待ち詫びた帰宅
「…おい、葵」
肩を揺さぶられ、あたしを呼んでいる声が響いてくる。
「ふぇ?」
眠たさを要求している頭は目に映った存在に気づいた瞬間、驚く。
「お、おにいちゃん?!」
スウェット姿のおにいちゃんが遠慮がちに見つめる。
「時間、いいのか?」
時計を見れば7時半過ぎ、慌てて起き上がった。
目覚ましを掛けてたのに全然気づかなかった。
…昨日はなかなか眠れなかったから。
部屋の一番奥からあたし、お父ちゃん、おにいちゃんと一定の間隔で川の字になって寝転んでいた。
もちろん密接してるわけでもないし、間にお父ちゃんもいるのに何故だかドキドキしていた。
同じ空間におにいちゃんが居る。それだけで寝付けなかった。
ほぼ強引に引き留められたおにいちゃんは居心地が悪そうだった。
だけどお父ちゃんは変わりない態度で接する。
あたしもいつの間にか何となくそれに合わせていた。
あえて問題に触れることなく10年振りに会った時をやり直しているみたいな気持ち。
あのぎこちなさと懐かしさが同居した雰囲気のように。
お父ちゃんが居たからこそ、昨日から形だけでもそんな風に過ごせた。
そうやって少しずつあたしらしい会話も出来た気がする。
おにいちゃんは言葉少なで気まずそうだったけど。
もちろん根底には知らなきゃいけないことがある。
それをもし今訊いてしまったらおにいちゃんが完全に居なくなる不安感に襲われる。
ようやく会えてやっと言葉を交わせるようになったばかり。
この時を離したくないって思うのはいけないのかな?
おにいちゃんの行なったことを触れずにいてまだ真実を知らないまま、いたいって。
今はここにいてくれていることを大事にしたいから。
「じゃ、いってきます」
あたしは後ろ髪惹かれる思いで家を出る。
学校から帰ったらいなくなってるんじゃないのかって。
「…おにいちゃん、黙っていなくなるなんて、い、嫌だからね」
玄関に立つおにいちゃんにそう言い切るとあたしは一気に階段を駆け下りた。
一日中、ソワソワしてしょうがなかった。
おにいちゃんはいてくれてるのか、いなくならないよねって不安だらけで。
落ち着きが無いって咲ちゃんに指摘され、そんなことないってずっと言ってた。
授業が長く感じ、ようやく放課後を迎えた時は家に帰りたくて仕方なかった。
6月の大会までは休めない部活。だけど今日は早く家に帰りたい。
昨日、早退したばかりでそんなこと出来ないと解っていて少しでも早く部活が終わることを願っていた。
解散の合図と共に挨拶もそこそこでジャージから制服に着替える時間も勿体無くてそのまま飛び出す。
待ちわびたこの時間。1秒でも早く家に帰り着きたい。
おにいちゃん居るよね? きっと待ってくれているよね?
息を切らし、階段を駆け上がり、ドアを開けるのももどかしい。
「ただ、いまっ」
「どうした葵、そんなに慌てて」
台所に立つお父ちゃんが驚いた声を上げる。
あたしはすぐに部屋を見渡し、その存在を確認する。
「おかえり、葵」
目が合ったおにいちゃんが遠慮がちに口にする。
良かった、居る。おにいちゃんが、いる!!
あたしはその場にしゃがみ込みながら靴を脱ぐ。
「何だ葵? 大丈夫か?」
肩で息するあたしをお父ちゃんは心配そうに覗き込む。
少しでも早く帰りたくて全力疾走。さすがのあたしもちょっと無理したみたい。
なかなか呼吸が整わずに苦しくて気を失っていた。
「…い、葵」
頬に軽い刺激を感じ、目を見開けばおにいちゃんの顔。
「ほ、ほら貴裕」
お父ちゃんの声がしてあたしの唇を湿らせる感触。
「よ、良かった葵。気づいたんだな。ワシは驚いたぞ」
横にはオロオロとしたお父ちゃんの顔。
「あれ? あたし…」
「気を失ってた」
上から声が降ってきて気がつけばおにいちゃんの腕の中。
おにいちゃんの胸に寄りかかるようにして支えられ、しっかりと抱きしめられている。
「もう大丈夫ですよ」
おにいちゃんは心配顔のお父ちゃんに向かってそう言った。
「そ、そうか」
お父ちゃんは安心したように深いため息をついた。
あたしはそんなやり取りの中、おにいちゃんを感じてドキドキし始めていた。
おにいちゃんの胸板や首筋から肩にかけて回された腕の感触。
見上げれば間近にある顔や温かさを感じる体温。
おにいちゃんそのものに包み込まれている、実感。
「もう、起きれるだろ?」
優しげなおにいちゃんの声。伺うような瞳。
ぐいぐいとスピードを上げて波打つ鼓動。全身が熱帯びてくる。
あたしはただコクンと頷いた。
おにいちゃんは腕に力を入れるとあたしの背を起こした。
「あ、ありがとう、おにいちゃん」
心臓が飛び出そうな勢いで素早く起き上がると身体を離す。
これ以上触れられるとあたしの鼓動が分かってしまいそうなくらいドキドキしてる。
「か、顔洗ってこよう」
そう呟くと慌てて洗面所に逃げ込む。
昨日まで意識しないようにと押さえ込んでいた想い。
間近でおにいちゃんに触れて全身で感じる熱い気持ち。
おにいちゃんが、好き。
一緒に居たいのも離れたくないのもこの想いがあるから。
だけど気づかれちゃいけないんだ。
徐々にペースを取り戻しつつあるおにいちゃんの様子。
その状態を保つためにもしばらく身を置いてもらう為にも気づかれちゃいけない。
おにいちゃんに居てもらうためにはいつものあたしでいなきゃ。
鏡に映る姿にそう言い聞かせていた。




