安息の中の寂しさ
「あの頃に戻ったみたいだね」
優しげに微笑みかけるその顔がさらにおにいちゃんの雰囲気を醸し出す。
ゆっくりとあたしの右手をつかむとそっと立ち上がらせてくれた。
瞬時に中学生の頃の記憶が蘇り、目の前の懐かしい人を思い出させる。
おにいちゃんに似たその人は高倉雅紀という名のあたしの中学時代の先輩。
入学式の当日、遅刻して校内でパニックになっている時に助けてくれた経緯のある人。
それはあたしが中学1年生になったばかり。
お父ちゃんはちょうど仕事で休めず、欠席せざるを得なくてすごく残念がっていた。
朝早くからの出勤で何度も謝りつつも家を出たのはうっすら覚えている。
あたしはっていうとドキドキして前日はよく眠れなかった。
だから一度は起こされたものの、制服に着替えたまま、…眠っていた。
気が付くと式が始まる時間だった。
慌てふためいて中学校へ向かったけど、校内はシンとしていてどこで行われてるかもわからない。
うろうろしながらさまよっていると突然現れた人とぶつかってしまった。
その人こそ、在校生の代表として入学式に出席していた生徒会長さんだったという訳なの。
「お時間でございます」
マリさんが小さく咳ばらいをした後、中央にあるテーブルへ手のひらを向ける。
「今日から僕が家庭教師だからよろしく」
生徒会長さんはその頃と変わらない様子で優しく微笑むとテーブルの方へと歩き出す。
あたしもマリさんに促され、慌てて席に着いた。
「では高倉様、よろしくお願いします」
簡単な自己紹介の後、マリさんは生徒会長さんに会釈すると邪魔にならないよう入り口付近の片隅に立った。
「それじゃあ、始めようか」
早速、課題が与えられて勉強会のスタート。
なんとなくマリさんの厳しい視線を感じて緊張気味のあたし。
長方形のテーブルに横並びに腰掛け、生徒会長さんはテキストを開きながら柔らかい微笑みを浮かべる。
重苦しいはずの空気が一変して生徒会長さんのペースに染まる。
穏やかで優しくて安心感を覚えるようなそんな感じ。
教え方も丁寧で分かりやすくて中学時代の印象と同じで何も変わってない。
あの頃のままの生徒会長さんがそのままいる。
それにどことなくおにいちゃんに似ているからあの頃と同じ錯覚を起こしそうな雰囲気。
不思議な気持ちになりながら説明する生徒会長さんをじっと見つめる。
初めて出会った時はおにいちゃんと見間違って本当にビックリした。
あの日、慌てていたあたしとぶつかって地面に横たわらせてしまった姿が印象的に残ってる。
あの時、目の前でおにいちゃんが倒れてる、って。海外にいるはずのおにいちゃんが!!
手術が成功してどこかで健康な身体を取り戻した生活を送ってるはずなのに、ここにいるんだ!って。
既に離婚が成立していてもう会えないって聞かされていたのに。
いるはずがないって分かっていたのに。
青白くてやせ細ってたけど優しい微笑みを浮かべていたおにいちゃん。
病気を患っていた頃のおにいちゃんがそのままいた、って思った。
実際は海外なんて行ってなくて手術もせずにこっそり日本にいて学校に通ってたんだって錯覚を起こさせた。
その時の倒れた姿も微笑む表情も優しく接する態度もおにいちゃんそのものの印象だったもの。
おにいちゃんがいる、おにいちゃんが日本にいたんだって。
だから何の接点もない生徒会長さんと話したくてしょうがなかった。
大した用事もないのに話すきっかけをつくったりもした。
そしてほんの少しだけど親しくなってもらえた。
今考えるとバレーボール部に入ったのも生徒会長さんの影響だったかもしれない。
体格がいいから向いてるかもしれないねって本当におにいちゃんから勧められた気がして。
おにいちゃんが応援してくれてる、励ましてくれている、何よりそばにいてくれてる!!
学校で会った回数は数えるほどしかなかったけど心強かったのは覚えてる。
たった1年間だけど幸せな時間を持つことが出来た懐かしい日々。
まさかその生徒会長さんと再び出会うなんて予想もしていなかった。
「葵ちゃん、何か質問かな?」
あたしの視線に気づいた生徒会長さんが銀縁の眼鏡越しにニコリと微笑む。
こんなそばに近づくことがなかったから顔の違いがはっきりする。
よく見るとおにいちゃんより目が細くてちょっとつり目がちなんだな。
でも笑うとやっぱり似ている。
「い、いえ、別に…」
慌てて否定しながらもおにいちゃんの面影を感じずにはいられない。
集中しなきゃと思いながらも気持ちを切り替えられないであっという間に3時間が過ぎた。
「おちこぼれでごめんなさい」
「そんなことないよ、大丈夫。また明日」
生徒会長さんは疲れた様子なんて見せずに微笑むとマリさんと共に部屋から出て行く。
残されたあたしは夢のような気分でぼんやりと座り込んでいた。
これから毎日、生徒会長さんに会う、いや、会えるんだ。
藤堂家に馴染むために忙しい最中でマリさんたちしか見ない日々。
ほんのひと時、安堵感を与える存在が現れた。
この勉強会が全くの見知らぬ人じゃなくて良かった。
生徒会長さんとは思わなかったけど、嬉しかった。
その反面、本当のおにいちゃんに会えないことへの寂しさがこみ上げてくる。
おにいちゃんを思わせる生徒会長さんの存在が我慢していた気持ちを目覚めさせていたんだ。




