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第48話:成長したマシロ

 視界を埋め尽くしていたホワイトアウトが徐々に収束していく。

 鼓膜を圧迫していたエネルギーの奔流のような轟音も、波が引くように静まり返っていった。


 私は恐る恐る目を開けた。

 防音室の照明はエネルギーの余波でショートしたのか消えており、モニターの青白い明かりだけが頼りなく室内を照らしている。


「⋯⋯はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯」


 私の荒い呼吸音だけが響く。

 全身が汗で濡れていた。


 まるでサウナの中に長時間放り込まれていたかのような熱気が、まだ肌にまとわりついている。

 だがそんなことはどうでもよかった。問題は腕の中だ。


(⋯⋯ある)


 重みがあった。

 それも先ほどまでの「空気のような頼りない軽さ」ではない。

 ましてや、私が知っている「四歳の幼児の軽さ」でもない。


 ずっしりとした確かな質量。

 人間一人がそこに存在しているという絶対的な「生」の重みが、私の膝の上にのしかかっていた。


「マシロ⋯⋯?」


 私は腕の中の存在に呼びかけた。

 目が慣れてくるにつれてそのシルエットが浮かび上がる。

 

 そして、私は息を呑んだ。

 そこにいたのはあの子猫のような幼女ではなかった。


 まず目に飛び込んできたのは髪――雪のような白銀の髪。

 以前は肩口でふわふわと跳ねていたそれが今は背中を覆い、腰に届くほどの長さまで伸びている。

 モニターの光を反射して一本一本が光ファイバーのように艶やかに輝いていた。


 そして、身体つき――私の腕の中に収まりきっていた小さな背中は一回りも二回りも大きくなっていた。

 華奢ではあるが幼児特有の寸胴な体型ではない。

 手足がすらりと伸びて少女特有のしなやかな曲線を描いている。


 推定年齢は十歳から十二歳、小学校高学年くらいの背丈だろうか。

 幼さと大人びた雰囲気が同居するサナギから蝶へと変わる途中のような、最も神秘的な一瞬を切り取ったかのような姿。


 しかし感傷に浸っている場合ではなかった。

 私の脳内で保護者としての緊急アラートがけたたましく鳴り響いたのだ。


「――っ、服が!」


 マシロが着ていたのは四歳児サイズの白いワンピース、それが急速に成長した身体に耐えきれるはずもない。

 背中のファスナーは弾け飛び、袖口は裂け、スカートの丈は見るも無残なほど短くなっている。

 白い肌があらわになり伸びた手足が丸見えなっていた。


 配信はまだ続いている。カメラは生きている。


「しまっ⋯⋯! 見せるな!」


 私は反射的に動いた。

 マシロの身体を自分の胸に強く押し付け、抱きすくめるようにしてカメラの死角へと隠す。

 さらに椅子の背もたれにかけてあったパーカーを引っ掴み、素早く彼女の背中から被せた。


 心臓が早鐘を打っていた。これは別の意味で社会的に死ぬところだった。

 いや、そんな世俗的な心配よりも今は目の前の「奇跡」を確認しなければならない。


 パーカーに包まれたマシロが身じろぎをした。

 私の胸元で温かい吐息がかかる。


「⋯⋯ん⋯⋯」


 小さく唸り声を上げて彼女が顔を上げる。

 

 至近距離で目が合った――右の青、左の金。

 その色彩は変わっていない。


 けれどその瞳の大きさ、形、そして宿る光の強さは明らかに変わっていた。

 あどけなさ一辺倒だった瞳孔は知性と理性を帯びて涼やかになり、長い睫毛が憂いを帯びた陰影を落としている。


 顔立ちも丸みを帯びた幼児のそれから顎のラインがシャープになり、鼻筋の通った美少女のそれへと変貌を遂げていた。


 以前のマシロが「天使」だとすれば今のマシロは「女神の幼少期」とでも呼ぶべきか。

 あまりの美しさに私は一瞬、言葉を失って見惚れてしまったほどだった。


 彼女はぼんやりとした様子で、ゆっくりと自分の手を顔の前に持っていった。

 すらりと伸びた指先――透き通るような白さだが向こう側は透けていない。

 血管の青みがうっすらと見える、生きた皮膚がちゃんとある。


 彼女は右手をグーパーと握りしめ、開いた。

 関節が動く。筋肉が連動する。

 そこに力がある。


「⋯⋯消えて、ない」


 彼女の呟き、その声を聞いて私はまたしても衝撃を受けた。

 舌足らずで少し甘えたような幼い声ではない。


 鈴を転がすような透明感のあるソプラノボイス――変声期前の少年のような中性的な響きもありつつ、女性的な柔らかさも含んだ、耳に心地よい声で発音も明瞭だ。


 彼女は自分の頬を両手で触り、それから長い髪を一房手に取って見つめた。

 そして頭の上の猫耳をピコピコと動かす。

 感覚を確かめるように、自分が「ここ」にいることを確認するように。


 やがて彼女の視線が目の前にいる私へと向けられた。

 オッドアイが揺れる。

 そこに涙の膜が張っていくのが見えた。


「⋯⋯タナデ?」


 名前を呼ばれた。

 たった三文字。

 けれどその響きは以前とは少し違う、明確な「意思」と「信頼」が込められていた。

 大好きな保護者を呼ぶ甘え声ではなく、対等なパートナーとして魂の片割れを呼ぶような声。


「ああ⋯⋯そうだよマシロ。私だ」


 私が答えると彼女の大きな瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。

 それは頬を伝い、パーカーの袖に落ちて温かい染みを作った。


「タナデ⋯⋯!」


 マシロが私の首に腕を回しながら力いっぱい抱きついてきた。


 ドサッ、という衝撃――以前のような、ふわっとした飛びつきではない。

 体重の乗った、しっかりとした抱擁が交わされる。


「触れる⋯⋯!」


 耳元で彼女の声が震えていた。


「タナデに、触れるよ。すり抜けないよ」


「ああ⋯⋯触れる」


「ぎゅってできる⋯⋯! 温かいの!」


 彼女は私の背中に回した手に力を込めた。

 痛いほどに。その痛みさえもが私にとっては至上の喜びだった。

 痛覚がある。圧迫感がある。

 それは彼女が幽霊でも幻でもなく、物理的な実体を持ってここに存在している何よりの証明だ。


「ああ⋯⋯温かいな、マシロ」


 私も彼女の背中に手を回して抱きしめ返した。

 パーカー越しに伝わる体温、トクトクと脈打つ心音――生きている。


 消えかけていた命が数百万人の祈りを糧にして、より強く、より大きく生まれ変わったのだ。


「よかった⋯⋯本当によかった⋯⋯」


 私の目からも熱いものが溢れ出した。

 もう、我慢する必要はなかった。

 声を上げて泣きたい衝動に駆られたが何とかそれは堪えた。


 ただ彼女の銀色の髪に顔を埋め、その匂いを吸い込んだ。

 日向のようなミルクのような匂いは薄れ、代わりに雨上がりの花のような清廉な香りがした。


 マシロは私の胸に顔を擦り付けながら泣きじゃくっていた。


「怖かった⋯⋯。タナデとお別れかと思った」


「私もだ。⋯⋯もう二度と離さないよマシロ」


「うん、うん⋯⋯!」


 彼女の尻尾がパーカーの裾から飛び出して私の腰に巻き付いてくる。

 その力も強くなっている。

 まるで二度と離れないように鎖で繋ぎ止めるかのように。


「みんなの声、聞こえたの」


 マシロは抱きついたまま、夢うつつに語るように言った。


「沢山の光が降ってきたの。熱くて、眩しくて⋯⋯でも、みんな優しかった」


「そうだな」


「『マシロ』って、いっぱい言ってた。だからマシロも頑張った。もっと強くならなきゃって。タナデと一緒にいるために大きくならなきゃって」


 進化の理由――それは生存本能であり同時に「私と一緒にいたい」という純粋な願いだった。

 その願いが彼女の器を無理やり成長させたのだ。

 神の理すらねじ曲げて。


「そうか。⋯⋯偉いぞマシロ。お前は本当に頑張り屋さんだな」


 私は彼女の頭を撫でた。この手つきだけは彼女が大きくなっても変わらない。

 マシロは気持ちよさそうに目を細め、喉をゴロゴロと鳴らした。

 その重低音も以前より深く、響くようになっていた。


 神使は言った。

 この子は神の眷属だと。

 人の信仰を糧にする存在だと。


 ならば今ここにいる彼女は何者になったのだろうか。

 人でもなく、ただの猫でもなく。

 世界中の愛を一身に受けて自らの意思で殻を破った、新しい「何か」


 でも、そんな定義はどうでもよかった。

 大きくても小さくても神でも人でも猫でも――マシロはマシロだ。

 私の大切な、世界で一番手のかかる、愛しい家族だ。


「⋯⋯タナデ、お腹すいた!」


 不意にマシロが顔を上げて言った。

 その瞳には涙が残っていたが、同時に強い光が宿っている。

 そして、ぐぅぅぅと可愛らしくないほど盛大な音が彼女のお腹から鳴り響いた。


 私は思わず吹き出した。涙でぐしゃぐしゃの顔で笑ってしまった。


「ははっ⋯⋯成長しても中身はそのまんまだな。進化するほどエネルギーを使ったんだ。腹も減るだろうさ」


「ハンバーグ! 約束!」


「ああ、約束だ。とびきりでかいやつを作ってやる」


 マシロは花が咲くように笑った。

 その笑顔は幼い頃の面影を残しながらも誰もが見惚れるような美しさを秘めている笑顔。

 

 私はもう一度、彼女を強く抱きしめる――この腕の中の重みこそが私たちが勝ち取った勝利の証だから。


 カメラの向こうの数百万人も部屋の隅にいる神の使いも、今はまだ沈黙を守っていた。

 ただ再生と再会を喜ぶ私たち二人の時間を静かに見守っているようだった。

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