変わらない関係、変わっていく感情 《貴裕視点》
…参った。
永井から美佳子の名を聞いた瞬間、そう思った。
「た、貴裕様、いいの?」
相変わらず名前を呼ぶ時はたどたどしい口調の葵は振り返りながら問いかける。
俺はそれに答えることなく、力強く手を握り締めたままだ。
できれば美佳子の存在を葵の耳に入れたくなかった。
そして美佳子にも葵を知られたくなかった。
階段を昇りきった後、不安げな表情で葵は見つめる。
どうしていいのか分からないといった感じだろう。
葵の部屋の前まで連れていき、手を放すと向き合うように体勢を整える。
さっきまで紅潮していた顔が嘘みたいに強張っているようだ。
楽しい時間から冷めたように。
俺はひと呼吸おくといつものように笑いかける。
「葵、今日はもういいから、ゆっくり休めよ」
ポンと軽く頭をたたくとドアを開けて中へと促した。
これからの日々の影響に不安を残しながら―――。
葵がこの屋敷に来て早1ヶ月。
表向きは専属として滞在の中、何とかやっている。
俺との生活にもようやく慣れ始めたといえるだろう。
マサに言わせると初めて接する鍛えがいのあるメイド見習いらしい。
小さい頃から不器用だったからな、葵は。
が、それに対照するかのように一生懸命。
やる気があっても技術がなかなか付いてこないから苦労してると思う。
相変わらずのままだ。
10年ぶりの再会となったあの日。
くりっとした黒い瞳に肩までストレートボブ、ぷっくりとした発育の良い体型をした制服姿が目に入った。
すぐに葵だと分かった。
あどけない幼い頃の面影を残したまま、成長した葵。
俺を見た途端、ぽか~んと口を開けて不思議そうな顔をしていた。
それから凝視したかと思えばぐるんと瞳を動かして考え込み、ひらめいた様に頬を上げる。
だが自信がなさそうに恐る恐る言葉にする。
…無邪気な頃の葵がそのままいた。
俺は生まれつき心臓に爆弾を抱えていて生死をさまようほどの病気持ちだった。
成長するにつれ、その症状は良くも悪くもなく、最低限の生活は送れるが無理は出来ない身体となっていた。
小1の頃産まれた葵は俺とは全く異なり、健康そのものといった丸々とした赤ん坊。
喜怒哀楽が分かりやすくてよく食べよく寝るといった愛くるしい存在だった。
思えばその頃から頻繁には発作が起こらなくなったのかもしれない。
数年が経ち、物心つく頃、俺の病気を肌で感じるようになった葵は小さいながらに気に掛けるようになっていた。
その頃の両親は俺の治療費のために共働きで葵と二人で過ごす時間も多かった。
両親がいなかった時間は常に一緒だったかもしれない。
俺の体調の変化を見逃さないためだったのだろう。
それでもやはり弱い身体。
ふとした拍子で起こる発作にどうしたらいいのか分からず、葵なりに一生懸命だった。
小さな葵が真っ直ぐで健気に尽くしたあの想い出は決して忘れない。
だから手術の話を耳にした時、健康になりたいと思った。
葵自身が健康だという後ろめたさを感じてる気持ちを無くしてやりたい。
そして元気になって普通の生活を送りたい。
そんな希望に満ちたひとつの願い。
だがひとつの願いが叶う時、大事なものが犠牲になっているとは気づけないでいた。
知らない間の両親の離婚。
俺の健康と引き換えに葵と離れ離れになってしまった。
海外滞在中だった5年前。
日本でも有数の企業を誇る藤堂財閥の藤堂巧氏との再婚。
義理の父という家族のはずが数年後、俺の才能を評価し、日本での藤堂財閥の取締役として抜擢。
まさかこんな生活を送ることになるとは想像していなかった。
空白の10年間。
いろんなことがあり、いろんなことを知ってしまうと人は変わってしまう。
なのに、少しも変わっていない葵。
嬉しそうに抱きついてきた時、正直、戸惑いを隠しきれなかった。
健康になった俺を心の底から喜んでいるのが伝わってきたからだ。
何も知らない頃だったら純粋に受け止めることが出来た気持ち。
だが、今は違う。
複雑な感情を胸に大人になってしまった。
あの頃とは違う俺。
だが無くしたものを思い出させてくれ、引き込んでしまった俺を呼び起こしてくれる。
いつも心の片隅に居続けた存在。
葵さえそばに居るようになればいい。
最初はそう、思っていた。




