伯爵家の舞踏会
高級な音色が、大広間を覆い尽くす。音色に合わせて踏まれるステップの音は揃っていて、まるで手拍子のよう。
ざわめく話し声の半分は自慢話で、もう半分は嫌味の混ざったお世辞だろう。
曲の終了でダンスを止め、ローズはその場から移動した。
そんな時、誰かがローズの前に立つ。
「一曲踊って下さいませんか?レディ・ローズ」
ウォルツ伯爵邸で行われた、舞踏会の途中だった。ウォルツ伯爵の舞踏会に来たのは初めてでなく、もう慣れたと言っても過言ではない。
息子のいないメフィス伯爵の長女であるローズは、どんな舞踏会、夜会に言っても話し掛けられ、ダンスに誘われる。誘う人は皆、自分ではなく、自分と結婚した後に得られるメフィス伯爵位を見ているのだとローズは知っていた。
だから一曲だけ踊り、すぐにその人から離れるようにしている。彼女の両親は嫌なら断れと言ってくれるが、心優しいと評判のローズには、誘ってくる男性を無視できない。
「喜んでお受けしますわ、リジン様」
ローズは美しい笑みを浮かべて、差し出された手に自らの手を乗せた。
たとえローズが、嫌ならば断ることを主義としていても今回は断れなかっただろう。何せ、ローズをダンスに誘ったのは、舞踏会の主催者でもあるウォルツ伯爵の嫡男なのだから。
メフィス伯爵家出身のシンシアが、正妃から第二王妃に移ってしばらく。新たに正妃の座に収まったミーユの出身であるヒルドマン侯爵家と、メフィス伯爵家の仲はすでに険悪になっている。
メフィス伯爵はヒルドマン侯爵家だけでなく、ヒルドマン侯爵家と仲の良い貴族をも避けていた。貴族が二分していくのは早く、ウォルツ伯爵はメフィス伯爵派の貴族だった。
ウォルツ伯爵はその中でも高い権力を誇り、長男のユリスとローズの縁談の噂も流れるほどだった。
だから正直、ローズはウォルツ伯爵主催の舞踏会に参加するのに、乗り気にはなれなかった。
「楽しんでおられますか」
ローズと共に簡単なリズムに合わせてステップを踏むのは、ウォルツ伯爵の次男坊。
「ええ……はい。とても」
ローズの表情を見て、彼女が楽しんでいないと思う者はいないだろう。ローズは実に楽しそうな表情をしており、実際にそれは嘘のものではない。
「メフィス伯爵家の女性は美しいと有名ですからね。華やかな容姿と女性らしい温かな心を兼ね備えていると聞きます」
有名になるほどの美形ではないけれど、リジンは十分に整った容姿をしている。彼が目を細めてローズを見つめる表情はとても優しげだ。
「まあ。ありがとうございます。妹に比べて地味な容姿だと思っておりましたので、とても嬉しいですわ」
「妹……ルーシャン嬢、でしたか」
まだデビューすらしていない、ローズの妹の名をリジンは迷わずに言い当てた。
「ええ。よくご存知ですね」
「私達の間では評判ですから。まるで天使のような姉妹だと」
天使って……。
ローズの苦笑に、リジンもわずかに頬を緩める。
曲がクライマックスを迎え、静かに終わっていく。
頭を下げて離れようとしたローズを、リジンが呼び止めた。
「レディ。失礼ですが、王城の舞踏会には参加されますか?」
この方も、参加されるのね。
ローズは、それこそ天使のような表情で頷いた。
「はい。参加する予定です」
「それはよかった。──本日は、こちらに滞在されるのですよね?ご自分の屋敷だと思ってくつろいで下さい」
ローズは始終笑みを浮かべ続けていた。
──ローズ嬢なら最高、ルーシャン嬢なら及第点。
それは、リジンの兄、ユリスの口癖だった。ユリスはメフィス伯爵位を狙っていて、リジンに協力を求めていた。
「既成事実を作ろうと思う」
舞踏会は、日にちが変わってからしばらく経った時にようやく終わった。ほとんどの招待客は帰ったが、メフィス伯爵はウォルツ伯爵と話があるとのことで、屋敷に泊まるらしい。
皆が寝静まったと思われる頃、リジンの部屋を訪ねたユリスが開口一番そんなことをいった。
「……私と?」
冗談のつもりで言ったのだが、ユリスは真面目な表情でリジンを睨んだ。リジンは声を出さずに笑い、肩を竦めた。
「──止めなよ。紳士的じゃない」
強気な兄と違って、リジンはむしろ押しの弱い性格だった。そのせいで、兄には良いように使われている。
それなのに、リジンは兄のことを厭う様子を見せずに兄弟仲は良いほうだった。ウォルツ伯爵邸で働く使用人は皆それを不思議に思い、最終的にリジン様が優しいのだろう、と結論付ける。
だからだろうか。社交界でも、リジンは優しく怒らない、との噂が立っている。
リジンとしては、自分は怒らないのではなく、そう怒るようなことがないだけなのだが──やはり心は狭くないのだ。
「それに、彼女が相手じゃ、誰もそんなことを信じない。ローズ嬢は、雰囲気に流されたりしない」
いつになく強気な弟に、ユリスは笑った。
「なんだ?お前もメフィス伯爵位が惜しくなったか?」
「そうじゃないさ」
「大丈夫に決まってるだろ?どんな女だって、快楽を知れば大人しくなる」
下品な笑いを漏らすユリスから目を逸らし、リジンはため息をついた。兄のこんな笑い方にも、褒められたものではない話にも慣れていた。特に嫌悪感を抱くことはないし、黙ってくれと怒鳴り付けるつもりもない。
ただ──、あの清らかな、まるで人形のように一定の笑みを保ち続けていた少女がユリスのものになることに、何とも言えぬ違和感を感じていた。
「リジン?」
「……弟になったら、ローズ嬢は私ともう一度踊ってくれるかな」
ローズとは、一度しか踊れない。それは暗黙の了解として独身貴族男性の中で流れていることだ。何でも、しつこくダンスに誘った者は、彼女を溺愛しているメフィス伯爵に潰されるのだとか。
そんなことを思って言えば、ユリスは鷹揚に頷いてみせた。
「当然だ!いくらでも踊ってもらえ」
明日からローズ嬢はお前の義姉だ、と言うと、ユリスは立ち上がった。
──え、既成事実を作るって、今日?
リジンの驚きに気付かないまま、ユリスは部屋を出ていった。客室で寝ているのだろう、ローズに会いに行くのだ。
*********
「ご安心下さいローズお嬢様。少しでも物音がすれば、私、相手を殺める覚悟でお助けします」
ローズの一番の侍女であるエリザは、ローズの手を強く握ってそう言った。
本来ならば使用人用の部屋で眠らなくてはいけないエリザだったが、ローズを一人で部屋に置いていく危うさを強く主張し、メフィス伯爵にローズの隣の部屋を借りる許可をもらったのだ。
これまでに既成事実を作ろうと夜這いしてきた人達のことを考えれば、ローズとしても必要ないと言い切れない。
「エリザったら……殺めてはだめよ?」
「ああいう輩は、一度痛い目にあわせないと駄目なんですよ」
ああいう輩……というのは、爵位だけを狙ってローズの部屋に来た者だということは、ローズにも理解できる。
「そんなに、伯爵位がほしいのかしら?貴族というのも大変ね」
疲れたような主人が、自分の魅力に気が付いていないのが、エリザの今現在の最大の悩みだと、ローズは一生知ることがない。
何度も何度も念を押すと、エリザはやっとローズの部屋から出た。エリザが隣の部屋に入ったことを確認して、ローズは迷わず窓のカーテンを開き、窓の鍵を開けると外へ出た。
ローズの与えられた部屋は一階で、薄手のネグリジェを着たローズには軽々と越えることができた。地面に足を付けると夜風で冷えきっており、体温を奪われる。
一度でも冷たいな、と思うと、いきなり夜風に意識が向く。カーディガンを羽織ればよかった、といまさらながらにそう後悔した。
それでも……寒さや冷たさを我慢してでも、観察する価値がそこにはあった。
庭園だ。
ウォルツ伯爵邸の庭園は有名で、優しい美しさがあると評判である。
舞踏会の開かれる大広間に向かう時にローズも見たが、その評判に偽りはない。一瞬で分かる華美さはないものの、見る者を心地良くしてくれる。
真っ暗闇の庭園を裸足で歩き回り、ローズは唇を綻ばせる。自分がウォルツ伯爵邸に行くと言った時の妹を思い出した。
絶対に庭園を見て、どんなものか教えて下さい、と妹のルーシャンは言っていた。
──あの子も、花が好きよね。
なんて、思っていたら。
「……レディ?」
自分の部屋近くにいようと決めていたのに。
いつのまにかローズは、リジンの部屋の前まで来ていたらしい。
**********
「……レディ?」
窓を開けて呟いてから、リジンはそんなわけはない、と思い直した。
だって……今ローズは、ユリスに抱かれているはずなのだから。
──だったら、そこにいるのは誰?
長い髪を解き放ち、薄く身軽な格好をしていて。
そこにいる女性を見つめ、やはりローズ嬢ではない、とリジンは結論づけた。ローズはあんな格好で外を出歩いたりしないだろう。
あんな薄着で部屋の窓の近くに立っているなんて、それこそ誘っているとしか思えない。
寝よう、と窓を閉めようとすると、
「リジン様……?」
発せられた声に、リジンはピタリと動きを止めた。
それは──踊った時に聞いた、ローズの声そのものなのだ。
「レディ・ローズ?」
驚いたことに、深夜(いや、早朝と言ってもいいかもしれない)の庭園に立っていたのは確かにローズだった。
「何をしているのですか、そんな場所で!」
窓から身を乗り出し、ローズのもとに行こうとしたリジンだったが、彼女がわずかに震えていることに気が付いた。
寒い季節でもないが、今は夜だ。あのような薄着で、寒くないはずがない。
……どうして上着を着てらっしゃらないんだ。
ひどく無防備な彼女に苛立って、リジンは乱暴な動作で自分の上着を掴んだ。
ローズはリジンが窓を越えて自分の前に来るのを、何も言わずに見つめていた。
「レディ・ローズ。どうぞ。羽織って下さい」
「あ……ありがとうございます。少し肌寒さを感じていたので、助かりました」
少し肌寒さを感じていた、という唇は真っ青になっている。
「少しって、そんなわけないでしょう……」
ゆっくりと指で唇に触れる。柔らかな弾力があり、温かい。
「こんなに唇を青くして」
それもこんな薄着で、とローズの服を見たリジンは、彼女が着ているのがネグリジェだと分かって言葉を失った。
「レディ……」
「私、部屋に戻りますね。お手数をおかけして、申し訳ないことをしました」
リジンから逃れるように、ローズは素早くその場から移動した。
彼女の唇に触れていた指先が温もりを失い、冷たくなる。
「レディ・ローズ!」
ローズを追おうとリジンが手を伸ばした時。
「無礼者!!」
リジンの知らない声が屋敷中に響き渡った。
前を小走りで進んでいたローズも立ち止まっている。
「エリザ……っ」
ポツリと女性の名を呟くと、ローズは小走りを再開させた。
「あ、レディ?」
エリザとは、声の主だろうか。
リジンはそのまま、ローズを追った。
エリザ、エリザ、エリザ──!
無礼者。そう叫ぶ声は、間違いなくローズの侍女のものだった。
エリザは一生変わらぬ忠誠をローズに誓っており、それは破られたことがない。
たとえ自分の部屋に知らぬ男が入ってきたとしても、エリザは大声を上げないだろう。横の部屋には主が眠っているのだから。主の眠りの妨げになってしまう。
エリザがあのように大声で叫ぶ理由など、一つしかない。
「エリザ……!」
いつの間にこんなにも移動していたのか。花壇に沿うように走り、自分が借りたと思われる客室に着いた時には、すっかり息が上がっていた。
胸の奥が熱い。ドンドンと鼓動が激しく打つ。
「エリザ!」
「え……ローズお嬢様」
開け放たれた窓を通って、ローズの声は無事に部屋に届いたらしい。エリザが顔を覗かせ、ローズを見て目を丸くした。
「そのような格好で……!何をしてらっしゃるのです、早く部屋にお入り下さい」
言ってから、エリザはローズと窓と、それから部屋の中を見て困り果てた顔をした。主人に窓を跨がせるわけにもいかないが、この場を離れるわけにも行かない、といった顔だ。
「大丈夫ですよ」
「っ……きゃ!?」
突然、膝裏と腰に手をあてられてローズは悲鳴を上げた。視界が反転し、気がつけば目の前にはリジンがいる。
自分の置かれている状況が分からずにエリザを見れば、彼女も目を白黒させてローズ達を見ていた。
「ちょっと、そこをどいてくれるかい?君の主人を運ばなければいけないから」
「は……はい」
抱き上げられている間は、ひどい不安感に支配されていた。彼が手を離せば、ローズは地面に落ちるのだ。不安定で怖くて、顔を強張らせたローズを見てリジンがクスリと笑った。
「……」
「ああ失礼。貴女はどの表情をしていても美しいのだと再認識してしまいました」
リジン様は、噂よりも意地悪ですわ、と。ローズに彼女の妹と同じくらいの強さがあればそう答えていただろう。
ローズを抱えたまま窓を跨ぎ、リジンはまるで壊れ物を扱うようにローズを絨毯の上に乗せた。
「リジン……お前」
そして、ローズの聞き慣れない──そしてリジンにとってま毎日聞いている声がした。
客室のベッドに座り、ふて腐れるように半眼でリジンを睨むのはユリスだ。
エリザがローズに縋るように抱き着いて、ユリスを指差した。
「ローズお嬢様!あの方が忍んでこの部屋に入って来たのです」
「ええ」
本当言えば、来るだろうな、とローズは予想していた。ただ、ユリスではなくリジンが来ると思っていたから、そこだけが意外だった。
「すぐに旦那様がいらっしゃいますわ。相応の報いを受けていただかねば」
エリザに睨みつけられたユリスは、同じように彼女を睨みつけてから鼻を鳴らした。
エリザの叫びの甲斐もあり、人はすぐに集まった。
まずは屋敷の侍女長が。メイドが。ウォルツ伯爵夫妻が。そして最後に、メフィス伯爵夫妻が来る。
「何があった?エリザ」
メフィス伯爵は、その場にいる誰よりも先にエリザを見た。
リジンとユリスが少し驚いた表情を浮かべたのを、ローズは見つける。
「こちらの、ユリス様が夜中にローズお嬢様の部屋に忍び込んできたのです」
エリザの告発には、一切の容赦がなかった。
ローズが絡むと、エリザは残酷なほどに正義を求める。これがエリザでない他の誰かだったなら、エリザはここまで容赦なく告発しなかっただろう。
「ほぅ?」
メフィス伯爵の視線を受け、ユリスは困ったような表情を浮かべた。
「誤解です、メフィス伯爵」
「誤解?」
「ええ。偶然部屋の前を歩いたのを勘違いしたのでしょう」
言い訳って、皆同じことを言うのね。
感心に似たような気持ちで、ローズはユリスを見た。
これまで夜中にローズの部屋へ来て、そしてエリザに見つかり告発された貴族の子息は皆誤解だと伯爵に訴えた。
エリザの勘違いである、というのが一番多かったが、悪い時などは、ローズから誘ってきたなどと言う者もいた。
それを考えれば、ユリスはまだ紳士的なのかもしれない。
「──ウォルツ伯爵」
不意に、メフィス伯爵は真っ青になってユリスを見るウォルツ伯爵に声をかけた。寄り添っていた夫妻はビクリと肩を揺らす。
「は、伯爵。我が息子よりも使用人を信じるのですか?」
そう言う彼らも、自分達の息子の言葉を信じていないようだった。必死に平静を装いつつも、ユリスへの苛立ちを隠せていない。
「そんなこと……当然だろう、伯爵?」
「え──」
「エリザはミュール家だ。ローズに関しては、エリザに一任している」
その言葉に、エリザは表情を曇らせた。
「ではウォルツ伯爵。今回の話はなかったことに」
妻の腰を抱いて、メフィス伯爵は部屋を出た。
今回の話というものがどういうものかはローズには分からなかったが、それは大事なものだったらしく、残されたウォルツ伯爵夫妻の顔に血の気はない。
「ユリス。来なさい」
細い声で命じられ、ユリスもどこかぼんやりとした態度でそれに従う。
カチャリと扉が閉まれば、いつの間にか野次馬だった使用人達も消えており、ローズとエリザ、それからリジンだけになっていた。
「……ローズお嬢様」
不安そうな声音だった。怯えるような表情を浮かべ、エリザが俯く。
「──もしも一家で自殺でもされたら、どうしましょう」
確かに、ウォルツ伯爵の嘆き方はそれが心配されるほどのものだった。
「大丈夫でしょう、きっと」
「そう……でしょうか」
「心配?」
「心配というか……後味が悪いです」
葬式に通じる暗さがあった。
確かに、あの様子で出ていかれるのは後味が悪いだろう。
エリザは毎回、事が終わってから不安になっていた。
ローズの敵を告発し、相手が断罪されると相手に対して不安と罪悪感を抱く。
エリザの瞳に、許可を求めるような色を感じてローズは頷いた。
「行ってらっしゃい、エリザ」
「……っ、すみません!」
エリザはローズに頭を下げ、ダッと駆け出した。
それを見送り、さて寝ようかと伸びをすると。
「どこに行ったのです?」
「っえ!?」
当然のようにリジンがベッド脇に立っているものだから、驚いてローズは目を丸くした。
「リ──リジン様。いらっしゃったのですか」
ウォルツ伯爵と共に部屋に戻ったのかと思っていた。
リジンはローズに質問の答えを求めているらしく、何も言わずに彼女を見ている。
「……お父様のもとですわ。罰の軽減を求めるのでしょう」
「自分が摘発したのに?」
「ええ。毎回のことです」
エリザは優しいな、とローズは思う。世間では「優しい」と評判のローズだが、自分よりよほどエリザのほうが優しいのではないだろうか。
「それは──お優しいことですね」
何か含むところのあるリジンの言い方に、ローズは眉をひそめた。
「どのような意味でしょう?」
「いえ、深い意味はありませんよ、レディ。ただ……考えが甘いなと思いまして」
考えが甘い?
その言い方は、ローズに強い怒りをもたらすほどではなかったものの、十分に彼女を不愉快にすることはできた。
「ご忠告、恐れ入りますわ」
話を切り上げて部屋に戻ってもらいたい。早くエリザは戻ってこないだろうか?
「貴女は、全く分かっていらっしゃらない。……例えば今ここで、」
穏やかな表情を浮かべているリジン。その表情に恐怖を感じず、ローズはリジンが近づいてきてもそれを拒否することはしなかった。
「私が貴女の唇を奪えば、どうなさるおつもりですか?」
顎を、指で優しく上げられる。リジンを見上げる形となったローズは、ゆっくりと近づいてくるリジンの顔を不安げに見つめていた。
ふわりと温かなリジンの唇が、自分のそれに重なった瞬間に、ローズはリジンを全力で押し退けた。
「な……何を」
「私が兄でしたら、ここで終わらなかったと思いますよ?」
ローズは、自分の目尻に涙が溜まるのを感じた。ツンと鼻の奥が痛くなる。
「未遂だっただけで、あの使用人がいなければ貴女は犯されていたのです。どうか用心してください」
──初めてだったのに。
ローズはリジンの話を半分も聞かず、何度も頷いた。
リジンは一通り忠告を終えると、俯くローズの髪に触れた。背中を覆うピンクブロンドの髪は、社交界でも有名だ。
リジンの指先が髪に触れた途端、ローズはビクリと身体を震わせ、リジンから離れる。そんな分かりやすい態度に苦笑して、リジンは扉に向かった。
「では、お気をつけください」
「……ご忠告、痛み入りますわ」
静まらない混乱を伯爵令嬢の誇りで押し止め、ローズは頭を下げた。
結局、エリザがローズの部屋に戻ってきたのはリジンが部屋から出てからしばらくしたころだった。
ローズは唇に手を当てて茫然と空間を見つめている。そんなローズにエリザは一瞬動きを止めて、怖ず怖ずと近寄った。
「あ、あの……。ローズ様、どうかなさいましたか?」
「エリザ。──私達、考え方が甘かったのかもしれないわ」
「はい?」
エリザはキョトンと主を見る。
「ううん。……何でもないの。もう遅いわ。今日は一緒に寝ましょう?」
エリザの従姉妹の、リドニアだったならとんでもない!と断っていたことだろう。しかしエリザはリドニアよりもそういう点では寛容であり、ローズに「昔は一緒に寝ていたでしょう?」と言われれば断れない。
「は……はい」
微笑むローズに、エリザは不審気に首を捻った。何だか……、いつもと何かが違う気がする。
とは言え、ローズは完璧に笑っており、エリザは違和感を指摘できなかった。
ただ、ベッドの毛布をめくる時やカーテンを閉める時の動作が荒っぽいような。
「あ」
ベッドの中で、ローズは声を上げた。
「どうなさいましたか?」
「リジン様に、上着を返しそびれたわ」
ローズを抱き上げて部屋に入ってきた青年を思いだし、エリザは顔をしかめた。
あの時、二人がお似合いでまるで一枚の絵のように見えたから呆けてしまったが、エリザとしては捨て置けない大事件である。
「エリザが行った後に返せばよかったわね」
「……え?」
「え?」
──私が行った後?
あの時、自分とローズ以外に誰かいたのだろうか。
「あの、ローズお嬢様?私が出て行った時……もしかして、リジン様が……?」
「いたわ。誰もいないと思ってたから、私もビックリしちゃって」
その後のことを思い出してローズは赤くなったり青くなったり……。
エリザも、自分が出て行ったことで妙齢の男女を二人きりにしてしまったことを知って青くなった。




