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第45話:マシロの拒絶

予約投稿をミスっていました。本日、午後8時に46話を更新致します。m(_ _)m

 部屋を支配していた冷気が緩んだ気がした。

 それは交渉が成立した合図だった。


 一ノ瀬奏の魂を削り取るような懇願が、自身の幸福とマシロとの未来を代償に彼女の命乞いをしたその覚悟が、人ならざる者の琴線に触れたのだ。


「⋯⋯よかろう」


 狐面の神使は厳かに頷いた。

 その声には先ほどまでの冷徹さの中に、ある種の敬意のような響きが混じっていた。


 短命で愚かな人間が示した自己犠牲という名の愛。

 それを汲み取ったのだ。


「約束しよう。この『迷子(まよいご)』は我が責任を持って神域へと送り届け、その魂を修復する。二度と消滅の恐怖に怯えぬよう、永遠の安寧を与えよう」


 その言葉は奏にとって救いであり、同時に死刑宣告でもあった。

 助かる。マシロは助かるのだ。そしてそれは永遠の別れを意味する。


 もう二度とあの尻尾が揺れるのを見ることもない。

 「タナデ、おなかすいた!」と甘える声を聞くこともない。

 ピアノに合わせて歌う、あの奇跡のような時間も、二度と戻らない。


(⋯⋯これで、いいんだ)


 奏は床に額を押し付けたまま、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。

 嗚咽が漏れそうになるのを必死で喉の奥に押し込む。


 泣くな。泣いて引き留めればマシロが起きてしまうかもしれない。

 笑って送り出さなければならない。

 それが保護者としての最後の義務だ。


 衣擦れの音が嫌に響く――神使がベッドの方へと歩を進めたのだ。


(ああ⋯⋯いやだ⋯⋯! 連れて行かないで⋯⋯!)


 心の中で封じ込めたはずの本音が絶叫する。


 行くな、行くんじゃない。私のそばにいてくれ。


 ハンバーグを作る約束はどうなる。旗を立ててやると言ったじゃないか。

 まだ何も教えてやれていない。外の世界はもっと広くて沢山の幸せに溢れているんだって。


 自転車の乗り方も、逆上がりの仕方も、ひらがなの書き方も。

 海も、山も、遊園地も、まだどこにも連れて行ってやれていないのに。


 ――それでも奏は顔を上げなかった。

 上げてしまえばきっと縋り付いてしまうから。


 神使はベッドの脇に立ち、静かに眠るマシロを見下ろした。

 彼女の身体は、すでに半透明に透けていた。


 足先や尻尾の先端は霧のように揺らぎ、その輪郭を失いつつある。

 限界が近い、あと数時間遅ければ彼女は完全に現世からロストしていただろう。


「さあ、帰るぞ。白猫」


 神使は白い手袋に包まれた両手を差し出した。

 それは慈悲深い動作だった。

 壊れかけの雛鳥を拾い上げるような慎重で優しい手つき。

 その指先がマシロの小さな肩に触れようとした――その時だった。


 ガブッ!!


 乾いた音が静寂の部屋に響いた。


「⋯⋯っ!」


 神使が、初めて驚愕に動きを止めた。

 差し出した右手――その親指の付け根に、小さな牙が深々と突き立てられていたのだ。


 意識を失っていたはずのマシロが目を見開いていた。

 右の青、左の金――宝石のようなオッドアイが爛々と輝き、目の前の「招かれざる客」を睨みつけている。


 その瞳に宿っているのは恐怖ではない。

 明確な、敵意。


「⋯⋯ふーっ!!」


 マシロは喉の奥から威嚇音を鳴らし、噛み付いた手を離すと獣のように身を翻して距離を取った。

 だが、その体はボロボロだった。


 実体を失いかけている手足は思うように動かないらしい。

 彼女はベッドのヘッドボード側へ逃げようとして、バランスを崩し、シーツの上に無様に転がった。


「マシロ!?」


 異変に気づいた奏が弾かれたように顔を上げる。

 そこには全身を小刻みに震わせながら、それでも必死に四肢を踏ん張って、神使に対して牙を剥くマシロの姿があった。


「⋯⋯ほう」


 神使は噛まれた手を見つめた。傷はない、霊体である彼に物理的な傷はつかない。

 だがそこには明確な「拒絶」の意思が刻まれていた。


「まだ動けるか。魂の核が砕け散る寸前だというのに」


「こ、ないで⋯⋯!」


 マシロが叫んだ。

 掠れた、弱々しい声。

 けれど、その言葉は確かな意思を持って叩きつけられた。


「マシロ⋯⋯おまえ、意識が⋯⋯」


 奏が呆然と呟くとマシロはその声に反応し、ゆっくりと視線を巡らせた。

 そして、床に這いつくばっている奏の姿を見つけると今にも消えそうな半透明の腕で、シーツを鷲掴みにした。


 ズルリ、ズルリ――。


 彼女は這い出した。

 神使から逃げるように。

 そして奏の方へと近づくために。


 下半身はもう感覚がないのか、引きずっているだけだ。

 それでも彼女は肘を使って、懸命に、芋虫のように這いずった。


「やだ⋯⋯」


 ポタポタとシーツに涙が落ちる。


「かえるの、やだ⋯⋯!」


 彼女には聞こえていたのだ。

 薄れゆく意識の闇の中で奏が自分のために土下座をし、自分のために「さよなら」を選ぼうとした、その会話の全てが。


 神使は憐れむように眉をひそめた――ように見えた。


「愚かな子だ。わからぬか? ここにいては消えるだけだ。我と共にくれば苦しみは消える。温かい神域で、永遠に遊んで暮らせるのだぞ」


 それは幼子に対する甘い誘惑だった。

 苦痛からの解放――終わりのない楽園。

 だがマシロは振り返りもせず、首を激しく横に振った。

 乱れた白髪が舞う。


「いらない!!」


 拒絶の叫び。


「タナデがいないなら、どこにもいかない!」


 マシロはベッドの端まで辿り着き、そこから身を乗り出すようにして、床にいる奏に向かって手を伸ばした。

 その指先は霧のように霞んでいて、届きそうにない。


「神さまのとこなんて、しらない! えいえん、なんて、ほしくない!」


 彼女は泣きじゃくりながら子供らしい、けれど誰よりも純粋な論理(りくつ)を叫んだ。


「マシロは、タナデのごはんがいい! ハンバーグたべるの! はた、たてるの!」


「マシロは、タナデのピアノがいい! タナデのおうたがいいの!」


 それは神使が提示した「永遠の安寧」などよりも、彼女にとっては遥かに価値のあるものだった。


 神の国にある無限の至福よりも奏の作るハンバーク、オムライスの味。

 美しい天上の音楽よりも大好きな保護者が弾くピアノの音色。

 そちらの方が、ずっとずっと大切だと彼女の魂が叫んでいる。


「あぁ⋯⋯あぁ! マシロ⋯⋯!」


 奏は言葉を失った。

 涙が止まらなかった。


 やめろ。そんなことを言ったら私が決心が鈍る。

 お前を助けるために心を鬼にしようとしたのに。


「だって⋯⋯だって⋯⋯!」


 マシロはベッドから転がり落ちるようにして奏の目の前に落ちてきた。

 奏は慌ててその体を受け止める。


 軽い。恐ろしいほどに軽い。

 まるで空気を抱いているようだ。

 けれどその胸元にあるリボンの鈴が、チリンと小さな音を立てた。


 マシロは奏のシャツをぎゅっと握りしめた。

 力がほとんど入っていない、透けた指で。


「えーえんって、いったもん⋯⋯!」


 大粒の涙が彼女の宝石のような瞳から溢れ出し、奏の胸を濡らす。


「ずっと、ずっといっしょだって⋯⋯タナデ、やくそくしたんだもん!!」


 ――「ああ。私がマシロとずっと一緒にいること。それが『永遠』だ」


 かつて、オリジナルソングの練習中に言った言葉。

 永遠の意味を知らなかった彼女に奏がかけた言葉。

 

 何気ない約束だった。でも彼女にとっては、それが絶対の真実だった。


「やくそく、やぶるの⋯⋯? マシロを、すてるの⋯⋯?」


 見上げられた瞳――そこには消失する恐怖など微塵もなかった。

 ただ、大好きな人に手放されることへの悲痛な恐れだけがあった。


 プツン。


 奏の中で、何かが切れる音がした。

 理性が。

 大人の分別が。

 自己犠牲という名の、かっこつけた諦めが。

 すべてが音を立てて崩れ去った。


(⋯⋯ああ、馬鹿だな私は)


 私は何をしていたんだ。

 マシロの幸せのためにマシロを手放す?  ふざけるな。


 マシロが一番望んでいるのは「生きること」じゃない。「私と一緒にいること」だ。


 なら、それを叶えずに何が保護者だ。何がプロデューサーだ。


 死ぬから諦める? 神様が決めた寿命だから従う?


 知ったことか。そんな運命、私がねじ伏せてやる。


 奏は腕の中の軽すぎる少女を強く、強く抱きしめ返した。

 自分の体温を魂ごと分け与えるように。


「⋯⋯ごめん」


 奏は震える声で謝った。

 神使にではない。

 マシロにだ。


「私が間違っていた。約束は⋯⋯破らない」


 顔を上げた奏の瞳から迷いは完全に消え去っていた。

 あるのは世界そのものを敵に回してでも、この腕の中の温もりを守り抜くという狂気じみた決意だけだ。

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