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「うわぁ! 高い、怖い!」
それでもコリンは嬉々として喚声をあげた。
鬱蒼と林立する巨木、鎮座し威圧する巨礫、世界を覆い睥睨する峰々。今やそのすべてが足元に広がっている。コリンの世界は瞬く間に天上の光で覆われた。
「すごい、すごいよ! お姉ちゃん」
うしろからソルフィスがコリンの耳元に顔を寄せる。
「キミの体が小さくてよかった。今日は特別だよ」
本当に一瞬の出来事だった。
川岸で出発の準備が整うと、ソルフィスが飛翔彗に跨った。呼吸を落ち着けると、彗の後ろにある羽束の部分から幾多もの輝く光の尾が突出したのだ。
魔法の光帯は薄ぼんやりと淡い光を放ち、吐息のように静かで透明な音を響かせていた。それが吹流しのように風にのってたなびいているのだ。
そしてソルフィスはゆっくりとその場から宙に浮いた。
神秘的な出来事にコリンは目を瞬いた。
足が地面からつかず離れずで浮いているところでソルフィスは手招きをして、自分の前に座るように促した。コリンはおっかなびっくりでそれに従った。
ソルフィスが後ろから抱きかかえるようにしてコリンのお腹に手を回し、
「しっかり握って」
耳元で囁かれると、コリンは緊張で胸の鼓動が収まらなくなってしまった。
「じゃあ、行くよ?」
そう言ってソルフィスはコリンのお腹をきゅっと抱き寄せた。
背中に感じる柔らかな感触と鼻をかすめるほのかに甘い匂いに、コリンはこれまでにないくらいに胸が高鳴った。だまっておずおずとうなずいて返すのが精一杯だ。
ソルフィスが軽く地面を蹴った。
コリンは驚いた。不思議なことだが、体の全細胞が上に引っ張られるような、まるで空へと落ちていくかのような感覚で上昇していく。声が出なかった。
高い木立の梢が足元を過ぎていった。岩稜を越えた。まだ上がる。
高峰の稜線が眼下に広がった。全身に風を感じていた。白い霞が頭から足元へと通り過ぎていく。やがてそれが雲なのだとわかった。目の前に雲の海が広がった。
気がつけば、まさに彼は天上の人になっていた。
本当に一瞬の出来事だった。
「これが世界だよ、コリン」
雄大な展望に少年からため息がもれた。
コリンは紺碧と深緑がおぼろげに混ざる地平線をぼんやりと眺めた。
「それでも、ここから見えるのは、ほんの一部だ。とっても広いんだよ、世界ってのは」
ソルフィスがぐいっと顔を近づけてきた。
「寒い?」
コリンはびっくりしてかぶりを振った。
風を感じるが、不思議と空気は冷たくない。これも彼女の魔術のおかげなのかもしれない。
「よぉし、行こっか。空の冒険旅行の始まり~っ!」
ソルフィスが拳を振り上げると、ティノがそれを制するように首をのばしてきた。
「オイ、くれぐれも安全に頼むぞ」
「おうっ、しっかりつかまっててね。ただ今より急降下しまーす」
「えっ」
ソルフィスがぱっと両脚を広げた。瞬間、彗が真っ逆さまに落下した。
「ひあぁァアァ」
乗客二名は悲鳴をあげた。
彗が傾いで斜めに切れ込むと、風を切り裂いて滑空を始めた。ソルフィスは脚をたたんで前傾姿勢になり、コリンのお腹をしっかりと抱いた。コリンは顔を真っ赤にして声も出せず、硬直したまま動けない。
「ソル、俺、キゼツしちゃう」
「え、なに聞こえない。ちゃんとつかまっててね。飛ばすよっ!」
「にゃー」
魔力が流し込まれはじめた飛翔彗の光の尾が一層輝きを強め、彗は一気に加速した。
程なく水平姿勢になり、彗は射られた矢のように飛び始めた。
山が、川が、雲や飛ぶ鳥が。目の前の世界が、あっという間に後ろに流れ去ってゆく。
「コリン、あれがアゼル魔導学院。わたしたちの住んでるところだよ」
高峰の山肌に取り付くようにして城砦が姿を現した。
「綺麗だなぁ」
物語の中から飛び出してきたような白亜の城には優雅な尖塔がいくつも建ち並び、緻密な意匠が幾多も刻まれていた。目をみはる光景にコリンはため息をもらした。あのお城の中に、ソルフィスと同じ魔導士の卵がたくさん居るのだ。
コリンはそこに自分の姿を重ねて未来を思い描こうとしたが、何故かぼんやりとしていていまいち判然としなかった。ただ、魔導士への憧れだけが胸を高鳴らせていた。
「もうここか。ずいぶんと飛ばしてきたな」
ティノがソルフィスからコリンの肩に飛び移った。
「よォ、コリン。どうよ、生きてる?」
「うん! 最高! すっごいたのしい!」
「うへ、お前さんなかなか肝っ玉でかいね」
「ほら、二人とも。もおっと飛ばすよ!」
「にゃー」
鋭い振動音がしたかと思うと、彗は再び加速した。
風切る音は高らかに、肌掻く空気は一層重くなる。もはや城砦は山稜の奥に消えて見えなくなった。目の前には見渡す限りの平原が広がった。
コリンはいろいろなものを見た。鳥、動物、旅人、街……。
そしてついに、地の果てまで来た。
「海だ!」
「……初めて見た」
それまで山と森で塞がれていた世界が一気に開け、一面の大海原がコリンの視界に広がった。人生の中でまったく味わったことの無い茫漠とした世界にコリンは言葉もなかった。
コリンは思わず身震いした。初めて嗅ぐ潮の匂いは奇妙だったが、頬をなでる海の風はとても心地よく、心を和ませるものがあった。感覚にあるものすべてに圧倒されていた。
ソルフィスはコリンをそっと抱き寄せた。
「この海のずっと向こうには、わたしも知らない世界がもっともっと広がっているんだ」
湿りを帯びた海の空気を、コリンは胸いっぱいに吸い込んだ。
「お姉ちゃん」
「うん?」
コリンの目は、おぼろげな水平線の先に見えない何かを見ているようだった。
「僕も空を飛べるかな。もし飛べたら、世界のどこかにある雲の上の宮殿を見つけるんだ。そして……」
できるさ、とソルフィスは力強い瞳で応えた。
「わたしが保証する」
まばゆい光景を瞼に焼き付けるかようにコリンは目を細めていた。
「お母さんのところに帰ろっか」
ゆっくりと少年がうなずいて振り返ったとき、聞き取れるかどうかわからないほどの小さな声で、ありがとう、とだけ言った。