9-02
自分の名を呼ぶアイシャの声でわれに返った。
気がつくと、シャナトリアは元いた場所に両膝を地面につけたままの姿勢でいた。
胸に黒猫を抱いたままだった。黒猫はシャナトリアの腕の中ですやすやと眠っていた。見回せばあたりは乾いた砂の世界に戻っていた。そして、ひどく心配そうな顔をしたアイシャが視界いっぱいに飛び込んできた。
「気がついたか! ああ、よかった。心配掛けさせやがって!」
「アイシャさん」
「いくら呼んでもぼーっとして反応しやしねぇ。ついに壊れたかと思ったぞ。大丈夫か?」
どうやらシャナトリアは束の間、放心状態だったらしい。どういうわけか、心のどこかに夢心地に近い、微かな浮遊感が漂っていた。
「……あいつは……?」
「あいつ? あいつってなんだ?」
「い、いえ。なんでもないんです」
シャナトリアの顔色を見て安心したアイシャはひと呼吸置いて話を続けた。
「あのな、シャナトリア。驚くなよ、ソルフィスがな……」
アイシャは目に涙を滲ませながら、震える手でシャナトリアの肩を力強く握りなおした。ほころばせた顔が嬉々としたあたたかさに満ちていた。
それだけでシャナトリアには充分すぎるほどに伝わった。
たちまち眼に生気が甦ったシャナトリアは、跳ね起きるように立ち上がって夢中で駆け出した。
「え? あっ、おい! まだ何も言ってねぇじゃん……ったく」
ぽりぽりと頭を掻きながら、アイシャは駆けていくシャナトリアの後ろ姿を見送った。
シャナトリアが息を弾ませて納屋に駆け込んできたとき、彼女は水筒に口づけて美味しそうに水を飲んでいるところだった。
清潔な藁の上に移され、ソルフィスは数名の魔導士たちに介抱されていた。
妹の姿に気付いたソルフィスは、えへへ、とひどく気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「……ごめんね」
それだけの言葉でシャナトリアは胸がいっぱいになり、姉の胸に飛び込んだ。
奥の方から泣きと笑いの混じった歓声が聴こえてくるのを背中で受け止めながら、ロッドはそっと納屋を離れた。
切っ先が大きく欠けてしまった自分の槍をしばらく見つめ、ロッドはため息をついた。
あの時、動きが止まったソルフィスを見て異変を感じたロッドは、女王蟲の背中へ果敢に飛び乗り、最大限の魔力でもって槍を突き立てた。簡単に跳ね返されていた超硬の甲殻だったが、光刃を纏った槍は背甲を深々と突き破り、下腹まで貫き通した。
時を同じくして同じ事を考えていたアイシャが、弓で女王蟲の片目を射抜いた。
貫通矢では火力不足だと使用を控えていたアイシャだったが、ここぞというときに狙いどころを絞って射ち放ったのだった。両者の不意打ちには女王蟲も堪りかねたことだろう。
果たして女王蟲は絶叫をあげ、身をよじらせた。結果としてソルフィスは女王蟲の体当たりをもろに食らってしまったが、このときの二人の援護に女王蟲が怯んだおかげでソルフィスへのダメージは大幅に軽減された。これが彼女の命を救ったのかもしれない。
砂漠の隊商宿はいつの間にか傾いた西日を受けて影をのばしている。
この作戦とはいえないような作戦に少なからぬ犠牲が出るだろうと、ロッドはそう覚悟していたが、ふたを開けてみると十数名の負傷者がでた程度で済んだ。しかし、想定外の状況も含めて今回の災禍を振り返れば、この戦果はまさに奇跡としか言い様がなかった。
砂原を覆う蟲の残骸。針山のようになった女王蟲の亡骸は、いつの間にか崩れてバラバラとなり、巨体を形作っていた個々の蟲の姿に戻って散っていった。やがてこれらも朽ちて砂に埋もれていくだろう。
ロッドはいまだ戦慄していた。恐るべき呪の力である。悪霊のもたらす負の活力があの忌まわしい女王蟲となって具現化したのであろう。
リノー学院長からの報せで「充分に警戒せよ」とだけ連絡を受けていたが、まさかここまで強大で忌まわしいものであったとは思いもよらなかった。
そして、少女にとどめを刺された女王蟲が崩れ落ちる寸前、確かに何かが起きたのだ。
一瞬だけ感じて取れた黒い大きな影。
その押し潰されそうなほどの強い気配と存在感は、どんなにおぼろげな姿であれ、絶対に見紛うことはない。
伝説の竜――
後で訊いてみると、他の魔導士は誰もこのことに気付いてなかったようだ。あの一瞬のうちに、確かに何かがあったはずなのだ。
小さな黒猫の姿が思い出される。伝説の竜と魔導士の姉妹。それに加えて悪霊か――
顎に手を当てて、ロッドは深く考えていた。
「ロッド師長」
そう呼んだのは副官のアースラドだった。
「付近の安全確認、終わりました。見張りは続行します」
軽く手を振ってロッドは応えた。
「街に灯を燈せ。それから動ける者を掻き集めて蟲の遺骸を片付けてくれ。ここの民が戻ってきても、少しでも心安らげるようにな」
副官は胸に手を当てて頭を垂れた。
「しかし、まさに伝説どおりでしたねぇ」
「うん?」
「あの姉妹ですよ。まだ子供なのに、あんなバカでかい魔獣を倒してしまうとは」
「そうだな、今回は彼女らに助けられた。そして我々に大きな課題を残してくれた」
紅く焼ける太陽が荒野の丘に沈もうとしている。
「魔獣のはびこる世界とはいえ、平和に慣れた現代の魔術では、あのような怪物は難しい。今後のことを考えれば……」
「難題ですね。我々は太古の魔導を見直さなければならない時期にきているのでしょうか」
「……かもしれんな」
風が吹いていた。
シャナトリアの放った大氷槍は彼女の不屈の闘志を示すかのように、天に向かってのびている。そのモニュメントが夕日に照らされて神々しく輝いていた。
「我々は二人の女神の加護によって護られている。今のところはだが」
ロッドの見る先に視線を向けつつ、アースラドはうなずいた。
「だから我々もまた、彼女らを護っていかねばならん。古から伝えられた掛けがえのない遺産をな」
黄昏の中、しばし黙してそれを見つめる魔導師長の貌は濃い影に覆われていた。
「――マギン(MAGIN)」
老練の士はそうつぶやいた。
この言葉は古くは祭司、今では魔導士のことをいう。
中でも極めて優れた知識・能力の持ち主に対して尊崇あるいは畏怖の念を込めてそう呼んだ。その力の成すことの善し悪しに限らず。
砂の荒野には、ただ、その力の威容だけが残されていた。




