときも、自分の部屋に着いてベッドの端に腰かけているときも、医務室で見せた狐につままれたような顔を崩していなかった。彼はベッドに腰かけた途端、ガックリと首を垂れた。
拒絶された――勇気が恵良に手を振り払われた時に思ったことである。
自身の気持ちはありったけ伝えたつもりだった。恵良に対する自身の想いを精一杯訴えたつもりであった。
それを、拒絶、さらには発狂という形で返された。彼が驚かない筈がなかった。
「どうして……」
勇気には、今の恵良の気持ちが解らなかった。家族から捨てられた者の気持ちを汲み取ることができなかった――たとえ汲み取ったとしても、勇気なら先程と同じ反応をするだろうが――。
勇気は頭を抱えた。恵良に拒絶されたと思っている。彼女に拒まれると、彼はどうしてよいのかが分からなくなり、視界が黒に包まれた。
「恵良、恵良……」
勇気は静かに泣き始めた。嗚咽が静かな部屋に響き始める。
止まらない涙と胸の痛み。今の勇気には、どうすることもできなかった。