第7話:天使の歌声、そして⋯⋯
同接数が500人を超え、コメント欄が「尻尾CG説」「マシロAI説」「本物の猫説?」で紛糾している中、私は静かにイントロを弾き始めた。
曲は『きらきら星』
誰もが知る童謡だが、コード進行をリハーモナイズ(再構築)し、夜の静寂に溶けるようなアンビエント調にアレンジしてある。
マシロが知っていて今、歌える数少ない曲の一つであり彼女の透明な声を最大限に引き出す選曲だ。
「⋯⋯マシロ、どうぞ」
私が小さく合図を送る。
マシロはポップガードの前で、コクリと頷いた。
そして、小さく息を吸い込み――歌い出した。
「きらきら⋯⋯ひかる⋯⋯♪」
その瞬間、世界からノイズが消えた。
鈴を転がすような、なんてありきたりな表現では追いつかない。
雪解け水のように澄んでいて、それでいて母胎の中にいるような温かさを持つ声。
ピッチの正確さは言うまでもないが、特筆すべきはその「倍音」の豊かさだ。一音発するだけで空間が浄化されていくような錯覚を覚える心地よさ。
あれだけ騒がしかったコメント欄の喧騒が、ピタリと止まった。
【視聴者のコメント】
『⋯⋯はえ?』
『嘘だろ?』
『え』
『うっっっっま』
『なにこの声、脳が溶ける』
『待って、これ子供の声? 加工なし?』
『耳が⋯⋯耳が幸せ⋯⋯』
『浄化される⋯⋯(昇天)』
『生にしか聞こえないが⋯⋯真面目に何者なんだ』
「おそらの⋯⋯ほしよ⋯⋯♪」
マシロは目を閉じ、体を左右に揺らしながら歌い続ける。
尻尾がメトロノームのようにゆったりとリズムを刻み、その動きすらも芸術的だった。
同接数がさらに跳ね上がる――600、800、1000人。
深夜のゲリラ配信、しかも童謡のカバーで四桁を達成し、更に膨れ上がろうとしている異常事態。
(すごい⋯⋯届いてるぞ、マシロ)
私は震える指先を必死に制御しながら、伴奏を続けた。
マシロも画面の向こうにいる「誰か」に声が届いているのを感じ取っているようだった。
それが嬉しくてたまらないのか、彼女の喉から歌声に混じって微かな「ゴロゴロ音」が重低音として乗り始める。それがまた奇跡的なハーモニーを生んでいた。
そして曲はサビへ向かう。
一番盛り上がるパートだ。
(いくぞ、マシロ!)
私がアイコンタクトを送ると、マシロはカッ! と目を見開いた。
気合十分――以前のリハーサル(マシロの才能を知ってから色々と練習した)では出さなかった、一オクターブ上の高音に挑戦するつもりらしい。
いける! 今の彼女なら天使のラッパのような突き抜ける高音が出せるはずだ。
『まばたき、して⋯⋯るぅぅ――』
マシロが大きく口を開け、渾身の力を込めた、その時。
『――みゃっ!!!』
音が、ひっくり返った。
綺麗に、盛大に。
高音を出そうと張り切りすぎたせいで、完全に猫の鳴き声が出てしまったのだ。
プツン、と私のピアノの手も止まった。
『可愛すぎwwwww』
『みゃっwwwww』
『!?』
『かわいいwwww』
『盛大に音外しちゃったwww』
『いや、猫じゃんw』
『可愛すぎるンゴ』
『ファーwwwwww』
コメント欄が「草」と「かわいい」で埋め尽くされる。
微笑ましいハプニングだ。これくらいなら愛嬌で済む――と、私は思った。
しかしマシロのプライドは、それを許さなかったらしい。
「⋯⋯ぁ、⋯⋯ぅぅ⋯⋯」
マシロの顔が、みるみるうちに茹でダコのように赤くなっていく。
完璧に歌えていたのに一番いいところで失敗した。その悔しさ。恥ずかしさ。
そして何より、どこからともなく聞こえる(ような気がする)笑い声への苛立ち。
彼女の猫耳がぺたんと伏せられ、次の瞬間、彼女は身を乗り出した。
画角の調整? 顔出しNG?
怒りが頂点に達した四歳児の子猫に、そんな理屈は通用しない。
「――っ!!」
ぬっ、と。
マシロの顔面が、カメラの目の前に迫った。
高画質Webカメラがその全貌を鮮明に捉える。
涙目で潤んだ、神秘的なオッドアイ。
悔しさで紅潮した白い頬。
そして、頭頂部で興奮によりピクピクと痙攣する真っ白な猫耳。
マシロはレンズの奥にいる(と彼女が思っているであろう)視聴者たちに向かって、精一杯の強がりを見せた。
鋭い八重歯を剥き出しにして。
「しゃーーーーーっ!!!!」
本気の威嚇――それは恐怖を与えるというより、生まれたての子猫が一生懸命強がっているような、破壊的な愛らしさだった。
しかし、私はそれどころではない。
「ばっ、ばかやろう!! 顔!! 顔出てる!!! 顔はやばいって!!!」
私の絶叫が防音室に響く。
コメント欄の流れが、光の速さを超えた。
『!?!?!?!?』
『顔!!!』
『オッドアイ!?』
『ちょ、耳! 耳動いてる!!』
『え、本物? ガチ?』
『天使いた』
『スクショした』
『国宝級の可愛さなんだが』
『ママ大慌てで草』
「あーーーッ!! もう終わりだッ!!」
私は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、PCの電源ケーブルを引き抜く勢いで配信切断ボタンを連打した。
ブツン。
画面が暗転する――配信終了。
しかし、最後に映し出された「涙目の威嚇顔」の残像は、間違いなく数千人の網膜と、インターネットのデジタルタトゥーとして深く刻み込まれてしまった。
防音室に静寂が戻る。
マシロはまだ、暗くなったカメラに向かって「ふーっ、ふーっ!」と荒い息を吐いていた。
「⋯⋯ま、マシロぉ⋯⋯」
私は頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
終わった。私の平穏な引きこもり生活も、社会的な何かも全部終わった。
これが後に『伝説の猫耳幼女放送事故』として語り継がれることになる、私たちのデビュー配信の顛末だった。




