天使の舞踏会2
辛うじて歪んでいた唇は、完全に歪みを──笑みを消した。
リジンはさも楽しそうに令嬢と囁き合っている。
どくん、鼓動が、遅く強く打った。胸に溢れる思いはなんだろう。リジンに対する温かな柔らかい波と、令嬢に対する黒く淀んだ波が、同時に生まれて同時に弾けた。
恋をしたことがなかったローズはその気持ちを言葉に出来なかったし、それを彼女に伝える者もいなかった。
「ダンスに集中されていますか?レディ・ローズ」
華麗にターンしたローズに、スティーブンが囁きかける。いつの間にかスティーブンはリジンを見ておらず、ローズも虚空をぼんやりと見つめていた。
「ぁ……も、申し訳ございません」
──ダンスに集中しなければ。じゃないと、相手の方に失礼だから。
ダンスの家庭教師が言った言葉をそのまま、心で繰り返す。これまでは、ダンスに集中しようと頑張ったりすることはなかった。誰と踊ってもそれなりに楽しかった。
なのに今は、リジンに傾きかけようとする心を必死に、スティーブンへ向けようとしている。彼と踊るダンスに集中しなければ、と半ば命令のように。
「レディ・ローズは、ダンスをする時、それは楽しそうに踊ると聞いていたので。少し意外でした」
「また噂、ですか……」
ポツリ。
心に溜まるものの、正体は。
「私は今、楽しそうではありませんか?」
「──ええ、まあ。あまり楽しそうには見えませんね。私としましては、例えばあの、リジンと踊っている令嬢のような顔を想像していました」
リジンと踊っている令嬢……。彼女の顔を盗み見して、ローズは苦笑した。
恍惚として、まるで生きたまま楽園に行っているような。頬を染めてリジンを見上げている彼女は、少女のようにも大人の女性のようにも見える。
──それはまるで。
「恋をしているみたい……」
「あっははは!冗談ですよ。レディにあんな目で見つめられたら、私はおかしくなってしまう」
ひとしきりスティーブンが笑うと、ローズは恐る恐る言った。
「リジン様って、人気あるのですね」
「おや、私と踊っているのにリジンの話ですか?──別に構いませんが。リジンはモテますよ~。あいつも、レディと似たような噂がありますからねぇ?」
「天使のように優しい……と?」
「ええ。怒らないし、優しい。兄弟で性格が逆なんですよねぇ。面白いことです」
私とルーちゃんも逆だわ。そう思ったが、ローズは言わなかった。
スティーブンはリジンの話をローズにしてくれ、その間だけはローズもリジンから意識を逸らし、純粋に楽しめた。一曲が終わり、スティーブンはローズに頭を下げる。同じくローズもドレスの裾を持ち上げ、礼をした。
「とても有意義な時間を過ごせました」
「ええ、私もです」
「レディの興味も分かったことですし」
スティーブンがチラリと、自分達と同じように頭を下げ合っているリジン達を見た。
ローズの頬が熱くなる。
「どうです?バルコニーで少しお話でもしませんか?」
「あ、私──」
ニヤニヤと笑うスティーブンに断りの言葉を返そうとすると、後ろから腕を捕まれた。驚きで、肩が揺れる。
スティーブンはローズの腕を掴んでいる人を見て、笑みを深める。
「よぉ、リジン?」
砕けた話し方。それよりもまず、彼の口から出た名前に耳が反応した。
……リジン、様?
振り向くとやはり。心に充満する期待は裏切られなかった。自然と唇は弧を描く。
そこに立っていたのは、怒った顔をするリジンだった。
「リジン様……!」
リジンの手を握ると、彼は驚いた顔になった。ローズの腕を引き、スティーブンから引き離す。
「まったく君は……」
眉を寄せてスティーブンを見たリジンだったが、それに続く言葉はなかった。笑みを浮かべたローズと目を合わせて、へにゃりと疲れたような顔をする。
「やっと会えましたね、レディ」
「ええ。私、リジン様のこと探したのですが、すぐに見つからなくて」
リジンに頭を撫でられた。嬉しくて、その優しさに泣きたくなる。
二人を見ながらスティーブンが、近寄ってきたユリスに「あいつらいつの間に仲良くなったの?」と尋ね、「知らん」と返されていた。
リジンは新しく流れる曲に顔を上げ、ローズに手を差し出した。
「レディ。踊ってくださいますか?」
「ええ……!もちろ──」
カツン、カツン、カツン
背後からの足音に、何か嫌な気配を感じた。ユリスとスティーブンが何とも言えぬ表情を浮かべた。
振り向く前に、声が降ってくる。
「ローズ。彼とはもう踊っただろう?それとも、ルーシャンがいっていたのが、彼なのかね?」
──お父様。
*********
嬉しさは、その場にあり続け、凍りついた。幸せな気分は一気になくなり、リジンの手を握る力は強くなった。リジンも、ローズの腕を自分の方へ引き寄せる。
メフィス伯爵に群がっていた貴族達が、なんだなんだとローズ達を見る。騒ぎの中心にいるリジンとユリス、スティーブンを見て、ウォルツ伯爵とケルズス侯爵が真っ青になった。
「こんばんはメフィス伯爵。舞踏会ぶりですね」
にこり、リジンは踊っていた令嬢に向けていたような、愛想よい笑顔をメフィス伯爵に向けた。それは、普段から愛想笑いを浮かべているリジンにとって簡単なことだったが、ローズは不安に満ち溢れた顔で父親を見つめる。愛想笑いは苦手だった。
いつも夫をいさめ、ローズを助けてくれるメフィス伯爵夫人は、どこかの夫人と話をしている。
メフィス伯爵は、そんなリジンを一瞥し、そしてスティーブンと並んで苦笑いしているユリスを見ると吐き捨てた。
「よくもまあ、ローズに近づけたものだ。兄弟揃って図太いな」
「お、お父様……!」
あんまりな父親の言葉に、ローズは顔を赤くしていきどおる。
ユリスの夜這い事件を知らないスティーブンだけが、何かしたの?とユリスに言った。無視された。
「約束は破棄された。もうローズに近づかないでいただきたいな、リジン殿、ユリス殿?」
「しかし」
「おっ、お前達!」
もう少しで言い争いに発展しそうになった時、メフィス伯爵の取り巻きの群からぱっと一人の男性が登場した。……ウォルツ伯爵だ。
「……父上?」
「リジン。メフィス伯爵に逆らうな。──まったく、ユリスならともかく、お前が伯爵に逆らうなんて……」
「逆らってなど、ただ私は、」
「リジン!」
音楽は止み、普段はさして目立たぬウォルツ伯爵の怒鳴り声がホールに響き渡った。誰も何も言わなかった。
どうしたの?とメフィス伯爵夫人が夫に寄り添い、メフィス伯爵は素知らぬふりをして優しげに肩を竦めた。
「先に客室に行っていなさい。舞踏会が終わるまで部屋を出ないように」
「……嫌です」
「リジン」
ウォルツ伯爵の声は、嘆くような音だった。いつもは従順な次男が、真っ向から父親に逆らっているこの事態を。
リジンは唇を引き結び、睨むように父親を見ていた。もしかしたら、睨みの対象にはメフィス伯爵も含まれていたかもしれない。ウォルツ伯爵には恐ろしくて、考えたくもなかったが。
「リジン、様……」
身近な少女の、怯えるようなか細い声にリジンは顔を上げた。
ローズは明らかに怯え、最悪感を感じているようだった。
自分のせいで、彼と父親が争っている、と。それは正しいとも言えたが、同時に間違えていると言えた。父親と争っているのはリジンの意思だったが、ローズと踊りたくて争っているのだから。
大丈夫ですよ、と小声で強がりを言うと、ローズは眉を下げて、困ったように笑った。メフィス伯爵にとっては、それすらも面白くないらしい。
氷点下の、まるで凍り付きそうな空気になり、ウォルツ伯爵の顔色はさらに悪くなった。
「出ていきなさい、リジン……!」
ウォルツ伯爵の、どこか懇願するような声。ローズの泣きそうな顔と、きゅっと腕を握ってくる感触。
「──分かり、ました」
メフィス伯爵の顔を見ながらリジンが言うと、伯爵は、ひどく満足気に頷いた。
ふと、ローズがどんな表情をしているのかが気になり、そっとその表情を窺うと、泣きそうに表情を歪めていた。
ローズの髪を優しく撫でて、彼女が掴む自分の袖を解放してもらう。わずかにシワになったそこが、ローズの不安を強く示していた。
「では、戻ってますね、レディ」
「……はい」
ゆっくりローズから離れ、メフィス伯爵夫人の隣を通ると、「ねえ?」と夫人がメフィス伯爵とリジンを見比べて呟いていた。
「あのリジン殿って……」
「ああ、いいんだよ」
「よくないわ、ちゃんと聞きなさいっ」
背中に多くの視線を感じながら、リジンは広間から退場した。
ローズと踊れなかったことが、思っていたよりも悲しかった。
*********
リジンが広間から退場すると、止まっていた時が動き出したように、音楽が始まり人々は踊りだした。ユリスがローズにちかづこうとすると、それを遮るようにウォルツ伯爵がユリスの腕を掴んでどこかへいなくなった。恐らく、弟のような事態をおこさないようにするのだろう。
壁に背をつけ、ローズから離れた場所にスティーブンは移動した。メイドがカクテルを渡してきた。それに口をつけながら、スティーブは上目遣いにローズを観察する。
落ち込んだ様子の彼女に、トニーが何度も話し掛けてきていた。明らかに一方通行だと分かる。ローズは身のない相槌を打ち、何度か無視していた。
──リジンて……結構馬鹿だったんだな。
そう思った。
ローズと上手くやっていたようだが、彼女と踊りたいばかりに父親に逆らい、同時に絶対的な権力を持つメフィス伯爵にまで逆らった。メフィス伯爵の娘は二人とも母親似で、伯爵の愛情を一身に受けていることで有名なのに。
自分なら、もっと上手くやる。そう考えてから、スティーブンは思わず笑ってしまった。
上手くやるも何も……、もうローズはリジンに惹かれているというのに。自分は何を思っているのだろう?
*********
「あ、レディ、カクテルをどうぞ!料理をお持ちしましょうか?それとも踊りますか?」
ムナ子爵令息のトニーが、あれこれと話し掛けてきて世話を焼いてくる。そんなことをリジンがやれば絶対に機嫌を悪くするだろうメフィス伯爵は、トニーには何も言わない。相手にしていないだけなのかもしれないが。
メフィス伯爵夫人はそんな二人を見て微笑ましそうにしていた。それから複雑な表情を浮かべる夫を見る。
「ねぇ、貴方。後で話があるの」
「舞踏会が終わったらでいいかな?」
「ええ、いいわよ」
両親が話をしているのにも気付かないで、ローズはぼーっと前を見る。
「レディ、夜風に当たりませんか?熱気がこもって、暑いでしょう」
「いえ、別に……」
「バルコニーに出ましょう!ね!?」
「……はい」
──リジン様。貴方とダンスを踊れないことが、何故だか、とても寂しいです。
ローズはトニーを見て、静かにため息を吐いた。




