第54話:おおきくなっても、変わらないもの
うずくまって顔を上げようとしないマシロの頭に、私はぽんと手を置いた。
「大丈夫だ、マシロ。可愛かったぞ」
「うぅ⋯⋯失敗したぁ⋯⋯タナデぇ⋯⋯」
「失敗じゃない、最後のはご愛嬌ってやつだ。ほら、みんなも喜んでる」
私はモニターを指差した。そこには『マシロちゃん最高!』『むしろご褒美』『元気出して!』という言葉が滝のように流れ続けている。 マシロはおずおずと顔を上げて涙目のまま画面を覗き込んだ。
「⋯⋯ほんと? みんな、怒ってない?」
「ああ。お前の歌はちゃんと届いてるよ。――さあ立って、本番はこれからだろう」
手を差し出すとマシロはその手をぎゅっと握り返してきた。以前より少し大きくなった手のひら。けれど体温も握り返す力の加減は、あの雨の日から何ひとつ変わっていない。
マシロが立ち上がりマイクの前に戻る。私もピアノの椅子に腰を下ろして一度深く息を吸った。
ここからは笑いなしの真剣勝負だ。
「次の曲は新曲です」
コメント欄の奔流が、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「この数日間、いろいろなことがありました。私たちがこうしてまた配信できていること自体が正直、奇跡みたいなものです」
マシロが消えかけた夜。神域からの使者。そして世界中から集まった祈り。それら全てを経て今のマシロがここにいる。
「マシロが大きくなっても、姿が変わっても。変わらない想いがあります。それを曲にしました」
鍵盤に指を添える。
「聴いてください。――『おおきくなっても』」
☆
最初の四小節はピアノだけ――語りかけるように柔らかいハ長調のイントロ。
マシロが静かに目を閉じた。
そして歌い出す。
『雨の夜、段ボールの中 おにぎりひとつで世界が変わった
あの味を忘れたりしない だってそれが始まりだから』
最初のヴァースは二人の始まりの記憶――マシロの声は澄んでいて、どこか遠い場所を見つめるような響きがあった。まるで、あの夜のことを一つずつ手に取って確かめるように丁寧に言葉を紡いでいく。
『目線が変わった 景色が変わった 届かなかった棚に 手が届くようになった
昨日の靴はもう履けないけど あなたと歩いた道はちゃんと覚えてる』
サビに入ると同時にマシロの声量が一段上がった。
『――おおきくなっても、おおきくなっても。
手と手を繋いだら同じあたたかさ』
真っ直ぐな歌詞、比喩も暗喩もない。ただ「あなたが好きだ」という気持ちだけが圧倒的な歌声に乗って空気を震わせる。
プロの作曲家として、もっと洗練された表現はいくらでも書ける。でもこの曲に関しては、マシロが理解できる言葉だけを使うと決めていた。マシロが「自分のことだ」と感じられなければ、歌に魂は宿らない。
『――おおきくなっても、おおきくなっても。
中身は変わらないよ、あなたが好きだという この気持ちだけは』
『泣いた⋯⋯』
『おにぎりのエピソードいれてくるのいいな』
『「中身は変わらないよ」で崩壊した』
『モンタナ先生の愛が重い。最高に重い』
『あなたと歩いた道はちゃんと覚えてる⋯⋯うっ(´;ω;`)』
二番は成長の戸惑いを歌っていた。
声が変わったこと。鏡の中の知らない自分。少しだけ泣いた夜。
――けれど「あなた」が「変わってない」と言ってくれたから全部大丈夫になった。
マシロの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではない。歌詞の中に自分自身を見つけて、溢れ出してしまった感情の雫だ。
彼女はそのまま、涙を拭うことなく歌い続けた。
サビの繰り返し。今度は歌詞の中に「お膝に乗れなくても隣にいるから」というフレーズが出てくる。 いつか膝の上に収まらなくなっても形を変えて、距離を調整して、それでも隣にいる。
『めっちゃエモい⋯⋯』
『そうか、マシロちゃんまだお膝に乗ろうとしたんだね』
『ツナマヨとハンバーグとあなたのピアノ⋯⋯好きなものリスト最高すぎる』
『これ実質プロポーズだろ』
『モンタナ先生しか書けない歌詞だ⋯⋯』
曲がブリッジに入る。 伴奏が静まりマシロの声だけが防音室に響く。
『――あなたのいない、永遠はいらないとあの日決めたの。限りある今日が、こんなに眩しいから』
会場が――いや画面の向こうの世界が静まり返った。
コメント欄の流れが完全に止まった。数百万の沈黙がこの歌への最大の賛辞だった。
『――小さなリボンは、まだ胸にあるよ』
マシロがリボンに手を添えた。
成長して少し短くなった小さな鈴がついている青色のベルベットリボン。私がマシロに最初に贈ったもの。それが今もこの子の首元で控えめに、しかし確かに光っている。
ブリッジの最後のフレーズが消えて一拍の静寂。そしてラストのサビへ。
私は全身全霊で鍵盤を叩いた。
アレンジが一気に厚みを増す。ストリングスの打ち込みが重なりピアノの音色を押し上げる。
それに応えるようにマシロの声が爆発した。
『――おおきくなっても、おおきくなっても。どこまでも歩いていく。あなたと一緒に、明日も、その先も』
最後の一節をマシロは目を開けて歌った。涙の跡が残る頬。真っ直ぐにカメラを見つめるオッドアイ。 その視線の先にいるのは視聴者であり同時にたった一人の「あなた」だった。
『――ずっと、いっしょに』
最後の音が伸び、やがて消えていく。
ピアノの残響だけが波紋のように防音室の空気を揺らしていた。
長い、長い沈黙。
そしてマシロがマイクに顔を寄せた。歌声ではなく素の声で。小さく、ほとんど囁くように。
「⋯⋯ねえ、タナデ。大きくなっても、大好きだよ」
その一言は歌詞の延長ではなかった。楽曲の構成にも私の台本にもない、マシロ自身の言葉。
アウトロのピアノが静かに流れる中、不意打ちのその一言が防音室の空気を柔らかく震わせた。
私の指が一瞬だけ揺れた。ほんの僅かなテンポの乱れ。プロとして恥ずべきミスだが仕方ないだろう。
こんなものを真横で囁かれて、平然と弾き続けられる人間がいたら会ってみたい。
最後の和音を静かに鳴らし、指を鍵盤から離した。
沈黙――そしてコメント欄が決壊した。
『ありがとう、ありがとう』
『最高だった』
『号泣してる。隣の席の同僚に引かれてる。知るか』
『マシロちゃん、生きててくれてありがとう』
『「おおきくなっても、だいすきだよ」で完全に逝った』
『最後のあれアドリブだよな⋯⋯? 天才かよ⋯⋯』
『モンタナ先生のピアノ、最後ちょっと揺れたよな? あの人も人の子じゃったか』
『神回。今年のベスト配信。異論は認めない』
『スパチャの通知音が止まらないんだが』
『一生推す。来世も推す。永遠に推す』
モニターに映るスーパーチャットの嵐、赤スパが画面を埋め尽くし金額のカウンターが追いつかなくなっている。 数百万人の「祈り」が再びマシロに注がれていた。
誰もが余韻に浸り美しいエンディングを噛み締めていた。 私自身も。
――その時だった。
マシロがぱっと顔を上げた。 さっきまでの儚げな表情が嘘のように瞳がキラキラと輝いている。
あれは食欲の光だ。私にはわかる。何百回と見てきた光だから。
「タナデ!!」
マシロがマイクに顔を突っ込む勢いで叫んだ。
「マシロ偉い!? 頑張った!? よく出来た!?」
「⋯⋯ああ、頑張った。すごく頑張ったよ」
「じゃあ、ご褒美!!」
――来る。
「ツナマヨ!! ツナマヨおにぎり食べる!! いっぱい食べる!!」
感動の余韻が四文字の破壊力で粉砕された。 プリンでもケーキでもなく、ツナマヨおにぎり。
コンビニの百五十円のツナマヨおにぎり。それがこの子の「ご褒美」なのだ。
⋯⋯いや、考えてみれば当然か。 たった今歌った歌詞に自分で書いたではないか。
「雨の夜、おにぎりひとつで世界が変わった」と。「あの味を忘れたりしない」と。マシロにとってツナマヨおにぎりは、ただの食べ物じゃない。
世界が始まった味だ。私と出会った味⋯⋯それを、よりにもよってこのタイミングで叫ぶか。
「歌ったら食べたくなった! タナデ、一緒に食べよ!!」
マシロはよだれを垂らしそうになりながら椅子から飛び降り、私の腕を全力で引っ張った。猫獣人の膂力は成長と共に上がっている。本気で引かれると私の体勢が崩れる。
『wwwwwwwwwww』
『知ってたwww』
『ツナマヨwwww 歌詞の伏線回収やめろwww』
『「あの味を忘れたりしない」(今食べる)』
『情緒がジェットコースターすぎる』
『数億円のスパチャが飛んだ直後にコンビニのおにぎり要求するの、逆に器がデカい』
『ガワは女神、中身は食いしん坊幼女、推しはツナマヨ』
『安心した。俺たちのマシロちゃんだ』
『いいぞもっとやれ』
「マシロ、まだ配信中だ。配信中――」
「ツナマヨ! ツナマヨ!」
「人の話を聞きなさい⋯⋯」
私はため息をつきながらカメラに向き直った。もう取り繕う気力もない。
「⋯⋯すみません。腹ペコ歌姫が空腹で暴走したので、これにて配信を終了します。よっぽどツナマヨが恋しいようです」
『食べさせてあげてー!』
『かまへん、かまへん』
『おつかれ!!!!』
『モンタナ先生もツナマヨ食べてね』
『次の配信も楽しみにしてます!!』
『マシロちゃんにツナマヨを!!!!』
「ツナマヨに関しましては責任を持って最寄りのコンビニで調達いたします。――それでは皆さん、ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
マシロが頭を下げたところで配信停止ボタンを押す。ぷつんと画面が暗くなった。
新しい日常は、どうやら今まで以上に騒がしく、そして愛おしいものになりそうだった。




