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第43話:招かれざる客(狐の神使)

 思考が白く塗りつぶされていくようだった。

 目の前にある現実が私の理解のキャパシティを遥かに超えている。


 透明になりかけているマシロの指先が、掴めない手首が恐ろしくて。

 まるで出来の悪いホラー映画を見せられているかのような、あるいは過労による悪質な悪夢を見ているかのような感覚。


「マシロ⋯⋯」


 私は何度も彼女の頬に触れては名前を呼び続けた。

 頬にはまだ、かろうじて実体がある。


 けれどその感触は徐々に頼りなく、そして薄氷の上を指でなぞっているような危うさがあった。

 少し力を入れればパリパリと音を立てて崩れ去り、彼女という存在が霧散してしまいそうだ。

 怖い――二度と取り戻せないものが指の隙間から砂のように零れ落ちていく絶望感。


「誰か⋯⋯助けてくれ⋯⋯」


 無神論者の私が神に祈るような言葉を口にした。

 滑稽だった。それでも今の私には他に縋るものがなかった。


 その時――ヒュウッとどこからか風が吹いた。

 窓は閉め切っていてカーテンも閉ざされているというのに。


 空調の風ではない。もっと冷たく湿った彼岸花のような甘い匂いを孕んだ風――それが密室であるはずの寝室を吹き抜けたのだ。


「⋯⋯っ!?」


 私は反射的に顔を上げて周囲を見回す――部屋の空気があきらかに変わっていた。

 先ほどまでの重苦しい湿った空気ではなく、もっと鋭利で肌を刺すような静電気を帯びた、張り詰めた気配が漂う。


 ベッドサイドのランプがチカチカと不規則に明滅し、ジジジ⋯⋯という不穏なノイズを立てる。


 そして――部屋の隅、ウォークインクローゼットの影が落ちる暗がりに、”それ”は立っていた。


「――誰だ」


 私の喉から掠れた声が出た。


 不審者? 泥棒?


 いや、そんな生易しいものではない。

 いつの間に入ってきたのかもわからなかった。

 足音も気配もましてや呼吸音すらもなかった。


 ただ闇が凝縮して人の形を成したかのように、唐突にそこに「在った」。


 長身の男――身長は二メートル近いだろうか。

 現代の日本には不釣り合いな、白装束――神職が着るような狩衣(かりぎぬ)を纏っている。


 その白さはマシロの髪のような純粋な白ではない。

 骨のような、あるいは死装束のような不吉な白。


 そして顔には面をつけている。

 細長い釣り目と裂けた口。

 狐の面。


「――回収に来た」


 面の下から響いた声は若くもなく老いてもいない無機質な響きを持っていた。

 男の声でも女の声でもないような二重音声のようなノイズ。

 それが鼓膜を震わせるのではなく直接脳髄に響いてくる。


 男はゆっくりと一歩を踏み出した。

 フローリングを踏む音すらしない。

 彼は私には目もくれず、ただ一点――ベッドの上で消えかけているマシロだけを見つめていた。


「随分と探したぞ。こんな穢れた場所に隠れているとはな」


「⋯⋯何の話だ」


「それは、こちらの落とし物だ」


 白手袋に包まれた指がマシロを指差す。

 落とし物――その単語が私の脳内でカチリと音を立てて火花を散らした。

 恐怖が一瞬にして沸騰した怒りへと変わる。


「⋯⋯落とし物、だと?」


 私は立ち上がった。

 足が震えているのがわかる。

 人としての本能が警鐘を鳴らしていた――こいつに関わってはいけない。こいつは人間ではない。この部屋から逃げろと。


 だが逃げるわけにはいかない。背後には動けないマシロがいる。


 私は視線を男から外さずに移動しながら手を伸ばした。

 部屋の隅に置いてあったゴルフバッグ(かつて付き合いでいったパーティーで、たまたま引き当てた景品)


 そこから一番重そうなアイアンを一本、引き抜いた。

 ずっしりとした金属の重みが、わずかに理性を繋ぎ止める。


「ふむ」


 狐面の男は私が武器を構えても動じる様子すらなかった。

 ただ面の奥の瞳――存在するかどうかも怪しい眼窩が、私を「障害物」として認識した気配だけがした。


「おい、一歩でもマシロに近づいてみろ。その頭蓋骨を叩き割るぞ」


 私はアイアンを構えながら男とベッドの間に立ちはだかった。

 声が震えないように腹に力を入れる。


「ここは私の家だ。貴様のやっていることは不法侵入だ。今すぐ出ていけ」


 精一杯の虚勢――相手が人間なら、これで怯むこともあるだろう。

 だが男は微動だにしない。

 それどころか、面白くもない冗談を聞いたかのように肩を震わせた。


「不法侵入⋯⋯か」


 クツクツ、という乾いた笑い声。


「人の(ことわり)で我を縛ろうというのか。滑稽なことだ」


「何がおかしい!」


「おかしかろう。蟻が人に向かって『ここは私の領土だ』と喚いているようなものだ」


 男は袖の中から一本の扇子を取り出し――パチンと鳴らすと部屋の空気が一気に凍りついた。

 それは物理的な温度の低下――吐く息が白くなり窓ガラスがピキピキと音を立てて霜に覆われていく、まさに超常の力。


「な⋯⋯っ」


 寒さで体が強張り指がかじかんで、クラブを取り落としそうになる。

 これは手品やトリックなんかじゃない本物の超常現象。


「我は神使(しんし)なり。あの方の命により迷子(まよいご)を迎えに来たに過ぎぬ」


 男は扇子でマシロを指した。


「その娘――『猫』は、本来お主のような人間達が触れていい存在ではない。神域(あちら)側の住人だ」


「神域⋯⋯?」


 神使、神域――オカルトじみた単語の羅列が脳みそを揺さぶる。

 普段の私なら鼻で笑って一蹴していただろう言葉、しかしマシロの耳、尻尾、そして今の透明化現象を説明づけるには最適で、すべての辻褄が最悪の形で合致してしまっていた。


「⋯⋯マシロは私の家族だ」


 私は歯の根が合わないほどの寒さと恐怖に耐えながら睨み返した。


「神だか使いだか知らないが勝手に連れて行くことは許さない。誘拐だ。警察を呼ぶぞ」


「警察か。呼ぶがよい」


 男は一歩、また一歩と近づいてくる。

 その歩みに合わせて床が黒く染まっていくように見えた。


「だが果たして彼らに我が捕まえられると? 我を裁けると?」


 圧倒的な威圧感――生物としての格の違い。

 私の生存本能が「こいつには勝てない逆らえば殺されるぞ」と「土下座をして許しを請え」と叫んでいる。


 それでも――私の背中にはマシロの体温がまだある。

 あの小さな、温かい命が残ってる。


「関係ない⋯⋯!」


 私はアイアンを握り直した。


「相手が神でも悪魔でも、マシロを傷つける奴は私が法的に⋯⋯いや、物理的に排除する!」


 私は叫び、アイアンを振り上げてみせた。

 無謀だ。勝てるわけがない。

 だがマシロを「落とし物」呼ばわりするこのふざけた狐を、一発殴らなければ気が済まなかった。


 男は立ち止まり、狐面をわずかに傾けた。

 その仕草は、初めて私という人間に興味を持ったかのようだった。


「ほう。威勢だけはいいな、人の子よ」


 男の声が低くなる。


「だが無駄だ。その娘は『迷子(まよいご)』ゆえ、神域へ連れ帰る義務がある。期限は切れたのだ」


 男の手が伸びる。

 その手が触れればマシロは完全に消えてしまう。

 そんな予感があった。


「やめろぉぉぉぉッ!!」


 私は絶叫と共に渾身の力でクラブを振り下ろした。

 金属のヘッドが空を切り、狐面の男の肩口へと吸い込まれる。


 ――ガィィンッ!


 硬質な音が響き、私の手に強烈な痺れが走った。

 それは肉を打った感触ではない。

 まるで見えない鋼鉄の壁を叩いたかのような反動でアイアンのシャフトがひしゃげ、手から弾き飛ばされた。


「⋯⋯ぐっ!?」


 私はよろめきながら床に膝をつく、男は無傷だ。

 私の攻撃など、そよ風程度にも感じていない様子で冷徹に見下ろしている。


「愚かなものだ。やはり言葉は通じぬか」


 男は私を無視してついにベッドの脇へと到達した。

 そして、消えかけているマシロの顔へとその白い手を伸ばす。


「さあ、帰るぞ。白猫」


 私は床を這って男の足首を必死に掴んだ。何が何でもマシロを連れてはいかせない。その一心で私は手の力を極限まで込めていた。

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