8-03
ロッドとオクシスはとっさに飛び退き、倒れ掛かる蟲の巨体を間一髪でかわしていた。瓦礫の破片がしたたかに体を打ったが、たいした怪我はなかった。そんなことよりも精神的な衝撃の方が大きかった。これほどにも巨大な怪物が現われるとは予想だにしなかったことだ。歴戦の兵であるロッドも経験したことのない異常事態だし、さすがにこれにはたじろいだ。
ただただ、その巨大さに圧倒されたのである。
しかし、呆けている場合ではない。見ればその蟲は今まさにシャナトリアの居るテラスにのしかかろうとしている。
「全員、総攻撃! このデカブツを仕留めろ!」
ロッドは懸命に駆けて蟲の脇腹に追い縋り、槍に炎を纏わせ突きにかかった。しかし驚くほど硬い甲殻に撥ね返された。
「なんちゅう硬さだ」
まるで象に挑む蟻であるかのように無力であった。
そんなロッドたち魔導士の存在には目もくれず、女王蟲の巨体はまっすぐシャナトリアへと向かっていく。
「あうっ!」
女王蟲の巨大な顎がテラスの胸壁を突き崩し、シャナトリアは跳ね飛ばされてしまった。
ついに見つけた、とでも言うかのように女王蟲は激しく触覚を波打たせ、大顎がばっくりと開かれた。顔を背けたくなるような赤黒い口腔が不気味にうごめく牙の奥から現れた。
防がなくちゃ――シャナトリアは魔術を繰り出そうと足掻いた。しかし、心が乱れてどうにも集中できない。お尻が床に張り付いて動かず、どうすることもできない。シャナトリアは己の不甲斐なさを罵った。
油断した。まさかこんな奴が出てくるなんて。大技を繰り出して少し気が大きくもなっていた。今さら悔やんでもどうしようもないことだが……。こんなところで、身の毛のよだつような醜い蟲になすすべもなく食い殺される。これが運命なのか。
「ソル……」
助けて――シャナトリアは涙に滲む瞳を閉じた。
耳をつんざくような轟音と叫び声にシャナトリアは驚いて目を開けた。
女王蟲の頭部が後ろにのけぞり、大きく開かれていた口から煙がのぼっていた。
そのすぐそばに、腕を伸ばし片膝をついた姿勢のまま睨みを据えるアイシャの姿があった。
脚に仕込んでいたナイフを投擲したのだ。魔力を込められたナイフは蟲の口に突き刺さり、内側で爆発したのだった。
しかしアイシャは舌打ちした。思ったより手応えがない。雑魚蟲とは比較にならないほどタフな奴だった。
ギシギシと金属が擦れ合うような音を立てて、女王蟲が再び牙をむいた。
アイシャは壁に刺してあった山刀を抜き、その刃を手でぬぐって魔力を込めた。大股で歩き、シャナトリアを庇うようにして前面に立った。
「アイシャさん」
後輩の祈るような声をアイシャは背中で受け止めた。彼女は途方もなく巨大な相手に肉弾戦を挑もうとしているのだ。
蟲の女王が再びその頭をもたげ顎門を開いた瞬間、アイシャは怯むことなく踏みこみ、片手で山刀を打ち下ろした。赤く灼けるように輝く鋼の鋭刃が大顎の付け根に叩き込まれ、鉄のような甲殻を焼き切り、肉を切り裂いて反対側の甲殻まで断ち切った。この一撃で刀身が根元から溶けて消えた。
「はあっ!」
間髪いれずにアイシャは渾身の力を込めて大顎を蹴りとばす。
鈍い断裂音と体液が噴出し、大顎が奇妙な方向に折れ曲がった。蟲の女王は絶叫してのけぞり、テラスから滑り落ちた。
アイシャは弓を手に取り、へたり込んでいるシャナトリアに駆け寄った。
「立てるか?」
シャナトリアはぽろぽろ涙をこぼしながらうなずいた。
「一旦、退くぞ」
差し出された手を取ったとき、シャナトリアは少し驚いた。アイシャの手が小さく震えているのだ。アイシャも自分でそれに気付き、苦笑いした。
「あたしも早く慣れないとな……」
誰だって怖いのだ。百戦錬磨の先輩でさえ。そう思うとシャナトリアの気持ちは少しだけ軽くなった。アイシャの手をぎゅっと握り、よろけながら立ち上がった。
「よし、行くぞ」
「はいっ」
二人は大急ぎで階段を駆け降り、路地に飛び降りた。
少しでもこの場所離れようと走り出したとき、怒り狂った女王蟲が土壁を突き破りながら迫ってきた。周囲から攻撃を仕掛けてくる魔導士達に一向に構うことなく、女王蟲は二人を憎き仇敵といわんばかりに執拗に追い回した。
「クソったれ、来んじゃねぇ、キモいんだよ!」
逃げながらもアイシャは爆裂ナイフを投げつけるが、表面にすすを付けるくらいでまったく効き目が無い。
蟲の巨体を包囲した魔導士たちは果敢に攻撃を仕掛けているが、その驚くほど堅牢な甲殻はびくともしない。腹下の柔い部分に潜り込んで打撃を与えればいくらかは徹るかもしれないが、機会を見出せない。想像を絶する巨体に近づくだけで命の危険に晒されるのだ。
並みの魔力では到底歯が立たぬと覚ったロッドは高所にでて新たな指示を叫んだ。
「羅網を敷け! 奴の動きを封じろ! 二人を助けるんだ」
羅網とは光帯魔術の一種で、名のとおり蜘蛛の糸のような魔法の網を出す術の総称だ。その形態は様々だが、一般的に標的の捕縛や遅滞、囲い込みを目的とした技である。
心得のある者が攻撃の手を止め、次々と捕縛を仕掛けた。
ある者は上から蜘蛛の巣のような光の網を射出して蟲の巨体を縛りつけ、またある者は紐で肢を絡め取って蟲の動きを封じようとする。ロッドは魔力の槍を召喚して蟲の肢に突き刺し地面に縫い止めようとした。そこに副官のアースラドが結界を張り、磁場を発生させて蟲を釘付けにしようとした。
しかし――
「うおっ、くそ!」
女王蟲がぐいと体を捻ると網は容易く引き裂かれ、紐はちぎれ、刺してあった槍と磁場の結界は強引に破られた。術の規模にくらべて女王蟲が巨大過ぎるのだ。
何事もなかったかのように女王蟲は獲物の姿を追いはじめた。
シャナトリアは走って逃げながらも心の平静を取り戻そうと必死だった。とても今は反撃する余裕が無い。この巨大な追跡者から逃げるので精一杯だ。
女王蟲は図体のわりに素早い動きをした。そして賢かった。路地を逃げるうちに、二人はそれに気がついた。蟲が二人の行く先に回りこみ、長大な体で作った大きな環の檻のなかに二人を閉じ込めてしまったのだ。
追い詰められた。
「こんの野郎、蟲のくせして頭が回るじゃねーか」
アイシャはシャナトリアの前に踏み出て、矢をつがえた弓を体の前に持ってきた。
女王蟲が勝ち誇ったように二人を見下ろす。アイシャの飛び道具を警戒してか、すぐには口を開こうとはせず、いたぶるかのように体をくねらせ始めた。巨大な体で押し潰す気なのだろうか。無機質な表情からは意図がまったく読み取れないが、落ちつきのない触覚の動きが二人の気分をすこぶる不快にさせてくれる。
シャナトリアは女王蟲を睨みつけた。その目にもはや恐怖の色はなかった。それどころか、いくらデカいとはいえ蟲ごときに追い回されていると思うと腹も立ってきた。
私を怖がらせた罪を思い知らせてやる。シャナトリアの全神経は、目の前の敵をどうやって倒すかだけに注がれていった。
もう一度。さっきと同じようにもう一度、河の水から精霊を呼び集めなければ。
大技さえ繰り出せばこいつを一撃でもって仕留めることができる。
でも、そのためには時間が必要だ――
そんな彼女の焦燥を察したのか、アイシャがそっと囁いた。
「機会は必ずくる。今はここを凌ぐことだけを考えろ」
唾を飲み込むようにしてシャナトリアはうなずいた。
蟲はぐるぐると二人の周囲を巡り、徐々に環の幅を狭めてくる。逃げ場をなくしたところで一気に上から噛み付く気なのだろう。
シャナトリアとアイシャはお互いの背中を守るように身構えた。
蟲の頭が大きく後ろに退いた。正面のシャナトリアがとっさに反応した。
「来ます!」
大口を開けて噛み付きに掛かる蟲にまっすぐ腕を突き出す。「喰らえっ!」
シャナトリアの周囲から騎士槍のような氷槍が何本も出現し、蟲の口内に向けて射出された。輝く氷槍が蟲の大口に突き刺さる。悲鳴をあげてのけぞる蟲だったが、その強靭な顎が氷槍を噛み砕いた。
だめだ、効いてない! 歯噛みしたシャナトリアの腕をアイシャが突然つかんだ。
「危ねえ!」
飛び込んできたアイシャに覆いかぶさられるようにしてシャナトリアは地面に倒れこんだ。
その直後、つい今しがた居た場所に蟲の巨体が落下してきた。重い衝撃で体が撥ねる。
「あ、ありがとう」
「次くるぞ!」
蟲の頭が後ろに退いていた。噛み付いてくる気だ。その開けた大口に、アイシャはとっさに爆裂矢を射ち込む。しかし敵との距離が近過ぎるため、満足に火力が出せない。爆炎を纏いながら女王蟲の顎が地面に激突してきた。二人は飛び退ってそれを避けた。
ここで女王蟲は動きを止めた。二人を囲っていた壁のような胴体を弓なりにたわませて、無数の肢を地面に突き立て、全身の気孔から空気を吸込みはじめた。
嫌な予感がする。シャナトリアの脳裏に警鐘が鳴ったが、いち早くアイシャが敵の意図を見破った。
「マズい、体当たりをかましてくる気だ」
「体当たり!?」
前にしか進めないムカデの体をした赤銅蟲が真横に動けるのだろうか。シャナトリアも今それを理解した。胴体に無数にある空気孔の噴射を使って真横に飛ぶ気なのだ。
どうやって防ぐ――
シャナトリアは素早く印を切って氷魔術を発動、要石のような氷塊を楯のように突き立てた。これで止められたらいいのだが、おそらく無駄であろう。今繰り出せる魔術であの巨体を止めるのは不可能だ。
二人に逃げ場はなかった。残された逃げ道があるとすれば空しかないだろう。
ところがアイシャの見ているところはまったくの逆だった。アイシャは足元の地面に爆裂矢を撃ちこんだのだ。
蟲の巨体が動いた。横殴りの体当たりが氷塊を粉と砕き、二人に押し迫ってきた。
「とびこめ!」
アイシャはシャナトリアの手を引っ張り、地面にできた穴にとび込んだ。そのすぐ上を蟲の巨体が大地を震わせながら滑っていく。
女王蟲の体は瓦礫を飛び散らせながら建物をなぎ倒して止まった。
「クソったれが! 今日は厄日だな。オイ、生きてるか?」
「なんとか……」
アイシャが砂埃にむせ返りながら毒づいた。シャナトリアは九死に一生を得た感動よりも、二人の命を救ったアイシャの機転の良さに大きな衝撃を受けていた。これが場数を踏んだ熟練者の知恵なのだろうか。
だが安心するは早い。二人が地中に逃げ込んだことを女王はちゃんと知っていた。
穴から脱出しようと瓦礫をどけるのに手間取っているうちに、また取り囲まれてしまったのだ。女王蟲が穴の中でもがく二人を覗き込んできた。
「うは、やっべ……」
凄まじい執念深さが触覚の不気味な動きにこめられていた。
二人は再び、絶体絶命となった。
万策尽きたアイシャだったが、シャナトリアは視界の端に別のものを捉えていた。
女王蟲の巨大な頭が吹っ飛んだ。
ドギン! と凄まじい衝撃音が轟いたのはそのときだ。突如飛来した黒い隕石のようなものが上空から激突したのだ。女王蟲の頭部は恐るべき力によって地面に叩き伏せられた。
まぶしいほどに真っ白な足刀が女王の首根っこあたりに突き刺さっていた。
ソルフィスが空を滑っ飛ぶ勢いに任せて強烈な飛び蹴りを叩き込んだのだ。
「あぁぁあぁッ」
そのまま数十フィートの距離を滑走し、勢いが消えるまで蟲は無様に砂土を食み続けた。
ソルフィスは大きく息をつくと、飛翔彗を片手に持って地面に降り立った。
「ソルっ!」
アイシャに引っ張られて穴から這い出てきたシャナトリアが顔を輝かせて姉のもとに駆け寄ったが、ソルフィスは片手を挙げて制した。
「シャナ、はじめるよ。コイツがそうみたい」
何のことを言っているのか、シャナトリアはすぐに理解した。
「――わかったわ」
「シャナ、アイシャさん。わたしが引きつけるから、隙を見つけて一旦退いて」
「すまねえ、ソルフィス」
ソルフィスは両腕を掲げると、その手が光り輝きはじめ、収束した光の粒子が黄金に輝くヴェールとなって揺らめいた。彼女の持つ唯一の攻勢魔術、ベルベットが姿を現した。
「……気を付けて」
シャナトリアは姉の背中に祈るように声をかけた。
ソルフィスはシャナトリアの大魔法の準備が整うまで敵を引きつける囮になろうとしているのだ。ずっと昔からこうしてきたような気がする。ソルフィスはシャナトリアの盾であり、シャナトリアはソルフィスの矛であった。姉妹はお互いを強い絆でもって信頼しているのだ。
一瞬のことに何が起こったのかわからず、頭をぐらつかせる女王蟲にソルフィスはつかつかと歩み寄り、大きく振りかぶって力任せに殴りつけた。
ズガン! と目の覚めるような衝撃音が響きわたり、蟲は軋むような叫びをあげて頭をのけぞらせた。アイシャが痛めつけておいた大顎の片方が千切れ飛んだ。
「なんちゅう馬鹿力」
アイシャは唖然とした。
女王蟲はこの憎たらしい新たな敵を睨みつけ、顎を軋ませて唸った。
その眼を睨み返し、ソルフィスは静かに腰をおとして半身になって構えた。
「ティノ、キミは早くシャナのところに行って」
ソルフィスは黒猫に指示するが、ティノはソルフィスの肩の上から動こうとしない。
「やだね、俺も戦うっていったろ」
「ダメっ! 危険だから」
「相棒が最前線なら、俺の居場所も最前線よ。当たり前だろ」
「何カッコつけてんの!」
「うるせー」
ソルフィスを喰らおうと女王蟲が叫びをあげて襲い掛かる。
勢いあまって地面に激突する女王蟲をソルフィスは飛びさがって難なくかわす。衝撃で朦朧とする女王蟲に駆け寄り、残ったほうの大顎にベルベットを括りつけて片方の手でがっちりと掴み取った。暴れる蟲の顔に蹴りを食らわせる。
「どうする気だ?」
「コイツをここから退かす」
「ハイ!?」
ソルフィスはもう片方の手に飛翔彗を握り締め、片脚で挟んで彗を地面に対し垂直にした。
「行くよっ!」
ソルフィスは地面を蹴り、真上に飛び上がった。すぐさま女王蟲の顎に結わえられたベルベットがビンと張り、ソルフィスの体は空中で引っ張られて止まった。
「オ、オイ、なにしてんの。こんなクソでけーのが持ち上がるわけねーだろ」
「ふんぬぬぬぬぬ」
ソルフィスの体が軋む。飛翔彗が甲高い響きをあげ、光の尾がいっそう輝きを増した。
ごりっ、と鈍い音がして、信じられないことに蟲の巨大な頭が持ち上がった。
「マジっすか」
周囲からどよめきが上がった。
神懸かり的なソルフィスの剛力に引っ張られ、女王蟲の上体部分が宙へと持ち上げられた。
「二人とも、今のうちに!」
「すまない!」
アイシャとシャナトリアはこの隙に女王蟲の囲いの中から脱出した。
シャナトリアはソルフィスを見た。姉妹の視線がひと呼吸の間だけ交わった。それだけで充分だった。
待ってて、すぐに行くから――言葉にせずともシャナトリアの気持ちはそう伝わった。
ソルフィスは暴れる蟲をゴリゴリと引っ張って街外れの広場の方に運んでいく。
ソルフィスが魔力的に接触しているせいか、巨大蟲の上体は完全に宙に引っ張り上げられた。蟲の大顎の付け根が自重でひん曲がってしまっている。
「ううぅうんんん、ぉンもぃ!」
「そりゃそうだろ、おお、ムリすんなムリすんな」
広場に差し掛かったところで引きずられていた女王蟲が乱暴に引っ張り返した。
「きゃっ!」
「ひえー!」
ソルフィスは地面に叩きつけられた。
「だ、大丈夫か!?」
「あいててて……」
とっさに受身をとったが結構な衝撃だった。
ベルベットの拘束から解放された女王蟲がソルフィスの姿を求めて頭を持ち上げる。新たな獲物の姿を捉えた女王蟲の体が大きく揺れ動き、音を立てて砂煙が吸い込まれていく。
「ヤバイ。あいつなにか仕掛けてくるぞ……ソル、飛ぶんだ、逃げよう!」
「ダメ」
「え?」
ソルフィスの息があがっている。
「ティノ、背中に隠れて!」
遠くから仲間たちの叫ぶ声がぼんやりと聞こえる。ふらつきながら立ち上がったソルフィスは、彗を背中にしまって両手をかざす。再び光の衣ベルベットが現出した。
女王蟲の山のような巨体が鞭のようにしなり、横殴りの体当たりがソルフィスに襲い掛かる。ソルフィスは両腕のベルベットを盾のようにかざして全身で受け止めにかかった。
「ぐうッ」
恐ろしく重い一撃がソルフィスの全身を貫いた。
それでも、ソルフィスは耐えた。鋼のように堅く絹のようにしなやかな彼女の体が女王蟲の攻撃を全身で受け止め、大地に深い刻みを残して、その一撃を防ぎきった。
ベルベットが衝撃のほとんどを吸収し、全身を纏う剛身術が彼女の肉体を守ったのだ。
だが、それもいつまで持つのだろうか。ベルベットの虹色の光に先ほどまでの輝きはなく、薄く透けてみえるようになってきていた。
ソルフィスは苦悶のうめきとともに片膝をついた。華奢な脚が小刻みに震えている。
「こんなのダメだ、もたねえぞソル。ここは退こう」
「いい、これでいい」
「なにいってんだ」
「アイツはわたしを見てる。だから、これでいい」
普段の彼女なら跳躍して避けるか、空に逃れればよかったのかもしれない。だが、彼女は避けなかった。敵の攻撃を全力で受け止めた。受け止める必要があったのだ。
少し離れた場所には、膨大な魔力を練り上げるために再び瞑想に入ったシャナトリアがいる。そちらを見ずとも背中の気配だけでわかる。
今は一人じゃない。大切な仲間がいる。妹がいる。だから、逃げるわけにはいかない。
ソルフィスは全身全霊を傾けて、敵の注意を自分に引き付けようとしていた。シャナトリアの術が完成するまで、自らが囮となって皆を守ろうとしているのだ。
ソルフィスは動いた。
女王蟲の残った方の大顎にベルベットを投げつけて絡めとり、鬼神のような力で蟲の頭を引き寄せ、力任せに殴りつけた。
ズガン! と破壊の鉄槌が豪快にぶち当たり、大顎がまた変な方向にひん曲がる。
女王蟲が悲鳴をあげて大きくのけぞった。
さらに殴る。殴り続ける。全身を捻って蹴りつける。
――もう少し。あともう少し。あと少しだけ――
女王蟲の行動の機先を制するように、ソルフィスは攻撃の手を緩めなかった。
追って駆けつけた魔導士たちは、彼女の鬼気迫る力強さにただただ圧倒されるばかりで、ろくに手が出せずにいる。
だが、その攻勢も長くは続かない。
「……うっ……くうッ」
「ソル!?」
ソルフィスの動きが止まった。彼女の表情がこれまでになく険しい。息を荒げて歯を食いしばり、脚はガクガクと震えている。
先ほどからのソルフィスの異変にティノは居てもたってもいられなくなった。
「も、もういいから! 命令だ、退却!」
ソルフィスは頭を振り、苦しみ喘ぐように大きく息を吐いた。何気なく震える両手に目をやると驚きに目を見開いた。光の衣が、ベルベットが消え失せてしまっていた。
「あぶねえ!」
ティノの声にはっとしたソルフィスは、間一髪のところで飛び退って女王蟲の叩き潰しをかわした。女王蟲が頭を揺らしながら大口をあけて吠える。一向に潰れない小さな獲物に相当苛立っているようだ。
「よし……それでいい」
ソルフィスが擦れた声を絞り出した。
もう自分の役目は果たしただろう。脚が震えて満足に動かない。少し頑張り過ぎたようだ。
剛身術によって支えられていた強靭な肉体に異変が生じ、崩れつつあった。
不覚にも精神の集中に乱れが生じ、術によって緩和されていた身体への負担が跳ね返ってきているのだ。
「ソル、お前……」
「たはは、ティノ。もうダメ……お腹へっちゃった……」
「え?」
ティノはあんぐりと口を開けた。
「ええー! ここにきてそれですか!?」
「うるさい……」
腹が減っては戦ができぬというが、ソルフィスほどその言葉が似合うものはいない。
ソルフィスは腹が減ると集中力が乱れ、魔術がまるで使えなくなってしまうという、どうしようもない癖があった。というか、彼女の場合、魔力を使うほど腹が減ってくるのだ。
ソルフィスにとっての空腹は、すなわち魔力の枯渇といってもよかった。加えて一昨日からの移動続きで疲労も相当に溜まっている。無理もない話だが、これまでずっと気合いでおぎなっていたところに、綻びが出始めていたのだ。
「オメー、さっき師匠のメシもりもり食ってただろが!」
「あんなんじゃ全然足りないもん」
「わー」
もはやソルフィスに空を飛ぶ力は残っていない。ベルベットも消滅したとなった今、全身を覆う剛身術の力も消え失せてしまうのも時間の問題だ。そうなればソルフィスはただの非力な少女に戻ってしまう。彼女は剣と盾と翼を一挙に失ってしまうのだ。
「逃げて、ティノ」
女王蟲の巨体が再び、兆しのような動きをみせた。あの体当たりを仕掛けてくる気だろう。
「ティノ、早く! キミだけでも逃げて」
それでも黒猫は頑として動かなかった。
「ダメだ。言ったろ、お前がここにいるんなら、俺もここにいる」
ソルフィスはティノを見た。肩の黒猫を腕に持ってきてそっと抱きしめた。
「バカ……」
女王蟲がその巨体をぶち当てんと、空気孔を全開し、腹を膨らませた。
悲鳴や怒号にも似た仲間の叫びが聞こえる。数々の声はくぐもっていて判然としない。
ソルフィスが目を移すと、黄塵に煙る視線の先に妹の姿がみえた。シャナトリアは瞑目し、舞うような手つきで懸命に精霊を呼び集めている。その姿がひどく幻想的で愛おしく思えた。術の完成はもう間もなくだろう。ソルフィスは安堵の微笑を浮かべた。
女王蟲の巨体が大きく動く。
次の一撃は耐えられそうにない。




