ぎん(ねこ)
うろな町の住宅外のはずれには、近所のひとたちから『動物園』と呼ばれる家が建っていた。
知らないひとがそのまえを通れば、ときおり聞こえてくる動物たちの鳴き声に驚くだろう。
『草薙』
表札は一見して平凡だが、外壁は横に長く、邸宅と言っても差し支えのない敷地の広さだった。
とはいえ、中に入ってみるとまた驚くだろう。
そのほとんどが庭なのだ。
大きな池があり、小屋がいくつもあり、丘がつくられ、草が生い茂り、木々が植えられている。
まるでひとつの箱庭だ。
そこには犬やポニー、子豚やニワトリ、リスやモモンガやペンギンの姿があった。彼らの鳴き声は絶えず響いている。
「ちょっと、ぎん! まって!」
ドタバタとした足音は、動物たちのものだけではない。
「ぎん! ぎんってば!」
建物の二階の南側の窓から、慌てた声が聞こえてくる。
草薙天兵の私室だ。
うろな高校の制服に身をつつみ、手には小さなブラシを持っていた。
天兵がベッドに向かってジャンプすると、すれ違いに小さな影が床に降り立った。
「ぎん! じっとしてって言ってるだろ!」
「にゃー」
天兵の声に答えたのは、猫だった。小柄で大きな瞳が特徴的だ。
ぎんは『天兵はのろまだニャ~』と言わんばかりに鳴いた。
「くそっ!」
天兵はぎんに飛びかかる。
ひらり、と身をかわされた。
「ふべっ!」
天兵が床に激突すると、その背中にぴょんと乗っかったぎん。
つまらなさそうに、前足で顔をゴシゴシとこすっていた。
天兵が身を起こすと、ぎんはそのまま背中からベッドのうえに跳んだ。
「んにゃ」
『ほら、ブラッシングするなら早くしてニャ』
と言わんばかりにゴロンと寝転がり、薄眼で天兵を見る。
むかしはもっと大人しい猫だった。小学四年のとき、西の山で楓が拾った猫。身体はおおきくならなかったけど、態度はみるみる大きくなっていってしまった。
「まったくもう……」
天兵はため息をつきながらも、ぎんの背中にブラシをあてがう。
時計を見るともう八時を回っていた。
「やば、遅刻する」
急いでブラッシングを終えた天兵は、部屋を飛び出した。
そのまま玄関まで直進して、裏口へ回る。駐輪場から自転車を取り出すと通用門から外に出る。
かばんをかごに投げ込んで、サドルにまたがっとき、
「にゃ~」
ぎんがいつのまにか塀のうえに見送りに来ていた。
「ぎん、危ないから、あんまり外に出るなよ」
「……。」
天兵の言葉を無視して、ぎんは天兵の背後をじっと見つめている。
振り返ってみると、そこには色素の薄い美少年が歩いていた。中学生だろう。儚い雰囲気でありながらもどこか気だるそうに歩いていた。そのうしろには距離をあけて、漆のようにつややかな黒髪を流した、これまた綺麗な美少女が歩いていた。……めちゃくちゃ可愛い。
しかし美少女にはまったく目を向けることなく、美少年を見続けるぎん。
どうやらぎんはイケメン男子が好みらしい。
……オスなのに。
天兵はなんともいえない気持ちになった。
少年は切れ目の目元を静かにこちらに向け、
「……なに?」
「ああ、なんでもないよ。ごめんね」
天兵の苦笑をいぶかしげに眺めつつも、そのまま歩いて行った。
「……ぎん、ほどほどにしとけよ」
「にゃ」
天兵があきれて言うと、ぎんはうなずいた。
こうして草薙天兵と、うろな町の一日が、始まった。
深夜さん、依さん、ご協力ありがとうございます(*´ω`*)