「公爵夫人の務めは、笑って座っていることだ」と離縁されましたので、大陸じゅうの商談の席に笑って座ります ~元夫の領地には、商人が一人も来なくなりました~
「公爵夫人の務めは、笑って座っていることだ」
八年間、公爵家の商談の席に座ってきた私、テオドラは、そう言われて離縁される。
机の上には離縁状。向かいには夫。朝の光が紙を白く照らす中、三十歳の私は、今日も商談の間の椅子に笑って座っている。この笑顔の下にあるものも、いつかは見てくれる。八年、そう信じて数えてきた。
「笑顔のまま言いますけれど、それは違いますわ」
「務めは笑うことだ。勝手に数を口にするな!」
「ふぅ……。八年、笑いながら数えていたのはどこの数字だと思います?」
「お前とは離縁する」
夫の肩の後ろから、蜂蜜色の巻き髪がひょいと覗く。リースルの白い手が、私の座っている椅子の背へ、もう自分のもののように掛かった。
「夫人など替えが利く。リースルを新しい夫人にして、お前の席に座らせる」
「はぁ……。わかりましたわ。では、笑って座ります。大陸じゅうの商談の席に」
私は背筋を伸ばして立ち上がり、椅子をリースルへ譲る。彼女は手鏡で顔を確かめてから腰を下ろし、鏡の中の自分に向かって、口の端を持ち上げる練習を始めた。
隣室で待っていた穀物商会の商会長が呼ばれ、椅子に収まったリースルを見るなり、立っている私へ目を向ける。
「ど、どうなっているのだ? その方は……?」
「この家の席は私の夫人のものだ。断じて、よその女は入れぬ」
「はぁ……一体……。まぁ、そうなら、話を聞かせて欲しい」
商会長は肩をすくめ、リースルへ去年の麦の数を尋ねる。彼女の笑顔が、頬の途中で止まった。答えの代わりに口元が引きつるのを見て、商会長は椅子を後ろへ引き、立ち上がる。破談だ。
「三千六百枚の麦の契約を、その引きつった顔で結べるものか! 奥方に頼めぬなら、この領地に店を開けておく用などないぞ」
「な、何を言うのだ! ここの領主はワシだぞ!」
商会長は一礼もせずに出ていき、硬い靴音だけが廊下へ遠ざかる。
◇
屋敷を出て市場へ回ると、商会長が店の看板を外しているところだった。見慣れた通りに店を構える、外から来た商人は五人、看板は六枚。茶商だけが、本店と支店の二枚を掲げている。今日からは、四人と五枚になる。
商会長は外した看板を門番へ預け、帰りの馬車の扉を開けて私を招く。国境を越えて二時間、隣国メルセンの穀物商会に着くと、黒髪の男が契約書を広げて待っていた。大陸商会の買付けを束ねる総裁ライムント、三十四歳。午後に同じ麦を買いに来る予定だったという。
「去年の麦を、今もまだ覚えているか?」
「ええ、覚えておりますわ」
私は契約書へ指を置き、紙の上の数字に目を落とす。
「公爵は三千七百枚とおっしゃいましたけれど、去年の麦は千二百袋、一袋銀貨三枚、合計は三千六百枚ですわ」
商会長が原本を繰り、紙のこすれる音が部屋に響く。確かめられていく数字は、一つも違わない。
「ほぉ……。さすがですな」
最初の席は、隣国の穀物商会だった。商会長が、慌てて椅子を引く。
「奥方、あなたが笑わない契約は破談になる。知らなかったのか?」
「知っていましたわ。八年、ずっと」
悪い数字の契約には笑わなかった。笑顔は飾りではなく審査だ。
「では、わしの商談には座ってくれるか?」
「私の仕事として、喜んで座りますわ」
総裁の頷きを受けて、商会長は懐から革袋を取り出す。袋の中で銀貨が触れ合い、澄んだ音を立てた。
「席の礼は銀貨二十枚だ。旅費もわしが持つぞ」
「顔ではなく……私の仕事に、いただけるのですわね」
私は腰を下ろし、契約書の数字を確かめてから笑う。商談が結ばれる。総裁の指が契約書の行を追い、私が答えを口にするたび、その指先があとから追いついてきた。私の答えのほうが先へ行くので、指はいつも一行遅れる。数字を口にしても遮られず、話し終えた先には、続きを待つ目がある。
「笑顔より、その頭が気になる。続きを聞きたい」
「……続きを、本当に聞いてくださるのですわね」
扉が開き、黒い上着に白い手袋の小柄な老人が、茶盆を運んでくる。湯気の向こうにいるのは、元夫の家令、フーゴだ。
「あら……?」
「お茶をお出ししに参ったのですよ」
「連れ戻すお役目……ですよね? いったいどうなりましたの?」
「皆さん、まだお帰りになりませんのでね」
「ふふっ。なら、冷めてしまう前にいただきますわ」
フーゴは空の茶盆を胸に抱え、褒め言葉を待つような顔で立っている。帰る役目のほうは、どうやら茶と一緒に盆から下ろしてしまったらしい。
私は湯気の立つ茶を一口飲む。馴染んだ香りが鼻を抜け、喉を通った熱が胸まで下りてくると、朝から強張っていた頬が、初めて自分の意思でゆるんだ。契約書の隣で、今はただ、茶の温かさに微笑む。
「わたくしは笑って座っておりますわ。契約書の隣に」
◇
九日目。港湾同盟の中央の港国。窓から入る風に潮の匂いが混じり、長い机に広げられた紙の端がかすかに浮く。西と中央と東、三国の代表が並ぶその端に、私の椅子がある。麦の荷を港へ通す合同契約だ。
「港で払う金まで、覚えておいでなのですか?」
「ええ、覚えておりますわ」
私は紙を押さえ、港の名を順に指す。指先が進む先には、もう答えが並んでいる。
「麦十袋につき港に払うのは、西が銀貨一枚、中央が二枚、東が三枚。三国とも、覚えておりますわ」
西と東が入れ替わっていた一行が直される。私が笑うと契約が結ばれ、三国の代表が競って身を乗り出した。次はぜひ私どもの港へ、と声を掛けられるたび、私は椅子をどちらへ向ければよいのか迷う。契約書を読むより、こちらのほうがよほど忙しい。
「あなたも、席が欲しいとおっしゃるのですか?」
「次の商談にも一緒に来てほしい。俺が君の答えを聞きたい」
私は目を逸らし、契約書に視線を逃がす。さっきまで迷わず読めていた数字が、急によそよそしく見えた。紙の上なら、答えはもう分かっているのに。
「次の麦も、その……数は同じですわ」
「数は知っている。君の返事はどうだ?」
顔を上げる。彼の目は契約書へ戻らず、私に向いている。答えを間違えたわけでもないのに、唇を開くのに少し手間取った。
「ふふっ……嬉しいですわ! また競べられますもの」
「では、次も俺が相手ということだな」
夕方近く、商人を追って港まで来た元夫が、隣の部屋に現れる。今朝、公爵領の店を閉めた港商が、再開の条件を聞きに来ているのだ。傾いた日の光の中で、元夫は頬を指でぐいと押し上げ、歯を見せた。
「見ろ! 笑顔など、この私にも作れるのだ!」
「は? 体調が悪いのか? 今日は帰るぞ」
港商は席を立つ。押し上げた頬を見せる相手が去り、元夫の小脇には、返された看板が二枚。私が数えた五人から二人減り、商人は三人、看板は四枚になった。
◇
十七日目。山の国カルンベルクの交易場には、羊毛の包みが壁のように積み上がっている。山の冷たい空気に、乾いた羊毛の匂いが混じる。羊毛商が包みを叩くと、厚みのある鈍い音が響き、そのまま私たちへの出題が始まった。
「羊毛二百四十包、一包銀貨四枚、運び賃八十五枚。さあ、どっちが早い?」
「ええ、覚えておりますわ」
私は契約書を伏せる。隣で総裁が指を折り始めると、紙の端を押さえた私の指にも、少しだけ力がこもった。隣に座るのはよくても、勝ちを譲る約束まではしていない。
「二百四十包で九百六十枚。そこに運び賃を足して、千四十五枚ですわ」
羊毛商が「よし、奥方が先だな」と判定し、総裁が同じ答えを一息遅れて口にする。私は契約書に目を戻し、数字を確かめて笑う。答えも揃い、契約が結ばれた。
「その笑顔には負けるな……」
「ふふっ、笑顔で勝利しています!」
総裁が声を上げて笑う。からかうだけの笑いかと思えば、肩まで揺れている。その顔を見ていると、せっかく言い返した私の口元まで怪しくなる。
「はははっ、君と競べると、こんなに楽しいんだな」
「もう笑いません! ……嘘、笑います。ふふっ」
口を押さえたが、遅い。指の隙間から笑いがこぼれる。計算なら追いつけるのに、自分の口元にはどうにも間に合わない。
「仕事でなくても、その返事を聞かせてほしいんだ。テオドラ?」
「え……ライムント。今のは……ずるいですわ」
茶の香りと一緒に、茶盆が割り込んでくる。私たちの間へ収まるその盆は、こういうときに限って、ずいぶん大きく見えた。
「お茶をどうぞ……。わしの茶にも、勝ちが欲しいものです」
「茶にまで勝ち負けなんて付けませんわ!」
交易場の入口では、元夫が看板を三枚抱え、リースルに向き直っている。腕からはみ出す木の角が、いかにも邪魔そうだ。
「看板が減った分だけ、もっと笑顔を大きくしろ!」
「こんな顔、変でしょ? もう見ないでよ!」
リースルは歯を見せすぎた顔を両手で覆う。そのまま鏡を求めて走っていく背中で、蜂蜜色の巻き髪が忙しく跳ねていた。
港でも山でも、私が笑って座った席から契約が結ばれていく。そのたび、元夫の領地から商人が一人ずつ減っていく。
「あらら、また一つ減りましたわね」
看板は半分になった。
笑うのは仕事。怒るのは趣味。惚れるのは、たぶん今から。
◇
二十五日目。メルセンの大陸商会会館の石段を上りかけたところで、聞き慣れた声に足が止まる。私の目の前で、元夫がフーゴを呼び止めていた。
「フーゴ、笑い方を教えろ」
「お茶には、こちらをどうぞ」
差し出された小皿には、白い塩がこんもりと盛られている。眺めるだけで、舌の端がきゅっと縮む。
「私が笑い方を教わるのだぞ!」
「ええ。まずはお飲みになってからですとも」
私は先に茶席へ入って待つ。フーゴが茶盆を置く音が、静かな部屋に小さく響いた。契約書も客もないのに、私の口の端は癖で持ち上がっている。机の上に確かめるべき数字がなくても、頬だけが、まだ仕事を続けている。
「奥様も、顔の稽古ですか?」
「……笑うのが仕事だと、本当に思っていたのに」
フーゴは茶を下げない。私の言葉の続きも急かさず、湯気の向こうに立っている。口元に入ったままの力を、私は今さら持て余す。
「奥様、まだ笑っておいでですか?」
「……もう笑わなくていい席が欲しいの」
「冷めてもよいのですよ」
「……今日は、顔よりも、私の話を聞いてほしいですわ」
総会の席へ入る。数字だけで意見を述べる席は、机の隅にひっそりと置かれている。そこなら、頬を持ち上げるより先に、私の言葉を出せる。部屋を見渡していた目が、その椅子で止まった。
「数字だけの席を、私が選びますわ」
私は仕事の笑顔をほどく。口元を上げずに人前へ出るだけなのに、ずいぶん無防備になった気がする。
自分で椅子を引く音が、耳にはっきり響いた。腰を下ろした私へ、向かいの総裁が笑いかける。
「俺は聞いている。数を聞かせてくれ」
「ええ、覚えておりますわ」
顔を上げる。覚えてきた数字は、笑顔をほどいても、ちゃんと私の中にある。
「公爵家で私が笑った契約は百件。代金を受け取れなかったものは、ゼロですわ」
商人たちが契約書を閉じる。紙をめくる音がやみ、私の話を聴く顔が並んだ。次の席の基準を数で決めよう、と各国の商人が頷く。口元を直さなくても、話は届いている。
「君が話し終えても、俺は隣にいたい」
私は椅子を見る。話が終われば空けるものだと、思っていた席だ。そこに残りたいと言われると、今度は私が、どこを見ればよいのか分からなくなる。
「……私、もう話し終わりましたわよ」
「だから、まだ座っている」
「茶盆は、どちらへ置きましょうか?」
「……椅子の場所より先に、それを決めるのか?」
帰り際、フーゴが今朝見てきた市場の様子を教えてくれる。布商が店を閉め、公爵領の商人は一人、看板は二枚だという。馴染んだ通りを思い浮かべると、店先の空いた場所まで、はっきり目に浮かんだ。
◇
離縁の日から二十六日目の朝。窓の光が商談暦の紙を白く照らしている。離縁状と同じ白い紙なのに、今日は、ここに何を残すかを私が選べる。実績を残す日だ。
「商談暦へ残す実績を、もう一度聞かせてくれるか?」
「ええ、覚えておりますわ」
私は商談暦の空いた欄を指す。紙の白さが、指先まで明るくする。ここに載るのは、私が覚えてきた数字と、その数字を覚えてきた私の名だ。
「八年で百件、払われなかった代金はゼロ。その数を、私の名と一緒に残しますわ」
商談暦に、私の名と審査の実績が残る。
「夫人の席は、笑顔でなく、数を覚えている者の席とする」
各国の商人が同意し、暦は改まった。書き加えられた文字の上にも、窓からの光がまっすぐ届いている。
庭の席で、総裁が指を組み直す。葉の間を抜ける風はやわらかく、卓に落ちる日なたは暖かい。数字を追うときにはあれほど忙しい指先が、今は私の前で、重なったまま止まっている。
「俺は、笑顔の下で数を全部覚えている頭に惚れた」
「笑わない私でも、そう言ってくださるのですか?」
「もちろん」
「ふぅ……。私に、ちゃんと聞いてくださらないと、答えられませんわ」
彼は組んでいた手をほどく。葉のこすれる音が、言葉を待つ間にすっと入り込んだ。私の唇にも、頬にも、まだ答えの形は作らない。
「俺と結婚してほしい。席ではなく、君の隣が欲しい」
「その……隣は、笑わなくていい席ですか?」
「笑わなくていい。怒っても、泣いても、君がいい」
「ふふふっ……。ありがとう……」
「どうかな?」
「お受け……します。私も、あなたの隣に座りたいですわ」
フーゴがパチパチとにこやかに拍手する。別の卓では、元夫とリースルが並んで客を迎える笑顔を練習している。けれど、向かいに座っているのは返された看板だけだ。
見かねたフーゴが、その卓へ歩み寄る。
「商人たちの取り決めです。領地へ戻るには、元夫人の紹介状が要るそうですよ」
フーゴが今朝見てきた市場は、看板の留め金だけを並べていた。元夫の領地へ向かう商人は、一人もいない。
「ならば、紹介状も持ってこい!」
「え? そ、それは、わたくしが頼んでも、いただけるものではありませんが……」
フーゴは元夫に背を向け、私へ向き直る。
「無理ですよね?」
その動きには迷いがなく、黒い上着の背中が、催促の声との間をきれいに仕切った。
元夫はものすごい形相でにらみつけ、つかつかと庭を出ていく。
「そうでした、海の向こうの大陸からも、招きが届いておりました」
「ほう、海の向こうへも……。一緒に行ってもいいか?」
「ええ! あなたとなら、楽しく回れそうですわ」
「いいね。新婚旅行も兼ねられそうだ」
「ふふっ、楽しみですわ!」




