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第56話:2センチの変化

 洗面所の鏡には並んで歯を磨く二人の姿が映っていた。

 朝の光が曇りガラス越しに差し込み、電動歯ブラシのモーター音が二重奏のように響く。


 私の隣には腰まで届く銀髪を無造作に揺らす少女がいる。


 三週間前、あの伝説の神配信(事実)を終えたマシロはそのまま今の――人間で言えば十歳から十二歳ほどの姿で定着した。


 中身は相変わらず四歳児並みの無邪気さと食い意地と私への激甘な愛情で構成されているが、外見だけは可憐な美少女そのものだ。それに最近では喋れる語彙も増えて来て、より感情表現が豊かになっている。


「んー、んー(たなで、おはよ)」


 口に泡を溜めたままマシロが鏡越しに私を見て目を細めた。

 私も軽く頷き返し視線を鏡の中の自分たちの「高さ」に戻す。


(⋯⋯おかしいな)


 違和感の正体はそれだった。

 急成長したマシロのために服を買いに行った時、彼女の頭頂部は私の胸のあたりだったと記憶している。

 それが今、鏡に映るマシロの頭は私の鎖骨のあたりに差し掛かろうとしているように見える。


 私は一度歯ブラシを口から出し、さりげなく背筋を伸ばしてみた。

 目の錯覚かもしれない。あるいはマシロが爪先立ちをしているのかも。

 けれど鏡の中のマシロは踵をべったりと床につけたまま、不思議そうに首を傾げているだけだ。


「⋯⋯マシロ。口をゆすいだら、ちょっとリビングに来てくれ」


「んー?」


        *


 我が家のリビングの柱にはマシロの歴史が刻まれている。


 一番下にある傷はマシロを拾ってきて数日後になんとなくつけたもの。当時の彼女は本当に小さくて私の膝丈くらいしかなかった。


 その遥か上に三週間前につけた新しい傷がある。


「顎を引いて。踵は浮かせない」


「ん!」


 私は定規をマシロの頭に乗せ、柱に強く押し当ててから鉛筆で印をつけた。

 マシロを退かせ、メジャーを当てる。

 スチールの冷たい目盛りが示す数値を読み取り、私は眉間を揉んだ。


「⋯⋯2センチ」


 伸びている――それも、たった三週間で。

 成長期の子どもだとしても早すぎないだろうか。ましてやマシロの場合、これは単なる「成長」ではなく器としての「拡張」だ。


 あの神配信の夜、世界中から集まった祈りと信仰がマシロの肉体を強制的に進化させた。

 あれで一旦落ち着いたと思っていたが、どうやら変化は現在進行系で止まっていないらしい。


「タナデ! どう!? マシロ、おっきくなった!?」


 私の憂慮など知る由もなくマシロはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

 嬉しいと尻尾がメトロノームのように左右に揺れる癖は、体が大きくなっても変わらない。むしろ尻尾が太く長くなった分、風圧が発生して近くの観葉植物が揺れている。


「ああ、大きくなってるな。前より2センチも」


「やったぁ! せーちょーき! マシロ、せーちょーき!」


 どこで覚えたのか、マシロは得意げに胸を張った。


「もっとおっきくなる! タナデを追い越す! そしたらマシロがタナデを『よしよし』してあげるの!」


「⋯⋯ふんっ。私を追い越すには、あと牛乳をトラック一杯分くらい飲まないと無理だぞ」


「うぐぅ⋯⋯マシロ頑張る」


 無邪気に拳を握るマシロの頭に私はぽんと手を置いた。

 サラサラとした銀髪の手触り。体温。それは確かにここに存在する命の感触だ。

 たとえ、どんなに成長しようともこの感触だけは変わらない。


 ☆


 昼食の時間になるとマシロが突然のエプロン姿でキッチンに現れた。


「タナデ! 今日はマシロも、おにぎり作る! 一人で!」


「⋯⋯ほう。いいだろう。やってごらん」


 自主性を重んじるのは教育的観点からも良いことだ。私は腕組みをしてキッチンカウンターの向こう側へ回った。

 

 ボウルには炊きたてのご飯。具材はもちろん、マシロの魂――ソウルフードであるツナマヨだ。


 マシロは手に水をつけ、塩をまぶす。そこまでは完璧だった。

 だが、いざご飯を手に取り真ん中にツナマヨを埋め込んで握り始めた瞬間、事態は急変した。


「ふんっ! ぬんっ! やぁっ!」


 気合の声と共に凄まじい握力が白米に加えられていく。

 猫獣人の身体能力は成長と共に順当に強化されている。その握力で圧縮された米粒たちは、もはや食材としてのふんわり感を失い、高密度の固形物へと変貌を遂げていた。


「できた! おにぎり!」


 マシロが誇らしげに掲げたのは完全なる球体だった。

 表面はつるつるに磨き上げられ、カチカチに固まっている。これを投げれば窓ガラスくらいなら容易に割れるだろう。


「マシロ。それはおにぎりではない」


「えっ」


「それは砲丸だ」


「ほーがん?」


 きょとんとするマシロに私は苦笑してため息をついた。

 これは手出しが必要だ。私は手を洗い、マシロの後ろに回り込んだ。


「貸してみろ。いいか、力任せに握るんじゃない。こうやって⋯⋯こう」


 私はマシロの手を自分の両手で包み込んだ。

 彼女の指の動きを誘導するように優しく力を加える。


「空気を含ませるように、ふんわりと優しく。手を山形にして角を作るんだ。回して、もう一回。回して、もう一回」


「ん⋯⋯むずかしい⋯⋯」


「最初はみんなそうだ。焦らなくていい」


 私の手の中でマシロの手が動く。

 温かくて、柔らかい手。


 ふと、私の指が止まった。


(⋯⋯本当に大きくなったな)


 以前、こうやって料理を教えた時はどうだっただろう。


 あの頃のマシロの手は紅葉(もみじ)のように小さくて、私の片手の中にすっぽりと収まってしまっていたはずだ。何しろ指なんて、私の半分くらいの長さしかなかった。


 いまや私の手の下にあるマシロの手は確実に「少女」の手になっていた。

 指は長く伸び、爪の形も大人びている。

 私の手が彼女を「包み込む」というよりは、彼女の手に「添えている」感覚に近い。


 重なった手のひらのサイズ差はもう驚くほど小さくなっていた。


「タナデ? どうしたの? とまってるよ?」


 マシロが不思議そうに背後の私を見上げる。オッドアイが至近距離で瞬いた。


「⋯⋯いや、なんでもない。上手になったなと思ってな」


 私は動揺を押し殺し、努めて平静な声を出す。


「ほら、できたぞ。綺麗な三角形だ」


「わぁ! ほんとだ! 三角さん!」


 マシロは歓声を上げて不恰好だが愛らしい三角形のおにぎりを皿に乗せた。


 私はそっと自分の手を握りしめる。

 残ったご飯の温かさとマシロの成長という実感が掌に張り付いていた。


 ☆


 深夜、マシロが寝静まったリビングは静寂に包まれていた。

 私はソファでブラックコーヒーを啜りながら膝上のノートPCを操作していた。


 画面に映っているのは『shiro_cat_growth_record』と名付けたスプレッドシートだ。

 今日の日付を入力して午前中に計測した身長を打ち込む。

 前回の記録からグラフの線が急激に跳ね上がっている。


 備考欄にカーソルを合わせる。

 プロデューサーとしての私は常に冷静でなければならない。事実を記録し、分析し、対策を講じるのが私の仕事だ。


『原因不明。信仰エネルギーの残滓による影響か。経過観察を継続する』


 カタカタと乾いたタイピング音が響く。

 そこで指が止まった。


 備考欄の続きに、私は無意識のうちに次の言葉を打ち込もうとしていた。


 『不安』あるいは『恐怖』。


 この成長の先にあるものは何だ?

 マシロが大人になること? それは喜ばしいことだ。


 でも、この異常な速度の成長は彼女が「ヒト」の枠から外れていく過程のようにも見える。


 柱の傷が増えるたび、おにぎりを握る手が大きくなるたび、彼女は「あちら側」――神域のことわりへと近づいているのではないか。


 いつか、私の手が届かない場所へ彼女が一人で行ってしまうのではないか。


「⋯⋯馬鹿なことを」


 私は小さく呟き、バックスペースキーを連打した。

 画面から『fua』の文字が消え、無機質なカーソルだけが点滅する。


 そんなことを考えてどうする。

 私はマシロの保護者だ。そして世界一のVtuberのプロデューサーだ。

 どんな変化が起きようと私が最適解を叩き出せばいいだけの話じゃないか。


「よし」


 私は自分に言い聞かせるように短く息を吐き、上書き保存のショートカットキーを押した。


 PCを閉じて――ふと寝室の方を見る。

 あちらからは、すぅすぅと安らかな寝息が聞こえていた。


 明日の朝食は何にしようか。

 たしか冷蔵庫には、まだ卵が残っていたはずだ。


 私は飲み干したコーヒーカップを置き、止まらない変化と不安を闇に溶かすようにして、静かに目を閉じた。

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