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第52話:サイズ感のバグ

 朝食後のひととき、リビングには豆から挽いたコーヒーの香ばしい香りが漂い、窓から差し込む陽光がフローリングを温かく照らしていた。


 私は一人用のソファに深く腰掛け、ノートパソコンを開いて新しい曲の構想を練っていた。静寂の中、キーボードを叩く音だけが規則正しく響く。この穏やかなひとときは何物にも代えがたい貴重な時間だった。


 しかし、そんな平和な時間は長くは続かない。


 バンッ!


 寝室のドアが勢いよく開け放たれる音がした。


 続いて聞こえてきたのは以前の『ペタペタ』という可愛らしい足音ではない。

『ドドドドドドッ!』という、まるで小型の馬が疾走しているかのような重量感のある足音だ。


「タナデぇー!!」


 元気いっぱいの声とともに一直線に私のもとへ突進してくる白い影。

 私がパソコンを避ける間もなく、その影はソファに座る私めがけて思い切り跳躍した。


「ぐふっ⋯⋯!」


 みぞおちに硬い膝がクリーンヒットし、肺から空気が強制的に押し出される。

 視界は一瞬で白く染まった。いや、物理的に長い銀髪が私の顔面を覆い尽くしたのだ。


(重い。というかデカい⋯⋯!)


 息を詰まらせながら私は現状を冷静に分析した。

 私の膝の上にまたがるようにして抱きついてきているのは、推定十歳から十二歳ほどに急成長を遂げたマシロだ。


 身長は百四十センチ台後半に達し、手足もすらりと長く伸びている。そのため私の膝の上に収まるはずもなく、彼女の長い脚は完全にソファの肘掛けからハミ出していた。


 以前ならトテトテと歩いてきて私の膝に「ぽすん」と収まる、小動物のような可愛らしい突進も今の彼女のダイブは、控えめに言って交通事故に近い。


 その当本人であるマシロは自分の質量の変化に全く気付いていない様子で、私の首にしっかりと腕を回し胸に顔をぐりぐりと押し付けながら、ご機嫌な音を鳴らしている。


「ゴロゴロ⋯⋯ゴロゴロ⋯⋯」


 猫獣人特有の喉を鳴らす音――これも身体の成長に伴って反響空間が大きくなったのか、以前の『くるるる』という可愛らしい音から、スポーツカーのアイドリング音のような重低音へと進化していた。


「マシロ⋯⋯重い。作業ができないんだが」


 私は呆れた声で抗議した。


「んふふ〜、タナデあったかい」


 全く聞いていない。マシロは私の胸元で幸せそうに目を細め、さらに体重を預けてくる。腰のあたりからは、長い銀色の尻尾がゆらゆらと揺れ、私の腕をペシペシと叩いていた。


 口では文句を言いつつも私の手は自然と彼女の背中に回り、その滑らかな銀髪を優しく撫でていた。

 身体は大きく美しく成長したが中身は四歳児のまま、このアンバランスな質量バグこそが、私たち親子が直面している最も切実で、そして最も愛おしい問題だった。


 ☆


 昼下がり。

 朝の作業を終えた私はネット通販で届いた機材の空き箱をリビングの隅にまとめていた。


「少し大きめのダンボール箱」――それは猫という生き物にとって抗いがたい魅力を放つ魔法のアイテムだ。


 マシロも例に漏れず幼児だった頃から空き箱を見つけると、まるで吸い込まれるように中に入ってくつろぐ習性があった。いわゆる『ねこ鍋』ならぬ『ねこ箱』状態である。


 そして今日、リビングの隅に置かれた真新しいダンボール箱を発見したマシロの目が、キラリとハンターのように輝いた。


「あっ! はこ! マシロ、はいる!」


 マシロは嬉しそうに叫ぶと助走をつけてダンボール箱に向かってダイブした。

 以前の彼女なら空中で見事な放物線を描き、箱の中に「すぽんっ」と綺麗に収まっていただろう。


 しかし、現在の彼女の体格は当時の比ではない。


 ずぼっ!! ⋯⋯メリメリメリッ!


 嫌な音がリビングに響き渡る⋯⋯私が振り返るとそこには目を疑うような光景が広がっていた。


 箱の中に頭から突っ込んだマシロだが見事に腰と太ももの部分でつっかえ、上半身だけが箱に飲み込まれた状態になっていた。


 まるで四角いダンボール製のミミックに食べられているかのようだ。


「⋯⋯にゃっ!? 入れないっ!?」


 箱の中からくぐもったパニック声が聞こえてくる。

 マシロがジタバタと暴れると箱ごとズルズルと床を滑って移動していく。その様子は奇妙な箱の妖怪が這いずり回っているようにしか見えない。


「タナデぇぇ! 箱がくっついた! 箱のおばけぇぇ!」


「お前が自分から突っ込んだんだろうが⋯⋯」


 私は深い深いため息をつき、箱のおばけと化したマシロのもとへ歩み寄った。


「暴れるな。今取ってやるから」


 私は箱の側面に両手をかけ、メリメリと力任せにダンボールを引き裂いた。


「ぷはっ!」


 箱から解放されたマシロは涙目で私の腰に抱きつく。


「怖かった⋯⋯箱がマシロをたべようとした⋯⋯!」


「お前のサイズ感がバグってるだけだ。もうそのサイズの箱には入れないんだよ」


 私はビリビリになったダンボールの残骸を片付けながら、彼女の急激な成長を改めて痛感していた。

 しかし猫の本能(あるいは四歳児の探求心)は、一度の失敗では挫けないらしい。


 その数十分後――今度は「ソファと壁の隙間」にマシロのロックオンマークが点灯した。

 そこはかつてマシロが私とかくれんぼをする際、あるいは何か不安があったときに逃げ込む絶対不可侵の安全地帯だった。


「マシロ、そこはもう無理だ。やめておけ」


 私が警告を発したときには、すでに遅かった。


「平気だよ! マシロ、しゅばっ! て入れるもん!」


 マシロは自信満々に胸を張り、床を蹴ってソファの裏側へとスライディングした。


 ザザザッ!


 勢いよく滑り込んだものの途中で鈍い摩擦音がして彼女の動きがピタリと止まる。


「⋯⋯にゃっ!?」


 見事に頭と肩がソファと壁の隙間にガッチリと挟まっていた。


「だから言っただろう⋯⋯」


 私がソファの裏に回り込むとそこには哀れな猫獣人の姿があった。


 上半身は完全に隙間に埋まり、外に出ているのは腰から下とパニックを起こしてバッタンバッタンと激しく床を叩いている白い尻尾だけ。


「タナデぇぇ! 助けててぇぇ! 出られないよぉぉ!」


 くぐもった声が壁に反響して響く。


「やれやれ⋯⋯」


 私はマシロの腰を掴み「いち、にの、さん!」と引っ張ってみた。


「いたっ! いたい! タナデ、耳が! 耳がもげちゃう!」


「ストップ、ストップ。暴れるな」


 猫耳が壁に擦れて痛いらしい。無理に引き抜けば怪我をする。

 私は一旦手を離しキッチンへと向かった。戸棚を開けてオリーブオイルのボトルを取り出す。


「マシロ、ちょっと冷たいぞ」


 私はマシロの肩口と壁の隙間にオリーブオイルをタラタラと垂らした。


「ひゃっ! なにこれ、ぬるぬるする!」


「滑りを良くするんだ。いくぞ、深呼吸しろ」


 オイルが馴染んだのを見計らい、私は再びマシロの腰のあたりをしっかりと掴んだ。


「せーのっ!」


 渾身の力を込めて引き抜く――すぽんっ!!


 コルク栓を抜いたような間抜けな音とともにマシロの身体が隙間から飛び出してきた。

 勢い余って、私たちはフローリングの上をゴロゴロと転がった。


「ふぅ⋯⋯世話の焼ける子猫⋯⋯いや猫だな」


 私は乱れた息を整えながら天井を仰ぎ見た。


 ☆


 救出劇から数分後、濡れタオルで身体についたオリーブオイルと埃を拭き取られたマシロは、リビングの床にちょこんと正座していた。


 自慢の銀髪はボサボサで、ぴんと立っていたはずの猫耳はペタンと完全に伏せられている。長く美しい尻尾も、元気をなくして床にへばりついていた。


 全身から「反省しています」というオーラ、いや、それ以上の「しょんぼり」オーラが漂っている。


「どうした、マシロ。どこか痛かったか? 擦りむいたか?」


 私がタオルを置き、目線を合わせるようにしゃがみ込むとマシロは右が青、左が金色のオッドアイをウルウルと潤ませて見上げてきた。


「⋯⋯マシロ、大っきくなった」


「ああ、随分と大きくなったな。世界一可愛い美少女だよ」


 私が正直に答えるとマシロはさらに耳を下げ、ポツリとこぼした。


「⋯⋯大っきくなったから⋯⋯もう、ちっちゃいとこ、入れない?」


 その声は微かに震えていた。

 彼女にとってダンボール箱やソファの隙間は、ただの遊び場ではない。自分がすっぽりと収まり、安心できる「自分の場所」だったのだ。


 それが身体が大きくなったことで、もう自分のものではなくなってしまった。その喪失感と状況の変化に対する四歳児なりの戸惑いが、彼女を不安にさせているのだろう。


 そして彼女は最も恐れていることを口にした。


「じゃあ⋯⋯タナデのお膝も、もう乗っちゃだめ?」


 その問いかけに私の胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚に襲われる。

 大きく、美しく成長したマシロ。手足はすらりと伸び、もう片手でひょいと抱き上げることはできない。


 あの雨の路地裏で拾った、小さな小さな温もり。私が守らなければ壊れてしまいそうだったあの小さな身体は、もうどこにもない。


 その事実に対して実は私自身も一抹の寂しさを感じていた。親が子の成長を喜ぶと同時に抱く、あの普遍的な寂しさに似た感情かもしれない。


 それでも目の前で不安そうに揺れるオッドアイの瞳も、私を全幅の信頼で見つめるその心も、出会ったあの日から何一つ変わっていない。


 外側がどれだけアップデートされようと内側は私の愛するマシロのままなのだ。


 私はふっと息を吐き、自然と零れた微笑みとともにマシロの頭に手を乗せた。

 ボサボサになった銀髪を、くしゃくしゃと乱暴に、しかし愛情を込めて撫で回す。


「えへへ⋯⋯タナデ、くすぐったい」


「⋯⋯勘違いするな。私は別に膝に乗るなとは一言も言ってないぞ」


「えっ?」


 マシロが顔を上げる。


「少しばかり重くなっただけだ。私を誰だと思っている。お前一人の体重くらい、何時間でも受け止めてやる」


 私はマシロの両頬を両手で包み込み、まっすぐにその目を見つめた。


「お前が望むなら、いつだって乗せてやる。だから窮屈な箱なんか気にしてないで私に乗れ」


 その言葉を聞いた瞬間、マシロの顔にパァッと大輪の花が咲いたような笑顔が広がった。

 伏せられていた猫耳がピン! と立ち上がり、床にへばりついていた尻尾が、まるで意思を持っているかのようにブンブンと勢いよく振られ始める。


「ほんと!? わぁい!! タナデ、大好き!!」


 マシロは正座の状態からバネのように跳ね起き、そのままの勢いで私に向かってダイブしてきた。


「いや勢いはつけないで――っぐふっ!!」


 今日二度目のみぞおちへの強烈な一撃。

 物理的な質量の暴力に私は肺の空気をすべて吐き出しながら後ろへ倒れ込んだ。


「あわわ! タナデ! 大丈夫!?」


 私の上に馬乗りになり、心配な表情ながらもご機嫌に喉をゴロゴロと鳴らすマシロ。


「マシロ⋯⋯すこしは手加減してくれ⋯⋯」


「ごめんなさい!」


 悶絶しながらも私の腕はしっかりとマシロの背中を抱きしめていた。

 伝わってくる体温。シャンプーの甘い香り。そして、私を呼ぶ愛おしい声。


 身体のサイズが変わり、物理法則が壊れがちな新しい日常。きっとこれからも、サイズ感のバグによるドタバタ劇は絶えないだろう。


 それでもこの確かな温もりだけは永遠に変わらない。

 重くなったマシロの体重を全身で受け止めながら、私は幸せな痛みの中でそっと目を閉じたのだった。

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