ぎん2(こねこ)・後半
窓から射しこんでいた夕日が沈んでしばらくすると、戸津アニマルクリニックの待合室で待っていたテンヘイたちの目の前で、診察室の扉がゆっくりと開いた。
長椅子でそわそわしていたヒナタとテンヘイは、弾けるように立ち上がった。
「「ぎんは!?」」
診察室から出てきたカエデはにっこりと笑った。
「だいじょうぶ。ちょっとカゼひいちゃっただけみたい。いまは疲れて眠ってるけど、あったかくしてればすぐに治るって」
カエデの腕の中のぎんは、小さく丸まって眠っていた。
静かに上下する胸の動きを確認して、テンヘイとヒナタはほっと一息をついた。
まだ子猫だからかなり心配したのだ。
ぎんを囲む三人に、カエデのママが頬笑みかける。
「ほんとよかったわ。……でも、テンヘイくんにヒナちゃん、もうお母さんが心配してる時間だから、帰ったほうがいいわよ」
「えー。もうちょっとぎんといるー!」
「ぼ、僕も……」
頬を膨らませたヒナタの後ろで、テンヘイが遠慮がちに言う。
カエデのママは首を振った。
「ダメよ。あなたたちのお母さんはね、あなたたちがぎんちゃんを心配するよりももっと、あなたたちのことが心配なんだから」
「えーそんなことないよー! ヒナのママすぐ怒るもん!」
「心配だから怒るのよ」
「うそだー」
「ほんとよ。だからね、今日はもう帰りなさい」
けっきょくカエデのママに説得されて、ヒナタとテンヘイは家に帰った。
テンヘイはお風呂に入ってから、寝巻に着替えると自分の部屋の窓から庭をみおろした。庭には雑草が伸び放題で、しばらく手入れされていないことがわかる。いままでヒナタやカエデやミナトといっしょに遊ぶくらいで、ほかに使うことがなかった庭だ。あそこでぎんと遊べたら楽しいだろうなぁ、と思った。
……あ、そうだ。
テンヘイは思いついたことがあり、リビングに降りてミナトに電話をかけた。
すぐにミナトの家に繋がった。
「もしもしみーちゃん、あの、聞きたいことがあるんだけど……」
「なんだテンヘイか。テンヘイからかけてくるんてめずらしい」
それもそのはず、ミナトの言葉はなんとなく冷たくて、怖いのだ。
臆病なテンヘイはすこしだけミナトが苦手だった。
「う、うん。あのねみーちゃん、今日ね、ぎんがカゼひいちゃったんだけど……」
「ヒナから電話があってきいたけど」
「そうなんだ……それでね、ぎんのためにできることって、僕たちにないのかな?」
「カエデが看病するからなにもないとおもうわ。カエデはしっかりしてるから、わたしたちがなにもしなくてもぎんはすぐに元気になるはず」
ばっさりと言い切ったミナト。
テンヘイは言葉につまったけど、ぎんのためになにかしたいという気持ちが、このときばかりは勝った。
「なんでもいいんだ……なんでもいいから、できること、ないかな?」
「……。ならひとつだけ。ぎんはカゼを引いて温かくしないといけない。あしたはがっこうがお休みだからカエデがずっとみてあげられるけど、カエデのママは看護師だからお仕事があって家にかえれない。カエデはひとりでぎんのめんどうをみながら、自分のこともしないといけない。ごはんもトイレもお風呂も、ぎんのことを気にしながらしないといけない。これはたいへんなことだと思うわ」
「あ。……そうだね! ありがとうみーちゃん!」
ならテンヘイはカエデの手伝いをすればいい。ぎんのためになにかするのではなく、カエデがなんでもできるようにカエデの家にいておけばいい。それが、ぎんのためになる。
翌日のテンヘイの行動は迅速だった。
朝起きてすぐにカエデの家に行き、ぎんのめんどうを見るカエデの後ろで、カエデに頼まれたことをなんでもやった。お湯を沸かしたり、カエデのご飯をつくったり、ぎんの寝顔を見ながらカエデと楽しくしゃべったり……。
ぎんの世話をするのは、とても楽しかった。
「……あれ、テンヘイくん?」
カエデのママが仕事を終えて戻ってくると、そこにいるテンヘイを見て不思議なものを見つけたような顔をした。ぎんが「みゃーみゃー」と元気に鳴く姿を確認すると納得したようにうなずいてから、
「カエデを手伝ってくれたんだね、ありがとう。……でも、テンヘイくん。さっきヒナちゃんが公園で泣いてたけど、ふたりでおでかけする約束してるんじゃなかったの? ここにいてよかったの?」
「あっ」
テンヘイは思い出した。
そうだ。今日はヒナタの誕生日だった!
時計を見ると、もう夜の七時。
とっくに約束の時間はすぎていて、空もすでに紺色になっていた。
テンヘイはすぐに家を飛び出した。
近くの公園に向かう。
ヒナタの姿はなかった。
学校横の公園に向かう。
ヒナタの姿はなかった。
駅の近くの公園に向かった。
……時計台のところで、うつむくヒナタを見つけた。
「ひ、ひなちゃん!」
「……テンちゃん」
ヒナはピンクのワンピースを着ていた。小さなブローチをつけて、すこしヒールが高くなっているサンダルをはいている。白い麦わら帽子はヒナタのお気に入りで、すごく大切にしているやつだ。
しっかりおめかししたヒナタの頬には涙のあとがあり、目元は赤く染まっていた。
「ご、ごめん……」
「テンちゃん。あのね――」
「ごめん!」
テンヘイが頭を下げる。
するとヒナタは、力なく笑った。
「……ううん。いいの。テンちゃん、カエデちゃんのところに行ってたんだよね? ぎんのこと心配だったんだよね……? あのね、ヒナね、ずっとテンちゃんが来なかったから、みーちゃんに電話して聞いたの。そしたらテンちゃんがカエデちゃんのおうちに行ってるって教えてくれたんだ」
「じゃ、じゃあヒナちゃんもくればよかったのに」
「ううん」
ヒナタはまた、涙を一筋流して言った。
「いいの。テンちゃんは、ぎんが治ったら来てくれるって思ってたから。ちゃんとヒナのところに来てくれるって思ったから。それで、テンちゃんはちゃんと来てくれたから、いいの。水族館にはいけなかったけど、ちょっとさみしかったけど、テンちゃんが来てくれただけで、ヒナはうれしいの。ヒナはそれだけで、いいの」
……ちがう。
テンヘイは言えなかった。
ちがうんだよ、ヒナ。
テンヘイは唇を噛んで、泣きながら笑うヒナタを抱きしめた。
ヒナタのことを忘れていた、とは言えるはずもなかった。
ヒナタも、きっと、わかっていたんだろう。わかっていて、泣いて笑ったんだろう。
でも、ヒナタは一言もテンヘイを責めなかった。
ただ悲しそうに、テンヘイを信じていたと言ってくれた。
あのときから、テンヘイはヒナタのことを大事にするって決めたんだ。
そう、決めたんだ――
――七年後、6月3日夜 雨のち晴れ――
週末の雨は、さきほど上がった。
空には星がまたたき、月が流れていく雲を照らしていてる。
「……ヒナ」
天兵はひなたのアパートの扉の前に立っていた。
「ヒナ、いるんだろ? 出てきてくれよ」
天兵の足元では、ぎんが静かに座っている。
ぎんは向こう側を見通しているように、じっと扉を見つめている。
「……連絡しなかったのは謝るよ。約束を破ったのも謝る。むかしは謝ってばかりだったから、僕の言葉に重みはないかもしれないけど……」
昨日はひなたの誕生日だった。
中学の恩師が教えてくれた、美味しいと評判の隠れビストロにふたりでランチに行く約束だった。
その約束を、ぎんの調子が悪いという理由で夜まで遅らせた。ひなたにはメールしたつもりだったんだけど、どうやらメールは届いていなかったらしい。
ひなたは待ち合わせの公園で、夜までずっと待っていた。
「……怒って当然だ。僕はむかしから、ヒナのことを待たせてばかりだった。七年前のときも、カエデがいなくなったときも、中学のときも、そしていまも……」
カタリ、と扉の向こうで音がする。
ひなたが怒っているのがわかる。
「……でもね、ヒナ」
天兵は膝を折って、ぎんを抱きかかえる。
ぎんは「にゃー」と、扉のむこうに語りかけるように鳴いた。
「僕は七年前から、ヒナのことを大事にするって決めたんだ。どんなときでも、ヒナのことだけは大事にするって決めたんだ。怒らせたのは謝るよ。僕が悪い。謝る。謝ったうえで、たぶんぎんやレオやペンが苦しんでたら、またこんなことするかもしれない。もう僕の動物狂いは治らないかもしれない。でも――」
天兵はポケットから小さな箱を取り出して、ポストにそっと入れた。
扉のむこうに、箱がぽとりと落ちる音がした。
「――でも、それでも僕はヒナの幼馴染だから」
カサリ、と扉の向こうで、箱の包みが破られる音がする。
改めてこんなこと言うのは、恥ずかしいけど。
「約束するよ。もしヒナが苦しんでるときは、まっさきに僕が駆けつけるから」
天兵はそう言って、ひなたの部屋の扉に背を向けた。
ぎんが天兵の腕から飛び降りて、ひなたの気配にむかって「にゅあーお」と鳴いた。
『こいつは優柔不断だけど、火がついたら止められないから覚悟しとけよ』
と言ったのだが、それを理解できたのは頬をわずかに赤く染めたひなたの頭の上にいる、ハム太だけだった。
つぎの日のひなたの鞄には、白い紐で不器用に編まれたハムスターの手作り人形がついていた。
すこしだけ、幼馴染の天兵とひなたの距離が近づいた話でした。
つぎからはまたほんわかコメディに戻ります。
舞台はようやく高校に移る予定です。