8-02
蟲の攻勢は峠を越え、ようやく沈静化の下り坂に差し掛かりはじめた。
ソルフィス達が引いた河の効果が確実に現われ始めている。驚くことに蟲たちは勢いに任せて強引に河を渡ろうとする者もいるが、ほとんどは河の水に流されてしまう。対岸に辿り着けても、そこで撃退される。なにがそこまで彼らを前へ前へと急き立てるのか分らないが、集落に殺到する蟲の数は急速に減少していった。
魔力障壁は今や見るも無残な有様だったが、蟲の猛攻によく耐えてくれた。
あとは河岸に固まる魔獣を今のうちに可能な限り殲滅するだけだ。
にわかに空が黒く曇りだした。
あちこちに小さく鈍い雷鳴が轟きはじめている。
「こりゃ一雨くるかもしれませんな」
気圧の変化でツンとなる耳を押さえながらロッドは空を見上げた。
「砂漠に雨雲? 馬鹿な……」
横に並んで空を見上げるアンセムの宮廷魔導士オクシスに、ロッドは首をめぐらせた。
「いやぁ、これはたぶん」
ロッドはすぐそこの宿場の屋上を指差した。
「彼女の力なのでしょう」
「彼女?」
オクシスがその先に視線を移すと、白い装束を身に纏った少女が佇んでいた。
長い髪を風にたなびかせ、半眼の目はどこを見るともなく河の対岸に向けられている。
「あの娘は?」
「彼女がそこの涸川に水を導いた張本人ですよ」
「なんですと」
オクシスは高台に立つ少女をまじまじと見た。
先ほどの空を飛んでいた娘とは違うようだ。いつの間に居たのだろう。
碧く光る銀髪の少女は片方の手をひらき、まっすぐ天に向かって差しのべている。もう片方の手は意味ありげに印を結んで前方に漂わせていた。上空の雲を形作るための術式なのであろうか。彼女は瞳をとじ、片脚を踏み出して一定のリズムを刻むかの如く踵で地面を叩く。その姿は幻想の民が紡ぎだす幽玄な旋律にのせられて舞う妖精のようであった。
雷鳴が激しさを増すにつれて赤銅蟲たちは狂ったようにざわめき出した。今までに感じたことの無い身の危険を肌で予感しているのかもしれない。
雷雲の回転が勢いを増してゆき、湿り気を帯びた強い風が砂塵を吹き消してゆく。
見上げれば巨大な石臼のような黒雲が捻じれ、中心からめくれあがるようにうねっていた。それを取り巻くようにして天の梯子が遠慮がちに光の脚を降ろし、荒々しくも荘厳に満ちた光景を創り出していた。
シャナトリアは力の充足を感じ、うっすらと眼をあけた。
その瞳は虚ろで捉えどころがなかったが、自分がこれから何を討つのか、彼女はしっかりと認識している。雷雲が起こす風のおかげで、砂塵はすっかり掻き消えていた。
河から招き集めた水の精霊がシャナトリアの体を取り巻き、渦を描いて空へと昇ってゆく。今、それは最高潮に満たされた。
雪山で崩していた体調も回復している。悪くない手応えだ。これなら、いける――
天に向かって挙げられていた彼女のしなやかな手が、玉を投げるような動作で半弧を描き、すっと前方に倒された。
次の瞬間、猛烈な雹の嵐が吹き荒れた。
ただの雹ではない。
それは人の頭ほどの氷のつぶてであり、つららのように鋭利な氷柱や、岩のように大きな氷塊であった。自然現象で見られるものではなく、あきらかに魔術によって形成されたものだった。無数の氷弾が、黒くうごめく丘に雨あられとなって降り注ぎ、硬い蟲の甲殻を貫き、肉をえぐり飛ばし、地面に叩き伏せた。
その威力は丘の輪郭をまるごと変えてしまうほどだった。蟲たちは逃げ場を求めて虚しく足掻いた。
「うへ、凄まじいな。まさに一網打尽だ」
アイシャが驚嘆の声をあげる。
ロッドやオクシスをはじめ、各所の魔導士たちがどよめきにも似た歓声をあげた。
シャナトリアは踊るような手つきで差し出していた腕を静かに引き、さっと前方に突き出した。
目の眩むような閃光が空を奔る。大気を引き裂かんばかりの爆裂音が轟き、丘に蠢く蟲の群れに光の柱が落ちた。その場に居た数十体の赤銅蟲が木っ端のように吹き飛んだ。
シャナトリアが頭上の乱雲から雷を落としたのだ。
先ほどティノとムカデが逃げ惑っていた小さな電撃とは桁違いの威力であった。水の精霊が作り出した乱雲が、今度は雷の精霊を作り出し、とてつもない力を生み出したのだ。
落雷の稲妻は一瞬にして蟲たちの肉を引き裂いて焼き焦がし、動かぬ塊に変えた。
シャナトリアは時折、片手を天に掲げて水の精霊を乱雲へと充填させては振り下ろし、第二第三の猛襲の波を呼び寄せた。傍から見ていると、焚き木を加えるだけのような、とても単純な作業にみえる。しかしそこには、莫大な魔力の収束と放出が行われているのだ。
それはアゼルの二級魔導士たちが蟲の足止めだけで精一杯だった雷撃の魔術とは比較にならないほどの強大な力であった。
「あの娘、天をも操るのか」
どうなっているのだ。一体ここで何が起きている。
オクシスは高台の上で優雅に舞い続けるシャナトリアを仰ぎ見た。
これほどの規模の魔術であれば、北壁の万年雪を融かして河に流すというという話も、うなずけるものがあった。それだけの魔力をこの少女は持っているのだ。ありえない力だ。
先ほどの紅い髪をした少女の華麗な飛翔術も失われた太古のものだった。古い時代の極めて高度な神秘魔術の集大成だと聞く。そしてさらにこの二人は姉妹なのだという。
魔術の性質と規模、高い精度の操術、それを維持する集中力、そして欠かすことのできぬ力の源泉、魔力。これらをどれほど費やさねばならないか。それを推し量ろうとすると、息を呑むほどの凄まじさに戦慄すら覚える。
なんという広大な魔力の持ち主だろう!
まだ子供だというのに、そこらの一流の魔導士をはるかに凌ぐ魔力を備えているのだ。
天賦の才というほかない。
なんという姉妹だろう。まことに彼女たちは一体何者なのだろうか。オクシスは唸った。
「――大魔道ではないか」
ぼそりとつぶやく。後にもオクシスは周りにこう漏らし、この一言でもって姉妹を評した。
「ティノ」
突然、シャナトリアに呼ばれて黒猫は飛び上がった。
「ひゃィ、俺?」
「……きて」
ソルフィスにつつかれて、ティノは恐るおそるシャナトリアの差しのべる腕に飛びついた。
シャナトリアは半覚醒のようなぼんやりとした表情のまま、ティノに語りかけた。
「隠れた敵を……あなたが視て」
「ああ、分かった。奴らを探ればいいんだな」
シャナトリアはうなずく。
「見つけたら、想って。強く、想って。それで、伝わる」
「お、おう」
共感能力。対象者の特定の感覚を自意識下のものにする、相当に高度な技だ。
なんて器用な奴。ティノはシャナトリアの底知れぬ力を次々と見せられ、驚きに身を震わせた。
ティノは小さな体を総動員させて、潜伏した敵の感知に集中した。
どのような魔獣でも魔力を持つといわれている。少しでも魔力の波動があれば、ティノはそれを動物的感覚で感じ取ることができるのだ。
「――いた」
街の周辺に潜む赤銅蟲の気配を察知したティノは、それを強く意識した。
シャナトリアが動いた。次の瞬間、防壁外の何もない地面に凄まじい雷が落ちた。地中に隠れていた蟲が絶叫しながら飛び出してくる。そこに氷の墓標が降ってきた。
シャナトリアはティノが指し示す位置に次々と攻撃を加え、着実に蟲を退治していく。
「良いコンビネーションだな。なぁ、ソルフィス?」
ソルフィスはにこにこと微笑んでいた。
ティノを取られてちょっぴり羨ましい気持ちもあったが、二人の活躍が素直に嬉しかった。
シャナトリアは相変わらず半覚醒のようにぼんやりとしているが、標的への狙いは恐ろしく正確だ。ティノがここだと思う場所に狙いどおりドカンドカン雷を落とすので、ティノは小躍りしたくなる気持ちだった。
氷と雷の圧倒的な火力で、対岸の丘を覆っていた蟲達は尻に火がついたように散り始めた。いくらかは混乱して河に飛び込み、そのまま動けなくなって流されていった。
「ほとんど片付いたな……。いや、すげえわ。この作戦も無事完了だな」
アイシャが驚くのも無理はない。シャナトリア一人で残った蟲のざっと三分の一以上を倒してしまったのだ。なんとも凄まじい人間砲台である。
アイシャはソルフィスを振り返って、にっと笑った。ソルフィスも微笑み返した。
「そうですね……、もう安心かな」
そう言いながらも、ソルフィスは心のどこかに引っかかるものを感じていた。
それは当初の目的――魔獣に取り憑いた悪霊の退治――そもそもこのために旅立ったのだ。これでいいのだろうか。悪霊とやらはどこにいるのか? もう倒してしまったのだろうか?
確かな手ごたえが感じられず、ソルフィスは不安になった。
「アイシャさん、ちょっと上にあがって様子を見てきます」
「飛ぶのか? わかった、気をつけろよ」
ソルフィスはシャナトリアに駆け寄り、許しを得て肩の上の黒猫を拝借した。
「次はソルかぁ。まったくさっきから猫使いが荒いことなのだぜ」
「いいから、いくよっ」
毒づくティノを首の上に乗せるとソルフィスは飛翔彗を手にとって空に舞いあがった。
シャナトリアの作り出した乱雲の影響で上空は風が激しく、バランスを保つのに神経をつかった。下は相変わらず見渡す限り真っ黒だが、動くものはもはや見当たらない。
大規模な撃退作戦は終息を迎えたといってよいだろう。
「終わったな。さすがは我らがシャナトリア大先生だ」
戦果に満足げなティノとは対照的に、ソルフィスは浮かない顔で辺りを見回していた。
「なにか気になるところでもあるのか、ソル?」
「うん……。ねえ、ティノ。倒した蟲の中に、変なのいなかった……?」
「あん? 変なの? なんだそりゃ」
「変なのっていうのはね、あのね……、とっても悪そうなムシっていうか、その……」
それ以上はうまく説明できず、ソルフィスは口ごもってしまった。
ティノの中に潜む竜の魂が伝えてきた信じ難い話。
かつて彼が呑み込んだという無数の悪霊が世界中に解き放たれ、その悪霊どもが彼に復讐しようとしている。つまりそれは、ティノの身の危険に他ならない。
何も知らないティノにこのことをどうやって伝えたらよいのか。結局それができないまま、ここまでやって来てしまった。
この事実を伝えれば、きっとティノは怒るだろう。自分のためにソルフィスやシャナトリアが危険を冒していると知れば、きっと。だからソルフィスは困惑した。次の言葉がどうしても出てこないのだ。しかし、ソルフィスは意外な形で驚かされることになった。
ティノがふと神妙な顔つきになって口を開いた。
「なあ、ソル。俺たちは悪霊ってヤツを倒しに来たんだよな」
ソルフィスは心臓が飛び出るほど驚いた。
「ティノ、知ってたの!?」
「ああ。アイツの落っことした、クソの後始末みてえなもんだろ? 迷惑な話だよな」
「どうしてそれを……」
「奴から話を聞いた。昨夜お前らが寝てるときにね……、同居人として当然知っておくべきことだからってさ。勝手だよなぁ。でも一応、あれでも俺の居候だからな。まあ、それにしても、城でいたときのお前らの様子はすっげえ変だなとは思ってたよ」
ティノは事もなげにそう言ってのける。
ソルフィスはこの件を今まで黙っていたことが申し訳なくて涙があふれてきた。
「ごめんね、ティノ。すぐに話そうと思ってたのに……、どうしても言い出せなくて」
「オ、オイ。なんでお前が謝るんだよ。面倒かけてんのはこっちだろ」
ティノはソルフィスの肩から滑り降り、風の吹く中彗の先端に立った。そうして西に傾きつつある陽の光を彼は眩しそうに眺めた。
「いつも悪いな、ソル。お前とシャナには本当に感謝してる」
「なんでよ……、お礼を言いたいのはこっちの方だよ」
ソルフィスは手を伸ばしたいのを必死でこらえ、胸に秘めていた精一杯の気持ちを口にした。
「ティノ、あのね。もしキミが、自分のことで周りに迷惑かけてると思ってるんだとしたら、それで自分を責めてるんだとしたら、それは間違いだよ。キミはすごい力を持ってる。そのおかげで今のわたしたちがこうして居られるんだ。感謝してもしきれないくらい。
でも、そのせいでキミは大きな代償を払ってる。謝らなきゃいけないのはわたしたちの方なんだ。……だから、だからわたしは……」
ティノは振り返ってソルフィスを見た。
「ソル、迷惑ついでにひとつ頼みごとがあるんだけど、聞いてくんねえかな」
「な、なに?」
「俺さ、こんななりだけどさあ、戦おうと思うんだ。その悪霊ってやつと……」
ティノと会って以来、ソルフィスはずっと思ってきたことがあった。
彼は本当に強い。
「力を、貸してくんねえかな」
ソルフィスは力いっぱいうなずいた。何度もうなずいた。嬉しくて胸がいっぱいになった。
「キミを助ける。どんなことがあっても、わたしはキミの味方だよ!」
ティノはひどく気恥ずかしそうに目を泳がせた。
「お、俺たち、コンビだもんな」
「うんっ!」
きっと、本当の意味でようやくここから冒険の旅が始まったのかもしれない。
ソルフィスの胸は高鳴った。それは旅立ちの感動か、ティノに一歩近づけた嬉しさなのか。
「じゃあ、ちょっくら悪霊退治とやらにいきますか」
「うんっ! ……あ。ねえ、ティノ。今のキミの言葉、後でシャナにも聞かせてあげてね」
「え、なんで。やだよ、アイツ怖いもん。ソルから話しといてくれよ」
「ダメ! ちゃんと筋とおすこと。シャナとは正々堂々って約束したもん」
「ハ? なに、正々堂々って」
「ヒミツ!」
「なんだそりゃ」
街の外縁部に沿って、螺旋を描きながらソルフィスはゆっくりと上昇してゆく。
数回の念入りな確認を行ったが、これ以上の魔獣の気配は無かった。
「悪霊とはなんだったのか」
「もう魔力の気配ないの?」
「なーんも無いね。残滓もすっかり消えてなくなってるし、地中のやつは先生が全部ほじくり返したからなぁ。川に流された奴除いて、ここらへんのは全部退治されたと思うよ」
ソルフィスはどうも腑に落ちず、空を漂い続けた。
「おかしい。アイツの言ってたことって結局何なんだろう……。なにか手掛かりとかない?」
「そういや奴は、悪霊は悪霊らしいやり方をする、とか言ってたけど。わけわからんね」
これ以上探っても徒労に終わりそうなため、ソルフィスたちは引き上げることにした。
その時である。
――まだ終わってはいない――
誰のものでもない、巨大な思念の声がティノの精神を射すくめた。
「うォっ」
――ドレイク、またオメーか。
そう思った瞬間、ティノは尋常ならざる殺気を感じた。
「どうしたの?」
ソルフィスが不思議と不安の色が入り混じった声で訊ねた。ティノは微かに体を震わせながら、唾を飲み込むようにして答えた。
「やばい……。ソル、やべェ。な、何かが近くに居る。来るぞ!」
忽然と現われた強大な存在感。目に見えない正体不明の気配に圧倒され、ティノの身体は縛られたように動けなくなってしまった。
「ティノ、来るって何が!?」
「まだ終わっちゃいなかったんだ!」
大きな爆発音で思考が吹き飛んだ。ソルフィスとティノは思わず身体が竦んだ。
ただの轟音ではない。抑えきれない溶岩が爆発を伴って地表に噴出したかのような、巨大な鳴動だった。
対岸の丘の向こうからとてつもなく大きな黒い影が飛び出した。
それはこれまでとは比べものにならないほど巨大な蟲だった。
いくつもの節くれだった不気味な巨体が爆音とともに砂煙を纏いながら、大蛇のように身をくねらせ、まっすぐ上空に向かって突き進んでいた。
「な、なにあれ!?」
「うおぉ!? で、で、でけェ。クソデケェ! 蟲の親分かあれは!」
あまりにも巨大な赤銅蟲。いや、あれは本当に赤銅蟲なのだろうか。天に向かってひたすら昇るその姿はさながら暗黒の巨塔のようだ。
一体今までどこにその身を隠していたのだろう。その疑問をソルフィスはすぐに見破った。そしてそのおぞましい姿に目を覆いたくなった。
「あいつ、蟲の死骸が集まってできてる……!」
「ハァ? それって、つまり、合体!?」
ティノは強風の中、必死に目を凝らした。巨大蟲が出現した地点に注目すると一目瞭然であった。黒い塊の根元に巨大な渦が巻かれるようにして、無数の蟲の死骸が取り込まれてゆき、やがて一体の巨大な蟲へと融合していくのだ。まるで蛇のウロコが一枚一枚はめ込まれてゆくように。
「マジかよ……。ソル、あいつだ……」
「えっ?」
「悪霊ってやつだよ。この感じ……さっきからビリビリきてる。間違いない、あいつだ!」
「本当に!?」
地上は騒然となっていた。
「なんなんだあのデカブツは!」
「あれは、なんだ!? 本当にあの蟲か?」
「死骸を取り込んでるぞ!」
「集合体だと? どういう呪いだ!?」
「ありえん!」
口々に魔導士たちがそう叫ぶなか、シャナトリアは新たに現われた怪物に向けて一心不乱に雹の嵐を叩きつけていた。
嘘……っ、こんなこと……。
背中に奔る戦慄をシャナトリアは歯噛みして懸命に打ち払おうとした。
巨大蟲はシャナトリアの元素霊魔術を一身に浴びてはいたが、要塞のように堅牢な甲殻は氷の弾丸を、稲妻の猛襲をものともしていなかった。
「徹らない……」
前線に立っていたオクシスをはじめとするアンセムの魔導士と、周囲のアゼルの魔導士達は尻に火がついたように防壁の修復と増強に力を注いだ。しかしその努力はまったくの無益だということをすぐに思い知らされることになる。
巨大な黒い塊は上昇運動を続けながら竜巻のようにねじれ、地表の蟲を吸い上げていたが、やがてそれが収まると、その巨体がぐらりと傾いた。
異様なまでに巨大な影が砂漠のちっぽけな集落に伸びていく。
「落ちてくるぞ! 河を越える!」
「退け、退け! 逃げろ!」
河を越えるどころではなかった。
自由落下に身を任せ、巨大蟲はその長躯をたわませながら街の中に墜落した。
大質量がもたらすその威力は想像を絶するものであった。小屋ほどもある胴回りの巨体がしたたかに大地を打ちすえ、攻城兵器の鉄槌を遥かに凌ぐ衝撃があたりを襲った。強化された防壁を易々と粉砕し、石と粘土でできた頑丈なはずの建物が一瞬で粉みじんになった。
その巨大蟲は丘から一気に河を、街を越えて、魔導障壁の先端に取っ掛かったのだ。とてつもない大きさであった。
巨大蟲は頭をゆっくりともたげると、何かを探すように一対の触手を不気味に波打たせた。口と思わしき部分に赤黒い穴が開き、両端から死神の鎌のような巨大な顎門が伸びてきた。ドス黒い瘴気を体中から漂わせ、その奥から赤い眼光が輝いた。
これを生物と呼んでよいものだろうか。蟲の死肉の集合体だったものが今、完全にひとつの生命体となったのである。それはまさに赤銅蟲の女王といってよかった。
そして彼女は、求めていた獲物を探し当てた。
「――!!」
その巨体と気味悪さに圧倒され、シャナトリアは体がすくみあがってしまった。
女王蟲はあきらかにシャナトリアに狙いを定め、甲殻の節目を伸縮させながら幾多の肢で建物を踏み砕き、ゆっくりとシャナトリアの立つ宿屋へと首をもたげた。
シャナトリアは悲鳴をあげた。
恐怖と嫌悪感に襲われ、すっかり取り乱したシャナトリは脚に力が入らず、ぺたんと床に尻をついてしまった。
バツン!
――シャナトリアの脳裏になにか音が響いた。
大魔法のために呼び寄せておいた水の精霊が一斉に剥離したのだ。この瞬間、彼女の魔術は掻き消えてしまった。
「いやあっ、来ないで!」
「シャナ!」
「オイ、あいつシャナを狙ってるぞ」
「助けなきゃ!」
妹の危機にソルフィスは血相を変えて飛び出した。しかし、横殴りの凄まじい風圧が突如としてソルフィスを襲った。強制的に解除されてしまったシャナトリアの術が上空の力場を崩壊消滅させ、制御を失った乱雲が突風となって吹き荒れたのだ。
「あッ」完全に不意を突かれたティノは風をうけて彗から足を滑らせてしまった。
「ティノーっ!」
ソルフィスはとっさに黒猫の尻尾を掴んだが、体勢を崩して吹き飛ばされてしまった。




