絶望
横須賀基地に併設されている軍病院。その五階にある入院棟の最奥部の個室に、重傷を負って搬送された勇気は寝かされていた。病室のドアの前には、衛兵が二人監視している。
そんな彼は、誰もいない個室で独り、目をぼうっと開けて起きていた。彼が目覚めたのは搬送されて手術を受けてから三日後であり、こうして起きて一日経っても麻酔が未だに効いているかのように一言も発さずに虚空を見上げている。
彼には心電図の電極が取り付けられており、ベッドの横には彼が生きていることを示す機械が一定の間隔で音を出して動いている。また、酸素マスクをし、病院着を着用し、胸部にはしっかりと包帯と固定用のバンドが巻かれている。彼の肋骨の一部にひびが入っているためである。そのため、彼は痛みで動くことができない。
勇気が目覚めてから一週間経っても、彼は呻き声しか発さなかった。更に痛みとその他の理由で夜は眠れず、彼の目にはくまができていた。病室に入ってくる人といえば、討伐部隊の専属医ではない顔も分からない男の医者と複数の看護師のみであった。
勇気がうまく眠れない理由として、痛みの他に、彼は目覚めてから毎夜毎夜同じ夢を見ていた。その内容は、彼にとって悪夢であった。
猿ヶ森の上空。そこをゆっくりと降下していくものがいる。
討伐部隊の隊服を着た勇気である。
彼は自分の乗機である《ライオット》と、敵である咲宮の《ペニーウェイト》を残して、空をゆっくりと降下していっているのである。彼の視界には、広い大空とそこに浮かんでいる二機しか映っていなかった。
勇気は、何故自分が機体をおいて落ちていくのか分からず落下していく。身体はピクリとも動かず、風を切る音で彼の耳は塞がれている。
落ちていく先は、広大な海。勇気は水面に叩きつけられるが、不思議と痛みはない。
それでも、彼の目は覚めない。
それから彼は、海中へと沈んでいく。ゆっくりと、確実に沈んでいくのである。
その時彼は、水の中でも呼吸ができ、普通なら感じる筈の海水の冷たさを感じない。身体は全く動かず真上だけを見つめ、地上の光が遠ざかっていくのを見つめながら自分が沈んでいく様を実感していくのである。
それから、地上の光が完全に消えてなくなった時に、勇気は決まって目覚める――病院着と枕をぐっしょりと濡らすほど汗と涙に塗れ、呼吸を荒げながら。
勇気はどうすればこの悪夢から解放されるのかが分からなかった。それは彼にとって、恐怖以外の何物でもなかった。
勇気が病院に搬送されて、三週間が経過した。このころには既に痛みは引いており、レントゲンを撮っても肋骨のひびは見られなくなっていた。胸のバンドはまだ外してはいけないものの、心電図の電極と酸素マスクは取り外され、彼の拘束は幾分か解かれた。
しかし、殺風景な個室に独り閉じ込められているという状況は変わらなかった。勇気は検査の帰りに部屋に戻る途中、付き添いの衛兵に尋ねた。
「自分は……誰にも会わせてもらえないんでしょうか」
勇気の声はかすれ、覇気はない。衛兵の一人が彼を睨みつける。
「お前はまだ誰にも会ってはならない。事情聴取が終わっていないからな」
「事情……聴取?」
初耳のことに、勇気は恐る恐る呟いた。
「そうだ。詳しいことは分からないがな。さあ、入れ」
勇気は陰鬱な表情で個室に入り、ベッドに仰向けになった。その目は何か得体のしれないものに怯えているようである。
――俺、これからどうなっちゃうんだろう……。
勇気はギュッと目をつぶった。兎に角、怖いものから目を背けたい気持ちで一杯であった。
肋骨のひびがほぼ完治してから二日後、それは突然やってきた。
昼頃、勇気が入院している個室に、五人の軍服姿の男たちと三人の背広姿の男たちがノックもなしに入ってきた。勇気はその光景に絶句するほかなかった。
しかし、軍服姿の男の中で、勇気に見覚えのある人が混ざっていた。彼のことをニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら見つめている男――第1部隊の横田である。勇気は彼を見て感づいた――これから事情聴取とやらをやるのだと。
「討伐部隊隊員の灰田勇気。これから、少し質問をする。それらに正直に答えてくれ」
軍服姿の男の中で一番の年配が低い声で勇気を威圧する。彼は言われるがままに頷いた。
「それでは始めよう」
先程の男が勇気が同意したのを確認してから言うと、背広姿の男の一人がマイクを取り出して音声を拾おうとした。勇気が上半身を起こす。
まず、軍服姿の年配の男が勇気の隣に座り、ポケットから手のひらサイズの黒い直方体を取り出した。
「これから、お前とサキミヤという男の通信を聞いてもらう」
男が言うと、直方体から突き出ている丸いスイッチを押した。そこから、猿ヶ森の上空での戦闘時の音声が流れ始めた。
それを聴いて、勇気は全てを思い出した。咲宮は『あの施設』の出身であること、そして彼は非人のような扱いを受けていたこと、それが理由で日本に対して復讐心を持ち『ナンバーズ』に加担して襲撃をしたこと。彼の顔面は蒼白になった。
さらに勇気は、自分自身が咲宮に真実を突きつけられたことも思い出してしまった。その無線の中でも聞こえてきた『真に受けるな』という雪音の注意は、彼の中ではシャットアウトされていた。あの施設出身というだけで、身体にも心にも一生消えない傷を背負ってしまったことを痛感していた。
勇気は音声記録を聞いているうちに、頭を抱えて蹲ってしまった。これ以上聴きたくないと意思表示しているかのように、耳を塞いでいるようにも見える。呼吸は荒く速くなり、額からは汗が滲み出ている。
「最後まで聞いてもらおうか」
年配の男が少し苛立った口調で言うと、周りの軍服姿の男二人が勇気の腕を取り押さえた――なお彼の左腕は横田が掴んでいる――。必死に抵抗する勇気であるが、衰弱しきった身体で軍人二人に勝てるわけがなく、呆気なく頭を覆っていた腕は引きはがされた。結局勇気は通信を最後まで聞き、終わったころにはあの悪夢を見た後のように衰弱していた。
ベッドにぐったりと仰向けになっている勇気に向かって、軍服姿の年配の男が容赦なく質問をする。
「これがお前があの男と会話した全てか?」
勇気は言葉を発することもできず、ただ頷くことしかしなかった。年配の男が小さく頷き、両端の二人に目で合図を送り勇気の腕の拘束を解いた。その左にいた横田は勇気の腕を離すとき、まるで汚らしいものを放り投げるかのように彼の腕を扱った。痛みに勇気は顔を顰める。
「他に、お前が話したことはないのか? 正直に答えろ」
男の質問に、勇気は俯いたまま押し黙った。集団の視線が彼に集中する。すると、十秒経っても答えない勇気に業を煮やした横田が彼の病院着の胸倉を掴んだ。
「答えろっつってんだろ。それとも何だ? 言えないことでもあんのか、あぁ?」
横田が勇気を恫喝するが、周りの男たちは誰も止めようとはしない。それでも勇気は答えなかった。胸倉を掴まれたことで肋骨の傷に響いてしまい、苦しそうな呻き声しか出すことができないからである。横田の言っていることも聞こえず、彼はただ痛みに悶絶していた。
「横田、離してやれ」
年配の男が、漸く横田を止めた。横田は舌打ちをすると、勇気の胸倉を離した。
「もう一度訊く。お前が話したことは他にないのか?」
「……ありません」
勇気はやっと口を開いた。弱々しく痰が絡んだような掠れた声で答え、涙目で集団を見つめる。
「そうか。ではさっきは何故黙っていた?」
高圧的な物言いをする年配の男を、勇気は睨むように見つめた。それに横田が反応する。
「おい、何だその目は?」
「……どうして」
勇気が発した低い声。それに男たちは注目した。
「どうして、『あの施設』出身の人は、差別してもいい対象なんですか? 自分もそうなんですか?」
痛みをこらえて、勇気が一言一言話し出す。しかし、男たちは鼻で笑っているかのような目つきで彼を見ている。
「そんなことは今関係ない。我々の質問に答えろ」
年配の男の冷徹な言葉に、勇気は言葉を失った。
「我々の質問に答えろ。何故さっきは黙っていた?」
年配の男が、少しずつ苛立ちを見せ始めている。勇気は男に目を向ける。
「……考えていたんです。自分や咲宮が何故このように見下されるのかを。決して答えられないものがあるということではありません!」
勇気の声は小さかったが、語気は強く聞こえる。年配の男は、頷くだけに留まった。
「よろしい。本当にないのだな?」
「ありません。絶対に」
勇気が鋭い視線で年配の男を見つめる。
すると、質問をした年配の男が背広姿の男に目で合図をして、マイクをしまわせた。それを見た勇気は、漸く事情聴取が終わると思った。
しかし、部屋を出たのは背広姿の男たちのみで、軍服姿の男たちは残った。怪訝に思った勇気は、不安そうにドアと集団を交互に見つめる。
「……事情聴取は、終わったんですか?」
「ああ、終わりだ。これから我々も出る」
勇気は内心ホッと胸を撫で下ろしながら男たちを見ていた。年配の男から彼の個室を出ていこうとする。
しかし、軍服姿の男たちが去っても一人だけ部屋を出ない者がいた。
横田である。
彼は勇気のベッドの横に立ち続けている。それだけで、勇気は居心地が悪く感じていた。思い切って、勇気が横田に尋ねる。
「……出ないのか?」
「ああ、出るよ。てめえが知りたかったことを教えてからな」
勇気の表情が一瞬にして強張り、心拍数が跳ね上がる。横田は下卑た笑みを彼に向けるだけである。
「てめえは『あの施設』の出身なんだよな?」
「……ああ」
「じゃあてめえはゴミ扱いされて当然だな」
へらへらと笑う横田を尻目に、勇気は凍り付いていた。自分のことを再びゴミ呼ばわりしたのだから。さらに横田は、笑みを浮かべながら続ける。
「てめえはなぁ、いちゃあいけない存在なんだよ。特にお偉いさんが集まるこの日本軍にはなぁ」
「……どうしてだよ。なんで、俺が――」
「サキミヤ? って奴が話してたな。『あの施設』出身の奴は、社会の底辺でゴミだって。馬鹿にしたり、見下してもいい存在なんだって。あいつの言ってたことは、ぶっちゃけ正解だ」
勇気は目を見開いて横田を見つめた。彼の人を小馬鹿にしたような笑みは、崩れていない。
すると、横田がいきなり勇気の胸倉を掴んだ。顔をぐっと近づけて、勇気を睨みつける。勇気は完全に委縮してしまっている。
「てめえみてえな奴がいるとなぁ、その場が汚れるんだよ! てめえの周りの人間はそう思ってるはずだぜ?」
そう言って勇気を乱暴に突き放すと、唖然としている彼を見ながら横田はゲラゲラと笑い始めた。勇気の目には、涙が浮かび始めている。彼は色々なところが痛んでいた。
「ああ、そうそう。たった一つてめえに感謝しなけりゃいけねえことがあるんだ。サキミヤって奴は、てめえが殺した。社会のゴミを駆除してくれてありがとよ」
そう言うと、横田はまた声を上げて笑い始めた。勇気は黙りこくって彼の話を聴くことしかできなかった。
咲宮が死んだ――そのことは勇気にとって初耳であった。日本に対して様々な恨みを残して死んでいったのだと考えると、彼の心は不思議とどこか痛むような感じを覚えた。
そして、勇気は今なら咲宮の恨みを少しだが理解できるような感じがしていた。本当は彼の信条においては絶対にしてはいけないのだが、日本社会から切り捨てられた者として同情の念さえ抱いていた。
勇気がそのようなことを考えているうちに、横田は彼の個室から消えていた。独りぼっちになった部屋の中で、勇気は先程の事情聴取で言われた内容を思い出していた。
軍人の高圧的な態度も、その時の苦しみも、横田から受けた侮蔑も、咲宮を殺した罪悪感も、すべて。
――最後まで聞いてもらおうか。
――じゃあてめえはゴミ扱いされて当然だな。
――サキミヤ? って奴が話してたな。『あの施設』出身の奴は、社会の底辺でゴミだって。馬鹿にしたり、見下してもいい存在なんだって。あいつの言ってたことは、ぶっちゃけ正解だ。
――てめえみてえな奴がいるとなぁ、その場が汚れるんだよ! てめえの周りの人間はそう思ってるはずだぜ?
――サキミヤって奴は、てめえが殺した。社会のゴミを駆除してくれてありがとよ。
勇気の身体は、震えていた。周りどころか国から自分一人が疎外され、まるで汚物のような扱いを受けていることを理解したためだ。
彼の考えが、確信に変わった瞬間だった。
勇気の頭の中では、自身が受けた侮蔑の言葉がぐるぐると廻っている。さらに、咲宮の言葉も思い出されていた。
「なんで……なんで……」
勇気は歯を食いしばった。怒り、悲しみ、絶望――ありとあらゆるネガティブな感情が彼の中を支配する。
彼は静かに泣き始めた。それでも静かなのは見かけだけで、彼の中では発狂が始まっていた。
勇気が静かに発狂している時、病室の外では二人の白衣を着た人物が耳をそばだてていた。
雪音と澄佳である。
雪音は澄佳に、肋骨のひびが完治する日数を教えてもらい――肋骨のひびがほぼ治るために必要な期間は二・三週間である――、そのタイミングに合わせて毎日病室の前を訪問していたのだ。そして勇気の事情聴取の場面に出くわし、横田に真実を教えられたところを聞いてしまったのである――ちなみに横田は彼女らの存在に気付かず、満足気に病室を出ていった――。
二人は憤っていた。雪音は病室から出てくる横田を捕まえて説教してやろうと澄佳に進言したが、彼女はそれを止めた。面倒なことを起こせば、討伐部隊には兎も角、勇気自身に火の粉が飛ぶ危険があるからだと澄佳は雪音を説得した。
勇気の静かな泣き声が漏れ出てくる中、雪音は考えていた。
「あいつは……こんなにも苦しい思いをしてたのか」
「カルテで勇君の全身画像を見せてもらいましたが、勇君がいじめを受けてたってのは本当みたいですね」
そう言って澄佳は、本当はダメなんですけど、と一言おいてポケットから一枚の写真を取り出した。それには、勇気の裸の上半身の画像が写っている。
「これは――」
雪音は絶句した。勇気のきれいに割れた腹筋に、白い跡がぽつぽつと付いている。これが火傷の跡ということは、彼女には容易に想像できた。
「『根性焼き』の跡、みたいです。おそらく、いじめの一環かと」
「これも、鬱憤晴らしか……」
雪音からは、ため息すら出てこなかった。澄佳は落ち込んだような表情で雪音を見る。
「勇君がこんなことになってたと気づかなかったことは気にしないでください。勇君本人だって、こんなこと誰にも言いたくなかったでしょうから」
「……気にしてても仕方ない、か。そうだな。それよりも、あいつの心をどうやって治すか――それが問題だ」
二人は共に頷いた。
「勇君のアイデンティティって、何ですか?」
唐突に、澄佳が訊き始めた。雪音は半ば呆れ顔で彼女を見つめる。
「話の流れから分かるだろう……。あいつは日本のために『ナンバーズ』を倒したい、日本を守りたいという一心で頑張ってる。アイデンティティといえばそれだろう」
「では、そこをつつけばどうでしょうか? 要するに、勇君を認めてあげればいいんですよ。軍人として、一人の人間として」
澄佳は微笑んでいた。まるで解決の糸口をつかんだかのように。
「そうは言っても、だ。今は落ち着かせるのが一番だろう。下手に刺激しない方がいい」
「そうですね……。でもすぐに実行するのがいいと思います」
すると、澄佳は歩き出した。そんな彼女を、雪音が呼び止める。
「どこへ行く?」
「事情聴取が終わったので、専属医としてここに留まる許可を貰いに行きます。許可を貰ったら貴女に連絡しますので、一旦艦に戻ってください。長居はするなと言われていますので」
「ああ、分かった。ここは一旦行くとしよう」
雪音は澄佳に写真を返した後、白衣のポケットに手を突っ込んでここから退散した。その道中、雪音は勇気のことだけを考えていた。
「勇気……今助けるからな」
雪音は《オーシャン》に戻り管制室に入ると、すぐに討伐部隊の隊員を呼び出してミーティングを開いた。四人が並ぶと、雪音は軽く咳払いをする。
「いきなり呼び出してすまない。少し報告がある」
四人は緊張の面持ちで雪音を見つめている。
「勇気の事情聴取がついさっき終わった。澄佳は勇気の個室に入る許可を得たそうだ。これで我々もやっと勇気と接触できる」
澄佳は雪音が艦へと戻る途中に、許可を得た。
雪音が告げると、男三人は驚いたような表情になり、恵良は花が咲いたような笑顔になった。
しかし、雪音の表情は暗いままである。それに気づいた四人は、一気に緊張の面持ちになる。
「だが、勇気の精神は今かなり不安定だ。私と澄佳が少し盗み聞きしたところ、あいつはかなり罵倒されていた」
「……そんな」
恵良が絶望しきった表情で雪音を見つめる。雪音はそんな彼女の顔を見て悲し気な表情になった。
「社会のゴミだ、お前がいるとその場が汚れる――言いたくもない罵倒の連続だった。さらに、あいつは存在そのものを否定されたと思いこんでいるらしい」
「勇気が何したっていうんだ!?」
突然、礼人が大声を上げた。彼は怒りで顔を真っ赤にしている。
「はっきり言おう。あいつは何もしていない。『施設』とやらの出身だっただけだ。それにも拘らず、軍の中では殴る蹴るの暴行を繰り返され、『根性焼き』は何度もされ、ゴミ扱いされていたんだ!」
雪音が怒鳴った。流石の礼人も、彼女の怒鳴り声に気圧される。
しかし、恵良は雪音の怒鳴り声に圧されることなく、唇をちぎれんばかりに噛みながら心底悔しそうな表情をして俯いている。彼女の目には、涙が浮かんでいた。勇気がこんなにも辛い思いをしていたとは、彼と咲宮との無線で聞いたことがあったが、こんなにも具体的に聞くことになるとは夢にも思っていなかったからである。
雪音が大きくため息をつく。落ち着いたところで、彼女は恵良を見つめた。
「そこで、だ。これから勇気が寝たのを澄佳が確認したら、お見舞いに行ってもらおうと思う」
恵良が顔を上げる。そこで漸く、彼女は雪音が自身を見ていることに気付いた。
「恵良。お前と私とでお見舞いに行こう」
恵良はハッとした表情になって雪音を見つめる。雪音が話を続ける。何故か彼女は口角を上げていた。
「あくまで私は部下の監視役だ。勇気の心を支えてやれるのは、お前だけだ。流石の私も、お前と勇気の仲に入ることはできない」
恵良はポカンとした表情になった。そこを、右隣に立っていた礼人が笑みを浮かべて彼女の頭に手をポンと乗せた。恵良はそのまんまの表情で彼を見つめる。
「頼んだぞ。あいつは俺たちにとって必要なんだ」
次に、雪次が恵良に近づいて彼女の左肩にポンと手を乗せる。彼もまた、笑っている。恵良は今度は左を向いた。
「お前ならできる」
最後に、賢が恵良に近づいてきて、ニッコリと微笑みながら頷いた。
四人の笑顔に囲まれて、恵良は途端に勇気と元気が湧いた。忽ち彼女の顔が自信に満ち溢れる。
「はい。私が、勇気を元気にします!」
「その意気だ。そうと決まれば準備だ。さあ、行くぞ」
雪音に促され、恵良は大きく返事をした。
だが、恵良の考えは違った。自分が勇気を立ち直らせる、自分にしかできない――恵良はそのような使命よりも、仲間として、自分にとって大切な人として、勇気を元気にすることを優先して考えていた。
勇気が悲しい思いをするのは見たくない、勇気にはいつも笑顔でいてほしい――恵良はそればかりを考えていた。
恵良は自分の部屋で準備を済ませると、洗面台の鏡を見つめていた。
彼女はいつも勇気と分け隔てなく接していたが、今回は緊張していた。彼女は今の勇気を見ていないが、彼は今下手に扱ったら簡単に割れてしまう陶器のようなものだと考えているからである。
それでも――恵良は目を閉じながら深呼吸をして心を落ち着けた。
無事でいなかったことは怒らないであげよう、今は、そしてこれからも、彼と一緒にいたいから――恵良は想い、目を開ける。
「白田恵良、行きます!」
鏡の前で、恵良は静かに呟いた。自分にとって大事な人を救うために、一歩を踏みだそうとしていた。