望んだはずの解放
「…まさか恩を仇で返すことになるとは思わなかった」
通り過ぎる会話を遮るように取り繕った空気が一転、凍り付く。
おにいちゃんは小さく笑うとお母さんを睨みつけた。
「あなたはもう母親じゃない」
今まで見たこともない怖い表情をしたおにいちゃんが吐き捨てるように呟いた。
そしてあたしを一瞬見て目が合えば悲し気に瞳が揺らぐ。
だけどすぐに振り返りもしないで部屋から出ていってしまった。
「待って、貴裕。どうしたの!」
美佳子さんが驚いたように慌てて後を追う。
お母さんは顔を強張らせたまま動かない。
あたしも何が起こったか分からずただ茫然と立ち尽くしているだけ。
まるで時が止まったみたいだ。
「これで挨拶も済んだようだし、僕らも行こうか」
あたしの手を取り、雅紀さんは我関せずとにっこり笑う。
「かまいませんよね? 好きにさせていただきますよ」
そう言って立ち去ろうとするあたしたちが見えていないかのように無反応なお母さん。
「お、奥様!」
ドアの近くにいたマリさんが驚いたように声を上げたものの、あたしは引っ張られるまま雅紀さんと共に部屋を出た。
「あの…、雅紀さん」
連れ出されるまま車に乗り込んだものの、未だに今の状況が呑み込めない。
いろいろあり過ぎて頭の中がごちゃごちゃになってる。
おにいちゃんとやっと会えたのに雅紀さんが婚約者だなんて!
「食事にしようか? 葵ちゃんの好きなもの食べよう」
雅紀さんは有無を言わさず車を走らせた。
朝からいろいろあったものの、今はもうお昼に近い時間になっている。
到着した場所は行き慣れていた手作りが売りのバーガーショップ。
夏休みも終わりに近いのに人は多くて友だち同士や家族連れで賑わっていた。
久しぶりの外出でここへ来るのも懐かしく感じる。
「葵ちゃん、ここのバーガーが好きだよね? 遠慮せずたくさん食べて」
言われるがまま頷いたけど、どれもあたしの好きなものばかりをたくさん注文している。
番号札を受け取ると空いている席にあたしを座らせた。
「ここならとやかく言う人なんていないし、作法を気にせず好きに食べられるかな。…追い詰められてかわいそうに。どんどんやつれていってるしどうしようもないよね、藤堂家は。でも葵ちゃん、僕が助けてあげるから安心して」
商品を受け取り、席に付いた雅紀さんがあたしを見つめると優しく微笑む。
「大丈夫、僕なら藤堂家から助け出せる。僕はそのままの君でいいから何も心配する必要はないよ。だから僕の言うこと解かるよね? 君はただ婚約して僕のそばにいること。君の能力は判っているからできなくても構わない。僕の婚約者として存在するだけでいい。勉強だって苦手だよね? 高校を卒業したらすぐに結婚して楽にしてればいい。あ、でも僕がいない時は自由にしていいけど僕が帰ってくるまでには必ず出迎えて家にいること。それくらいは葵ちゃんでもできるでしょ?」
銀縁の眼鏡の奥の瞳が何故か冷たく感じる。笑っているのに怖いと思うのは何でだろう。
「ま、雅紀さん。婚約って本当ですか?」
「あのね、僕の家は情報機器で急成長した国内トップになった会社でね。小さくてぽっと出の企業なんだけど突然藤堂家の方から婚約の申し出があったんだ。業務提携みたいな政略的なものかなって最初はどんな裏があるんだと思ってたけどまさか葵ちゃんが相手とはね。まあ、いずれ僕が継ぐ会社は安定するし、お母さんは葵ちゃんと僕を結婚させたいみたいだし、断る理由もないかな」
決定しているかのように淡々と話を進めていく雅紀さん。
「大丈夫。これからは僕がそばにいるし、あのお母さんから解放してあげられるよ。葵ちゃんは快活で健康的な方がいいし行動を制限されて閉じ込められたままじゃあね。そうだ、新学期が始まったら僕も大学だし、送迎してあげるよ。まあ、お披露目で婚約が発表されるから早めに周囲にもアピールしておくのもいいかな。…あとは放課後に寄り道でもしようか。僕がいれば好きなところに行けるし、これからは無理に学ばなくてもいいようにするから」
「どうして…」
雅紀さんは仕方がないなという風にお母さんから叩かれた頬に触れている。
「…だから中学の頃から思ってたんだよね? 葵ちゃんにとっておにいちゃんに似てる僕だから嫌な相手じゃないってことぐらい。あんなに好いていてくれたんだし問題ないよね。それに安心していいよ。あの頃と違って僕にとっても魅力的なところはそれなりに充分あるし」
優しい物言いで撫でられる感触にも不安が湧き上がっていくのは何故なんだろう。
「これからは僕がいる限り僕が自由にしてあげるからね。…そろそろ食べようか」
すっかりぬるくなってしまったバーガーを差し出す雅紀さん。
どうしてこんな風になっちゃったの?
ただおにいちゃんに会いたかっただけなのに。
お母さんに恥をかかせるばかりだからお父ちゃんの元に帰ろうと決めたのに。
雅紀さんの存在でバカなあたしは藤堂家というものが重いものなんだとようやく判った。




