第44話:無力感と究極の選択
「待て⋯⋯! 待ってくれ⋯⋯!」
氷のように冷たい床の上で私はなりふり構わず男の足首にしがみついていた。
指先がかじかみ、感覚がない。
男の袴の生地越しに伝わってくるのは生物の体温ではなく、まるで雪原の岩肌に触れているかのような絶対的な冷気だった。
それでも私は指を離さなかった。
離せば、終わる。
離せば、マシロが連れ去られる。
その恐怖だけが限界を超えた体に最後の力を注ぎ込んでいた。
「説明しろ⋯⋯! 何も言わずに連れ去るなんて、あんまりだろッ! マシロはモノじゃない! 私の家族なんだ!」
掠れた声で叫んだ。喉が張り裂けそうで目からは自然と涙が溢れ出る。
恐怖、混乱、怒り、そして絶望。
ぐちゃぐちゃになった感情が涙となって頬を伝い、床を濡らした。
神使と名乗った狐面の男は足元に縋り付く人間を見下ろし、ピタリと動きを止めた。
その視線には明らかな侮蔑の色があった。
しかし同時に理解しがたいものを見るような、僅かな困惑も混じっていた。
「⋯⋯ふむ」
男は鬱陶しそうに足を振るうことはしなかった。
ただ面の奥にある瞳を細め、ため息交じりに呟いた。
「驚いたな。ただの執着かと思ったが⋯⋯その心根は本物のようだな」
「当たり前だ⋯⋯! 命に代えてもマシロは渡さない!」
「命、か。短命な人の子が軽々しく口にするものだ」
男は扇子で自身の肩をトントンと叩き、少し考える素振りを見せた。
そしてふわりと袴の裾を翻し私の方へと向き直る。
その動作一つで部屋に吹き荒れていた冷たい風が、わずかに凪いだ。
「よかろう」
男の声は依然として冷徹だったが、先ほどまでの「害虫を駆除する」ような響きは消えていた。
代わりに現れたのは無知な子供に世界の理を説く教師のような、冷ややかな慈悲だった。
「その愚直な熱意に免じて冥土の土産に教えてやろう。なぜこの娘が消えかけているのか。なぜ我が回収せねばならぬのかを」
男は扇子の先でベッドに横たわるマシロを指した。
彼女の体は、すでに半分近くが透けていてシーツの柄が、白い肌の向こう側にうっすらと見えている。
その光景に私の心臓が痛いほど脈打つ。
「その娘は貴様らの言葉で言うところの『招き猫』――福を招く神の眷属の末裔だ」
「⋯⋯ま、まねき、ねこ⋯⋯?」
呆然と鸚鵡返しにした。
置物として知られる、あの招き猫か。
マシロが神の使いの血を引いているというのか。
「かつて、この国には八百万の神が溢れていた。人々は自然を畏れ、神を敬い、祈りを捧げた。その『信仰』こそが、我らがあちら側(神域)からこちら側(現世)に留まるための錨であり、糧であった」
男は淡々と語る。
それは神話の授業のようでありながら、残酷な現実の宣告でもあった。
「時は流れた。人は知恵をつけ、科学という灯りで闇を照らし神を不要とした。信仰は薄れ、畏怖は消え、神々は忘れ去られた。糧を失った我らは現世に留まることができず、次々と神域へと帰還したのだ」
男は一度言葉を切り、私を見下ろした。
「よいか、今のこの世は我らにとって酸素のない深海と同じだ。存在するだけで莫大なエネルギーを消耗する過酷な環境なのだよ。それはこの娘とて同じこと」
唇を噛んだ。マシロが「普通ではない」ことはわかっていた。
でも彼女の存在そのものが、この世界にとって「ありえないもの」だったとは思わないじゃないか。
「では、なぜマシロは⋯⋯あんな裏路地にいたんだ」
「『迷子』だ」
男は短く答えた。
「稀にいるのだ。生まれて間もない幼体が強い『生への執着』を持って現世の裂け目に落ちることがな。この娘もまた神域にて自然発生的に生まれた眷属の一体、さまよい歩くうちに、このコンクリートのジャングルへと迷い込んだ一匹の野良猫に過ぎぬ」
路地裏で震えていた、小さな白い塊。
誰にも見つけてもらえず、ただ空腹と寒さに耐えていたあの日。
彼女は神の眷属でありながら、神域へ帰ることもできず信仰のない世界で孤独に耐えていたのだ。
「通常ならば迷い込んだ時点で数日と持たず霧散し土に還る。だがこの娘はしぶとかった。あるいは貴様という『特異点』に出会ったことで僅かながら信仰を得て、存在を繋ぎ止めていたのかもしれん」
男の視線が私を射抜く。
「しかしそれも限界だ。この娘の魂にある『存在維持費』は完全に底をついた」
「枯渇⋯⋯したというのか?」
「そうだ。そして、その引き金を引いたのは――他ならぬ貴様だ」
ドクンと心臓が跳ねた。
私が?
私がマシロを追い詰めたというのか?
「な、何を言っている⋯⋯私はマシロの願いを叶えたくて、幸せにしたくて⋯⋯」
「『祭り』だ。この娘を大衆に晒したであろう」
男は冷ややかに告げた。
祭り――今日のイベントのことか。
「数千の人間がこの娘を見た。声を聴いた。心を揺さぶられた。貴様はそれを『成功』と呼ぶだろう。だが神の側に近いこの娘にとって、人の強烈な感情――『念』は諸刃の剣なのだ」
男は扇子を広げると宙空に何かの紋様を描いた。
すると、そこにはイベント会場の光景――光の海と熱狂する人々の姿が幻影のように浮かび上がった。
「本来、信仰とは静謐なもの⋯⋯社を建て、儀式を行い、清められた状態で捧げられる純粋なエネルギー、翻って貴様が集めたのは『熱狂』――すなわち欲望、好奇心、崇拝、執着、性愛⋯⋯混じり気だらけの濁流のような膨大な念である」
「⋯⋯⋯⋯っ」
「長らく修行を積んだ神ならばそれすらも糧にできたであろう。だがこの娘は幼く、その器は未完成だ。そこへ許容量を超える濁流と直接、触れてしまった。その結果、魂が激しく揺さぶられ自身を維持するための核が損耗し、強制的にエネルギーを消費させられたのだ」
あの光の海――マシロが「きれい」と笑った、あの景色が。
人々が手を合わせ、涙を流したあの空間が。
それらがすべてマシロを殺す毒だったというのか。
彼女を喜ばせようとして彼女の世界を広げようとして企画したイベントは、結果として彼女の寿命を縮めたというのか。
「そん、な⋯⋯」
私は愕然として手から力が抜ける。
男の足首を掴んでいた指がだらりと床に落ちた。
「皮肉な話だが貴様がこの娘を愛し世に知らしめようとすればするほど、この娘の『現世での死』は早まるのだ。神なき信仰によって人の念を吸収するがゆえにな」
男は扇子を閉じ、パチンと音を立てた。
それはマシロへの死刑宣告の音のように響いた。
「このまま放置すれば、あと数時間――いや、夜明け前には完全に霧散するだろう。肉体は消滅し、魂も四散し、二度と輪廻の輪に戻ることはない。完全なる『無』だ」
完全なる、無。
マシロがいなくなる。
オムライスを食べる笑顔も、歌う声も、温かい体温も、すべてがなかったことになる。
記憶の中にしか残らない存在になる。
嫌だ。
そんなことは認められない。
私は守ると誓ったんだ。
どんな敵からも、どんな理不尽からも。
私は床に手をついて顔を上げた。
涙で滲む視界の先、男の狐面を睨みつける。
「⋯⋯連れて行けば、マシロは助かるのか?」
震える声で核心を問うた。
神使の男はゆっくりと頷いた。
「神域には信仰など不要だ。そこは我らの故郷であり純粋な霊力で満ちている。連れ帰れば、この娘の存在は安定し霧散することはない。永遠の時を生きることができるだろう」
「永遠に⋯⋯生きられる⋯⋯」
「左様。飢えることも、凍えることも、消滅に怯えることもない。同胞たちと共に安寧の日々を送れる」
それは究極の救済だった。
私がどれだけ金と知恵を使っても与えられない、絶対的な安全と永遠の命が手に入れられる。
でもそれだけで済む、甘い話じゃない。
「その代わり⋯⋯」
私は声を絞り出した。
「⋯⋯二度と、こちらには戻れないんだな?」
男は静かに答えた。
「そうなる。一度境界を越えれば二度と人の世には干渉できぬ。貴様とも、二度と会うことはない」
わかっていた。
わかっていた答えだ。
それでも胸が張り裂けそうだった。
心臓を素手で握りつぶされるような激痛。
マシロとの別れ。
今日食べるはずだったハンバーグ。
作ると約束した旗。
これから先、一緒に見るはずだった季節。
彼女の成長。歌声。そのすべてを放棄しなければならない。
「⋯⋯⋯⋯」
マシロの方を見ると彼女はもう透明になりかけていた。
苦しげな表情は消え、今は静かに蝋燭の火が消える寸前のような儚さで眠っているように見える。
私のエゴで引き留めれば彼女は死んでしまう。
私が手を離せば彼女は生きる。けれど私は彼女を失う。
そこに選択肢など最初からなかった。
私は「保護者」だ。
親が子のためにすべきことは、ただ一つしかない。
(ああ、そうか⋯⋯)
奏の中で何かがストンと落ちた。
かつて音楽を「自分のため」に作っていた頃は、こんな気持ちを知らなかった。
何かを手放すことがこれほど痛く、そしてこれほど尊いものだとは。
愛するということは所有することではない。
その命を、慈しみ、生かすこと。
私の足元でカラン、と音がした。
床に転がっていたゴルフクラブが完全に放棄された音だった。
私は膝をついたまま、深く頭を垂れた。
プライドも、意地も、すべてを捨てて。
ただ一人の、無力な人間として。
「⋯⋯お願いします」
嗚咽が漏れた。
涙が止まらない。
それでも言葉を紡がなければならない。
「連れて行って⋯⋯。どうか⋯⋯マシロを助けてやってください、幸せにしてやってください」
それは敗北宣言であり、最大の愛の証明だった。
「この子が⋯⋯マシロが、生きて、笑っていられるなら⋯⋯」
床に額を擦り付けた。
土下座など、安いものだ。
私の心など、いくらでも千切れていい。
「私はいらない。私のことは忘れていい。だから⋯⋯マシロの命だけは、守ってください。お願いします」
部屋に静寂が満ちた。
風の音も止んだ。
ただ男の白い衣擦れの音だけが死刑執行人の足音のように響いていた。




