2-01 魔獣
―アゼル地方 エント村近郊―
エントの村近くまで戻ってきた頃には、日が暮れかかっていた。
「すっかり寝ちゃってるな」
ティノがソルフィスの肩の上で小さなあくびをした。
「ずっとはしゃいでたもんねぇ。わたしも今日はクタクタだよ」
ソルフィスはコリンの髪を撫でた。
「彗の上で寝るなんて、まるでお前みたいだな。なかなかの図太さだよ。ひょっとしたらこいつ、ある意味で才能あるのかもな」
「むむ、わたしが図太いってどういうコトよ……」
「意外と自覚ないのかね?」
にらみ付けてくるソルフィスの視線から隠れるように、黒猫はそそくさと後ろにまわった。
村へと降りるために少しずつ高度を落としていく。
魔術はむやみに公共の場で使用してはいけないという掟がある。それに従って、ソルフィスは村の外れの街道に降り立った。村の門まではここから歩いてすぐだ。
地面に降りたところでコリンの異変に気付いた。
ひどく震えているのである。
「どうしたのコリン、寒いの?」
コリンは俯いたまま、苦しそうな表情でようやくうなずいた。
空で寝ているときに体を冷やしたのかもしれない。
「早く村に入ろう」
ソルフィスは羽織っていたマントを脱いでコリンに着せ、彼を負ぶって歩き始めた。
「妙だな」
ティノは別の奇妙な雰囲気を感じていた。
村へと続く街道に雑草が茂り、荒れ放題になっている。最近まで人が通ったようには思えない。不審に思いながらも獣道のような街道をソルフィスは進んでいった。
奇妙な違和感は村の門の所まで来たときに明らかになった。
無造作に開け放しとなった門扉は苔で覆われ、ボロボロに錆びた蝶番が外れて傾いている。
村は静かすぎた。
「ソル、どうやらここは――」ティノは唾を呑みこんだ。
「棄てられた村みたいだ」
家屋のどれもが繁茂した草に埋もれ、朽ちている。絡まったツタやシダが過ぎ去った歳月を物語っていた。
「なにそれ……おかしいな、どこかで道を間違えた?」
ソルフィスは地図を取り出して確認した。しかし、このあたり一帯の集落はエント村しかない。
「間違いない。ここがその村なのは確かなんだ。だけど大事なことを見落としていた……。この村は、ずいぶんと昔に放棄されてるんだ」
ソルフィスは絶句した。
「……どういうこと?」
放棄区域が発生すること、つまり住む場所を棄てて逃げることは、この世界の人々にとってそれほど珍しいことではない。大地の大半を厚い森が覆い、魔獣が跋扈するこの世界においては、戦火よりもむしろ魔獣の存在が脅威だった。この村も悲しい運命に見舞われたのかもしれない。
辺りは虫の声しか聞こえない。黄昏の静けさが不気味な雰囲気を漂わせていた。
「じゃあコリンの家は? この子エント村から来たって……ねぇ、コリン、キミのお家はどこにあるの? どこに行けばいい?」
振り返ったソルフィスははっとなった。コリンの容態が悪化している。意識朦朧となっているのか、うなされていた。
ソルフィスはコリンを草地に寝かせ、彼の震える小さな肩を抱いた。彼の体は恐ろしく冷たかった。か細い声で何度も母親を呼んでいた。
ティノは緊張していた。広場の中央にある、崩れた井戸の上に乗って目を閉じた。
しばらくして、ティノは顔をしかめて口を開いた。
「この村はずっと昔に魔獣に滅ぼされちまったみたいだ」
ソルフィスは顔を上げた。
「僅かに思念が残ってる……村人たちはみんな……」
ティノは込み上げる感情の波濤の衝撃を感じ、ひどく嘔吐いた。たまらずソルフィスが声を掛けたが、大丈夫だ、と制した。
「ソル、その子は、コリンは……」
ソルフィスは顔を上げたが、すぐに少年に戻した。
「視えたの?」
ティノはうなずいた。
「残念だけど……」
コリンを診たときの奇妙な感じが今、分かった。
「その子は現世の者じゃあない」
「……そう」
返事は虚ろだった。
ソルフィスは意を決してコリンの肌着をまくり、身を乗り出して少年の背中を見た。
肉食獣の爪を思わせる大きな裂創で、白い柔肌がばっくりと裂けていた。致命傷だったに違いない。
ソルフィスはコリンを抱きしめ、目を閉じた。
少年はその日、家に帰れなかったのだ。
生命の灯が消えるその時まで。刻み付けられた忌まわしい記憶が少年の魂を束縛し、永劫に彷徨う宿命を背負わせた。そして彼は決して辿り着くことのない家路につくのだ。何度も、何度も。いつまでも。
生前の肉体を失い魂だけの存在となってしまった者が、生きる者の目に映り、互いに触れ合うこともできる。奇妙なことではあったが、常世と現世の境が曖昧になりつつあるこの世界では、しばしば不可思議な出来事が起きていた。
「…………。まずい……、やべェぞ」
背中がざわめくような殺気を感じてティノは顔を上げた。
魔獣の気配に囲まれていることに気付いたとき、辺りはもう薄暗かった。
常世の狭間に潜む魔物が、彷徨える者の魂を喰らいに来たのだ。もちろん彼らの獲物は死者の魂だけではない。生者の肉体もだ。殺してからその血肉とを喰らえばよいのだ。
「どっから沸いてきたんだ。ソル、囲まれたぞ」
ティノはこの場を逃げるよう警告した。しかしソルフィスは動こうとしない。コリンを静かに横たわらせ、マントを掛けてあげた。手を伸ばし、目に掛かっていた髪をやさしくどけてやった。
ソルフィスは立ち上がった。
「必ずキミを送ってあげる。これ以上キミの魂を傷つける奴は、わたしが許さない」