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第49話:新しい日常へ

 防音室を満たしていた光の余韻は完全に消え去った。

 モニターの青白い光だけが静寂を取り戻した部屋を照らしている。


 私の腕の中で成長したマシロは気がつくと安心しきった寝息を立て始めていた。マシロが完全に寝付くのを確認してから私はゆっくりと視線を上げる。


 部屋の隅そこにはまだあの狐面の神使が立っていた。


 彼は呆然としていた。

 能面のような仮面をつけているため表情は見えないが、だらりと下げられた両手とどこか力の抜けた立ち尽くし方が、彼の受けた衝撃の大きさを物語っていた。


「⋯⋯規格外すぎる」


 仮面の奥から乾いた、しかし震えを帯びた声が漏れた。


「たかが人の執着、たかが愛着⋯⋯そう高をくくっていたが。まさか、器そのものを作り変えるほどの信仰を生むとは⋯⋯」


 神使は扇子で自身の額――仮面の上あたりを軽く叩いた。

 それは自身の常識が崩壊したことを認める仕草だった。


「これほどの信仰を一心に集め肉体を再構築した存在。もはや、ただの眷属の末裔ではない。現代という特殊な土壌が生み出した新興の神に等しい」


「神、か」


 私はマシロの背中をポンポンと優しく叩きながらも苦笑した。

 神様にしては食いしん坊で、甘えん坊で、ずいぶんと手がかかる。

 だが数百万人の祈りを力に変えた今の彼女を表現するには、それくらいの言葉が必要なのかもしれない。


「それでどうします。まだ連れて行くつもりですか?」


 私が問うと神使は首を横に振った。


「いいやよそう。これだけの質量を持った存在を無理に神域へ引きずり込めば境界が歪みかねん。それに⋯⋯」


 神使は眠るマシロを見つめた。


「本人がそれを望み、人々の祈りがそれを肯定したのだ。我ら古き者が口を出す幕ではなかろう」


 それは完全なる撤退宣言、私は大きく安堵の息を吐いた。


 勝った。私たちは理不尽な運命に打ち勝った。


「だが、忠告しておこう」


 神使の姿が足元から霧のように薄れ始めた。


「その姿は膨大なエネルギーによって維持されている仮初めの成長にほかならない。今後もその存在を保ちたければ、燃料――即ち『愛』を絶やさぬことだ」


「愛、か。⋯⋯一番得意な分野だな」


 私はニヤリと笑ってみせた。


「どうかご安心を、世界中がマシロを愛してる。そして何より私がいる」


「フン⋯⋯傲慢な人の子よ」


 神使は皮肉げに笑った気配を見せたが、その声色はどこか楽しげでもあった。


「精々、その『新しい神』を御することだ。⋯⋯面白い見世物になりそうだからな」


 最後にそう言い残して狐面の男は完全に空気の中へと溶け込んだ。

 気配が消える――だが完全に去ったわけではない気がした。


 どこか遠く、あるいはすぐ近くの影の中からこの奇妙な親子の行く末を観察し続けるつもりなのかもしれない。

 まあ構わない。強力なストーカーが一人増えたと思えば、マシロのボディガード代わりにはなるかもしれない。


        * * *


 神使が消えた後、私はPCのモニターに向き直った。

 配信はまだ続いている。

 カメラは私の胸元で眠るマシロの銀髪と、少し大人びた横顔を捉えていた。


 コメント欄は未だかつてない速度で流れていた。

 しかし、先ほどまでの悲痛な叫びとは違う。

 そこにあるのは爆発的な歓喜と祝福、そして困惑と興奮だった。


『マシロちゃん!? 大きくなった!?』

『え、ガチで進化? ポケモン的な?』

『ロリマシロちゃんも至高だったが、美少女マシロちゃんも尊すぎる⋯⋯!』

『奇跡を見た』

『俺たちのスパチャが、マシロちゃんの血肉になったってコト!?』

『銀髪ロング最高かよ』

『モンタナ先生、服! 服を用意してください! GJだけど!』

『よかった⋯⋯本当によかった⋯⋯生きててくれてありがとう』


 画面を埋め尽くす「おめでとう」と「ありがとう」の嵐。

 その熱気がモニター越しに伝わってくるようだ。

 私はマイクに向かって、静かに語りかけた。


「⋯⋯みんな、ありがとう。本当にありがとう」


 飾らない、本心の言葉だった。


「みんなの声がマシロを救ってくれた。この姿がその証拠です。詳しいことはまた後日説明しますが⋯⋯とりあえず、これだけは言わせてください」


 私は眠るマシロの頭に顎を乗せ、カメラを真っ直ぐに見据えた。


「マシロは消えない。これからも、もっともっと凄くなる。⋯⋯覚悟してくださいね」


 そう言い残して私は配信終了のボタンを押した。

 プツンと画面が暗くなる。

 長い、長い夜がようやく終わった。


        * * *


 それから数日後。

 平和な――しかし、以前とは少し違う日常が戻ってきていた。


 カーテンの隙間から柔らかい朝の光が差し込むキッチン。

 トントントン、と軽快な包丁の音が響くはずが今日は少し違った音が混じっていた。


「タナデ! みてみて! 綺麗に割れた!」


 弾んだ声と共に目の前にボウルが突き出された。

 中には黄身が崩れることなく割られた生卵が入っている。殻の混入もない完璧な状態だ。


「おお、すごいなマシロ! 上達したじゃないか」


 私は心から感心して隣に立つ少女の頭を撫でた。

 以前なら腰を屈めなければ届かなかったその頭は、少し手を伸ばすだけで届く位置にある。


 140センチ後半くらいだろうか。

 新調したパステルブルーのエプロンがスラリと伸びた身体によく似合っている。

 銀色の長い髪は、料理の邪魔にならないように後ろで一つに束ねられており、その隙間から真っ白な猫耳がピンと立っている。


 マシロは成長した。

 身体能力も向上し、手先も器用になった。

 以前は卵を握りつぶして「ぐちゃっ」となっていたのが嘘のようだ。


「えへへ、マシロ、上手?」


「ああ、天才だ。オムライス職人になれるぞ」


「わーい! 職人!」


 褒められたマシロは嬉しそうに尻尾を左右に激しく振った。

 その動きでパーカーの裾がめくれそうになるのも無邪気な笑顔も、中身は以前の「四歳のマシロ」と何ら変わらない。


 見た目は美少女、中身は幼女。

 ある意味、最強の属性を兼ね備えてしまったのかもしれない。


「じゃあ、次はこれ!」


 マシロが意気揚々と手を伸ばしたのは私の使っていた包丁だった。

 私はすかさずその手を優しく制した。


「ストップ。包丁はまだ駄目だ」


「えー! なんでー! マシロ、もうお姉さんだよ?」


「お姉さんでも駄目だ。指を切ったらどうする。私の心臓が止まるぞ」


「むぅ⋯⋯タナデの心臓、よわっちい」


 マシロは頬を膨らませて文句を言ったがその仕草さえも愛おしい。

 彼女は渋々包丁を諦め、代わりに泡立て器を手に取った。


「じゃあ、混ぜ混ぜする!」


「よし、頼んだ」


 カシャカシャと卵を溶く音。

 バターがフライパンで溶ける、甘く香ばしい匂い。

 コーヒーメーカーがコポコポと音を立てる。

 

 なんてことのない朝の風景だけれど数日前のあの夜、失われかけた幸せだ。

 隣にマシロがいる。体温がある。影がある。音を立てて生きている。

 それがどれほど奇跡的なことか、私は噛み締めるようにフライパンを振った。


「――できたぞ。特製オムライスだ」


 皿に盛り付けた黄色い塊の上に私はケチャップで猫の顔を描いた。

 そして仕上げに爪楊枝とマスキングテープで作った手製の「旗」を立てる。


「わぁ⋯⋯! 旗! 旗だ!」


 マシロの目が輝いた。

 あの夜、消えゆく意識の中で彼女が求めた約束は何回だって果たしてみせる。


 ダイニングテーブルに向かい合わせに座る。

 マシロはスプーンを握りしめ、大きな声で言った。


「いただきます!」


「召し上がれ」


 彼女はスプーンでオムライスの端をすくい、大きく口を開けて頬張った。

 ふわとろの卵とチキンライス。

 口いっぱいに広がる味に彼女のオッドアイが細められる。


「⋯⋯んーっ!! んめっ!!」


 喉をゴロゴロと鳴らし、頬にケチャップをつけながら、彼女は満面の笑みを私に向けた。

 太陽のような、ひまわりのような。

 世界中の宝石を集めても敵わない最高の笑顔。


「タナデのごはん、世界一!」


「そうか。なら明日も明後日も、ずっと作ってやる」


「うん! えーえん、ずっと一緒!」


 マシロは嬉しそうに笑い、また一口、オムライスを口に運んだ。

 窓の外には抜けるような青空が広がっている。

 私たちの「新しい日常」は、まだ始まったばかりだ。


 神様公認の「奇跡の歌姫」とその過保護な保護者。


 これから先、どんなトラブルが待ち受けていようとこの笑顔がある限り私たちは無敵だ。

 さあ、次はどんな歌を歌おうか。

 どんな景色をこの子に見せてやろうか。


 私はコーヒーを啜りながら、幸せそうに尻尾を振る愛娘を見つめ、静かに微笑んだ。

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