天使の舞踏会
ある日を境に、ローズが普通に戻った。エリザと、ルーシャン、リドニア。それから屋敷に仕える使用人の内、何人かはその理由を察していた。色恋沙汰の全くないお嬢様のもとに、男性のお客様がきたのだ。これまで何度も、「失礼な輩」が来たことはあったが、あの厳しい侍女、エリザが連れてきて、それに加えてローズと親しげに話し、あまつさえ、帰り際に口づけ(頬。情報提供・とある伯爵家の召使)を交わしていたという。
普通、使用人内では情報など瞬時に駆け巡る。悪事だろうが善い事だろうがそれは変わらない。
だというのに、今回の情報が数人の、その場にいた使用人のみで留まっているのは──。
ローズお嬢様直々に口止めに来られたのです、と後に庭師は語った。
*********
舞踏会の日は、すぐにやって来た。
主催者は国王であり、王城のホールで開催される。
いつもより気合いの入ったドレス、装飾品、化粧品。髪を結うエリザの顔は、真剣になりすぎて強張っていた。全ての支度が終わった時、ローズは疲れきっていた。
それなのに、行きたくないとは少しも思わなかった。普段ならば内心帰りたい、と思うこともあったはずなのに、今日だけはそんなことにはならなかった。
ローズがエリザや、他の侍女を連れ立って門へ向かうと、四頭立ての馬車が待っていた。
その近くには、メフィス伯爵夫妻が寄り添い合って立っている。
仲の良い両親は、ローズの憧れであり理想だ。
「ローズ。似合っているよ。とても魅力的だ」
「ありがとうございます、お父様」
「ふふ……本日は、王城で一泊することになるけれど。気をつけるのよ?ローズ」
「そうだぞ!」
「もちろんですわ!!」
ふざけるような夫人の発言に、父娘は同じくらいの気迫で頷いた。
──リジン様に言われているもの。用心するわ……!
メフィス伯爵はそんなローズに満足げに笑うと、妻を馬車までエスコートする。ローズも、父親の侍従であるトールにエスコートされ、馬車に乗り込んだ。
「お姉様!」
トールが馬車の扉を閉めようとした時、少女特有の甲高い声がその場に響いた。
ローズが彼を止める前に、トールは扉を閉める手を止めた。扉の隙間から見えるのは、長い金髪。
「ルーちゃん!?」
「お姉様!」
ルーシャンの後ろから、お嬢様~っ、と気の毒なリドニアの叫びが聞こえる。
「ルーちゃん、どうしたの?リドから離れちゃ駄目じゃない」
「お姉様、王城で開かれる舞踏会に行くのよね?」
「そうよ。ルーちゃんも、二年後には行けるからね、大人しくしているのよ?」
もう戻りなさい、と促したローズに向かって、ルーシャンは言ってはならないことを言ってしまった。
方々に口止めし続けたローズの努力を一瞬で無にする、爆弾のような一言。
──あの男の人に会いに行くのね!?
ピシッと車内の空気が重くなり、沈黙がその場を支配した。
誰も喋らない馬車ほど気まずいものはない。庶民が使うという乗り合い馬車ならいざ知らず、気心の知れた──というより、家族で乗っている馬車が無言なのは、正直なところ辛い。
だからと言って不用意に話しかけて、墓穴を掘るのは避けなければならない。
結局皆、無表情で俯き、かなり長い間、沈黙に包まれた馬車で揺られていた。
馬車が止まって社外に出た時は、なんて新鮮な空気なのかと何度も何度も深呼吸してしまった。
「──行きましょう」
妻の言葉に、メフィス伯爵は頷いた。
夫や兄弟、婚約者などの近しい親族に男性がいない場合は、高位の使用人が令嬢のエスコート役を務める。
ローズのエスコートは、トールが行った。
会場に入ると、扉付近に立っている使用人が、
「メフィス伯爵がいらっしゃいました!」
と叫んだ。トールはそそくさと退散し、使用人専用の控室に向かう。
客がほとんど全員振り向き、中でもメフィス伯爵派の貴族達は上手な作り笑いを浮かべてローズ達の方に寄ってきた。
驚くほどに、毎回同じだ。
……リジン様は……。
たくさんの料理も、色鮮やかな令嬢達のドレスも、一流の楽団の音も。ローズにとっては何の価値もない。目に入ろうと、まるでそこに何もないかのように無視してしまう。
「ローズ?誰かを探しているのか」
必死になって招待客を見つめていると、隣に立つメフィス伯爵が不機嫌そうに言った。……いや、事実、彼は不機嫌だった。
ルーシャンの言った「男の人」を、ローズが探しているのだと疑っている。
事実なのだが。
「い……いいえ、お父様。気のせいでしょう」
メフィス伯爵からの疑いは晴れなかったようだが、貴族に話しかけられてローズから視線を離した。
「レディ・ローズは、もう踊る方を決めてますの?」
「よろしければ、わたくしの息子と踊って下さらない?」
「伯爵、我が息子は、レディ・ローズと並んでも見劣りしないとは思いませんか」
普段は何も思わないのに、今日だけは、彼らの話がとてもくだらなく、そして嫌なものに感じられた。
誰かに誘われる前に、早くリジンを見つけてしまおう。
そう思ってその塲から離れようとすると、誰かに強く腕を捕まれた。
「ローズ。ムナ子爵の令息からダンスの誘いがあった。踊るだろう?」
「あ……お父様。私、」
「踊るだろう?」
──彼とはまだ踊っていないはずだ。
ローズにしか聞こえない声。囁かれた言葉に背筋が冷えた。
「踊り、ます」
「令嬢」に、選択権などないのだと。
着飾り、微笑み、親の指示通りに婚約し嫁ぐ。拒否など許されない。拒むなら、全てを失う覚悟で。
自分に差し出される手に、自分の手を乗せた。相手の顔は、醜くないのに目に入らない。
ただ単に興味がないのだと、その時のローズは気付かなかった。
ホールの中心で、周りで踊る人々に混ざってステップを踏む。
「……あの、お上手ですね」
「ありがとうございます」
「僕、トニーって言うんですけど」
「そうですか」
美しいはずの音色は、まるで無機質なただの音。
今の自分は、きちんと笑えているだろうか?
これまでどうやって笑っていたのか。笑うことが義務だと思うと、表情がどんどん強張っていくのを感じる。
だと言うのに、相手──トニーはローズの美貌に見惚れている。
うっとりとその愛想のない顔を眺めていた。
「レディ・ローズ……お美しいですね。噂通りだ」
「噂ですか……」
──リジン様のおっしゃっていた、天使とか何とかのことかしら。
リズムに乗っていると、リジンと初めて踊った時のことが思い出された。あの時はあの人に対して何の思いもなかったから、どんな気持ちだったかは覚えていないけど。
トニーと踊り終えたら、リジンを探せないだろうか。
また誰かと踊らされるかもしれない。けれど自分は、父親に逆らえないだろう。
──リジン様……。
間もなく曲が終わり、ローズとトニーは頭を下げ合う。
「ありがとうございました、レディ」
「いいえ……、こちらこそ」
興奮したようにローズを見つめるトニーだが、ローズのルールに逆らう気はないらしい。
名残惜しそうに、ローズから離れようとした、その時。
「──あ」
「えっ?」
トニーがローズの後ろを見て驚いたように声を上げた。その声に驚き、ローズも振り返る。
───そこにいたのは、整った顔立ちの男性。
スティーブン殿、とトニーが声もなく呟いた。
*********
ウォルツ伯爵一家が王城に到着した時、メフィス伯爵はまだ来ていなかった。元々高位の者は遅れて登場し、先に来ていた下位の者がそれを迎え入れる、というのが主流なので、それについては驚かない。
両親は広間に入った瞬間に歩き回り、方々で話し始めたのでリジンはユリスと二人きりで残された。
「ったく。相変わらずだな、あの人達は!」
ユリスも、毎回のように呆れた顔で両親を見る。リジンとしてはどちらもいつものことなので特に気にしない。
それよりも早くメフィス伯爵──というよりその娘──が来ないかと落ち着きなく扉を見つめている。
「お?誰か待ってんのか?……ああ、ローズ嬢か」
ニヤニヤと笑う兄に、リジンは激しく否定したい気がした。親族にその手の話をされることほど嫌な物はない。
リジンは無言で黙り──最終的には頷いた。否定したい気持ちよりも、同時に浮かんだ肯定してしまいたい気持ちが上回ったのだ。
「……もう彼女に、変なことはするなよ?」
「しないって。俺はそこまで悪趣味なことはしないからな」
弟の恋路を邪魔するような、と呟かれ、リジンは無言で俯く。
やはり、恋路──なのだろうか?
普段、その気もない女性に口づけたり、約束のたびに頬にキスしたりなんてことはしない。ユリスだって弟のしたことを聞けば驚くだろう。
……とそんな時、扉が開かれた。
時間的にまだ違う、と思う心とは対照的に、多大な期待を伴って眼がそちらへ向く。
「ケルズス侯爵がいらっしゃいました!」
高めの、良い声の使用人の大声が響く。げっ、とユリスが小さく悲鳴を上げた。
ユリスの眉も寄る。
期待ハズレどころか──最悪だ。ローズが来ない舞踏会であれば、このまま帰ってしまいたい。
「彼」に見つかる前にと、そそくさと扉近くから移動しようとしたら、トンと肩を叩かれた。意識せず、頬が引き攣る。
「よぅ」
振り向かなくても誰だか分かるが──それでも振り向かなければ煩いだろうなと思い、リジンは振り向く。知人との挨拶は手早く済ませ、万全の状態でローズと踊ったほうがいいかもしれない。そんな思いも手伝ったのだが。
そこに立っていたのは。ローズやルーシャンのものよりも濃い、はっきりとした金髪の男だ。リジンはもちろん、ユリスよりも美しいかもしれない。人を馬鹿にするような軽薄な笑みを浮かべ、リジン達を見ていた。
心の中ではともかく、リジンはにっこりと笑みを浮かべる。誰が相手でも笑えるのは貴族全体の特技だが、リジンは中でも突出して笑うのが上手い。
素っ気ない声に、まるで仲の良い友人を相手にするかのように気さくに返事を返した。
「……どうも。久しぶりだね、スティーブン?君は相変わらず整った顔立ちをしている」
「はは、お前は相変わらず口が上手いな。愛想笑いも上手い。だから優しく怒らないリジン様、なんて言われるんだ。兄貴を見習えよ」
ユリスは、リジンを笑う彼……スティーブンの腕を掴んで至近距離から睨みつけた。
感情の起伏が激しく怒りっぽいユリスが、何よりも弟のことを馬鹿にされることを嫌っているのを知っているのは、今のところスティーブンだけだ。その上でユリスを苛立たせ、愉しんでいるのが悪趣味だ。
「立場を理解しろ、スティーブン。リジンに好き勝手言いやがって。……大体、お前の実質的地位では、俺らより遅く来るべきじゃない。弁えろ」
「なに怒ってんだよ?」
スティーブン=ケルズス侯爵令息。
ケルズス侯爵は、メフィス伯爵派だ。
侯爵位を持ってはいるが、資産や権力共にメフィス伯爵には──もちろん、ヒルドマン侯爵にも──遠く及ばない。
ウォルツ伯爵と同程度、もしくは少し下だろうか。
ウォルツ伯爵よりも後に来るのは、次期ウォルツ伯爵のユリスとしては黙っていられないところである。
しかし、ケルズス侯爵は自身の家がウォルツ伯爵よりも劣っているとは夢にも思っていないようで、何かにつけては張り合ってくるのだ。家族単位で迷惑している。
全く悪びれた様子のないスティーブンに、ユリスは苛立ちを含ませた溜め息を吐いた。
同じメフィス伯爵派だというのに、なぜ争わなければいけないのか。ユリスは疑問に思い、すぐに答えを導き出した。
……こいつが身の程を弁えないからだ。
「もう、いい。どうでもいいから俺達に構うな。どっかに行け」
ユリスが野良犬を追い払うように手を振ると、
「あっはは、酷いなぁ。ユリス、お前はリジンを見習ったほうがいいぞ」
「お前もな」
スティーブンはしばらくユリスと喧嘩しながらそこにいたが、ふと真面目な顔になった。
彼とユリスを、令嬢達がチラチラと盗み見しているのにリジンは気が付いたが、無視した。
「そうだ。知ってるか?俺とローズ嬢の婚約話があるって噂が──」
「はぁ!?」
「あんだけど──って、凄い食いついたな、リジン?お前も興味あんの?」
「お前も、って、スティーブン、君も彼女に興味が?」
もちろん、と頷くスティーブンに、リジンは倒れそうになった。スティーブンはもの凄く女性受けする顔だ。ローズとも似合いそうだし。今だって、たくさんの令嬢達がこっちを見ている。さっさと諦めればいいのに。
優しいリジンの優しくない思いには気付かず、スティーブンはへらへらと笑う。
「彼女に興味がない男なんていないだろうよ。美人だし、何より──メフィス伯爵の長女なんだから」
「んだよ、爵位が目的か」
爵位が目的でローズに夜這いを仕掛けたユリスが、心底嫌そうに吐き捨てた。呆れた、というふうだった。兄さんもそうだっただろ、とリジンは苦笑した。
「今日、ダンスに誘ってみようかな~?俺まだ踊ってないし。ローズ嬢とは一度しか踊れないんだろ?お前らはもう踊ったのか?」
完璧な髪型を手櫛で崩す。崩しても完璧だった。
そんなスティーブンに冷ややかな視線を向けながら、ユリスは「いや」と否定する。
「俺は踊ってないし、踊る気もないよ。リジンは踊ってたよな?」
「え、あ……うん」
「ふーん……どうだった?」
問われて思い出す。どうだったかな。
笑顔が可愛いなと思った。ダンスも上手かった。
けれどその後の、庭に立っていた薄着……というか夜着……を着ていたローズを思い出す。
あれを見付けたのが自分でなくユリスだったら、今頃彼女は兄の横で笑っていたのだろうか。
「笑ったり眉を寄せたりして──何やってんだこいつ」
「うーん、遅い春に戸惑ってるんだろ?」
「はあ?」
メフィス伯爵が来場したのは、それから少し後のこと。使用人の声がして、ワラワラとメフィス伯爵派の貴族達が彼のもとに向かう。ウォルツ伯爵もケルズス侯爵も同じくそれに加わっていて、三人は何ともむなしい思いでそれを見た。
「あ。ローズ嬢」
「え?」
「あ、本当だ」
スティーブンが指差した方には、キョロキョロと辺りを見回している少女──ローズがいる。
ピンクブロンドの髪を結い上げ、華やかなドレスや装飾品に囲まれた彼女は正に、舞踏会の華と呼ばれるのに相応しい。
他の令息と同じく、リジン達も見惚れてしまう。令嬢達は面白くなさそうだが、しかしローズの身分を理解しているので愛想笑いをしてメフィス伯爵夫妻やローズを見つめている。
「お前……本当にローズ嬢との婚約話があるのか?」
「噂だけど──やっぱり噂止まりだろうな」
「ああ。倍率高いぞ」
兄とスティーブンが話しているのを聞きながら、リジンは彼女に似合う男性はどんな人だろうかと考える。
──いっそ、ヒルドマン侯爵家のリクト殿とか?
いや、ヒルドマン侯爵令息とメフィス伯爵令嬢が結婚するなんて、面白そうだが有り得ない。
ぼうっとメフィス伯爵一家を見ていると、息子を引き連れたムナ子爵が貴族達の輪を掻き分けて入っていったい。
「あ、トニーだ」
「トニー?ああ、ムナ子爵のところの。スティーブン。君、トニーと親しかったっけ?」
「いや?でもローズ嬢の噂を聞いて好みだって言ってたぞ」
しばらくすると、トニーがローズの手を引いて広間の中心に出た。踊るのだろう。
ユリスとスティーブンはおおっ!と気弱なトニーの勇気ある行動に驚き、リジンは眉を潜めた。
「俺次行こうっと」
「あ、おいスティーブン!?」
話したこともないトニーに対して何とも言えない気分を感じながら、リジンはスティーブンを追おうとした。あんなのと踊ったら、ローズが汚れる。
実はユリスよりもスティーブンのことを厭わしく思っているリジンだった。──が。
「あ、あの。リジン様……私と踊っていただいても構いませんか」
「………。ええ、もちろん……」
途中、ずっと話しかける機会を窺っていた令嬢によって、それは失敗に終わった。
「優しい」リジンは、その誘いを断れなかった。
*********
ローズはぼんやりと、彼……スティーブン=ケルズス侯爵令息を見た。彼とローズが会ったのは初めてではない。
何度か会ったが──彼は相変わらず美しい。
「……お久しぶりです、スティーブン様」
「ご無沙汰しておりました。レディ」
スティーブンはローズの手をとり、その甲にキスを落とした。ローズの後ろでトニーは、どうしたらいいか分からずオロオロとしていた。
「レディ、私と踊っていただけますか」
「……、……もちろんですわ」
──リジン様を探したい。踊るのなら、あの方とがいい。
そんな思いはローズの中で燻り、行き場のない鬱憤としてポツリと心に溜まる。
沈んだ表情を浮かべるローズを、スティーブンは不思議そうに見た。
「あれ。噂と違いますね。レディ・ローズはいつでもニコニコと笑っていると噂でしたが」
「……噂……」
とくん、鼓動が跳ねる。
これが良いものでないと、ローズは頭のどこかで認識していた。
顔を歪ませたローズ。スティーブンはやはり、それに首を傾げた。
「ご不調ですか」
「ええ──そうかもしれませんわね」
わざとぞんざいに返す。これに怒って、スティーブンがダンスを止めてくれないだろうか。
曲調は難しいものになる。ローズは心ここにあらずといったふうで、しかし完璧に踊り続けていた。スティーブンの称賛を孕んだ視線にも気付かない。
ダンス途中で、相手の顔から視線を逸らすのは失礼だと教わった。だから見つめ合う形だったのだが、スティーブンが不意にローズから視線を逸らした。
「あ」
「……?どうかなさいましたか」
ローズも振り向き、そして振り向いたことを後悔した。
───私は、上手く笑えもしないのに。
貴方はどうしてそんなにも楽しそうに踊っているの?
ローズの視界に飛び込んできたのは。
どこかの令嬢と楽しそうに笑い合って踊る、リジンの姿。