第42話:すり抜ける指先
寝室の時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。
チク、タク、チク、タク。
それはまるでマシロに残された時間を削り取っていくカウントダウンのように聞こえた。
私はベッドの脇に椅子を引き寄せ、そこに座り込んだまま、ただひたすらにマシロの寝顔を見つめていた。
広いキングサイズのベッド――その真ん中に横たわる彼女は、あまりにも小さかった。
白いシーツに同化してしまいそうなほど色素の薄い肌。
普段は元気に跳ね回っている猫耳も、今は力なくぺたりと伏せられている。
「⋯⋯マシロ」
名前を呼んでも返事はない。
苦しげな吐息だけが規則的に繰り返されている。
帰宅直後、玄関で倒れ込んだ彼女を私はこの寝室へと運び込んだ。
救急車は呼ばなかった。呼べなかった。
冷静な判断、と言えば聞こえはいい。だが実際は恐怖による選択だった。
マシロの身体的特徴――本物の猫耳、尻尾、そして人間離れした骨格や身体能力。
これらが医師の目に触れれば、ただの「風邪」では済まされないだろう。
未知の生物として隔離されるかもしれない、あるいは研究対象として解剖台に乗せられるか⋯⋯流石に今のマシロを殺すことはないだろうが、彼女の立場が不安定なことに代わりはない。
なにより彼女を守るための法律知識も社会的地位も医学的な異常事態の前では無力だ。
(⋯⋯それに、これは病気なんかじゃない)
私は無意識に自分の手を強く握りしめた。
抱き上げた時の、あの異常な「軽さ」を思い起こす。
そして今、こうして寝かせている間にも彼女の存在感が希薄になっていくような薄ら寒い感覚。
これはウイルスや細菌による疾患ではなく、もっと根本的な――マシロという存在を構成する「何か」が、漏れ出しているような現象に思えて仕方なかった。
「くそっ⋯⋯何なんだよ、これは」
私は洗面器の水にタオルを浸し固く絞った。
マシロの額に乗せるが焼けるような高熱で氷枕もすぐにぬるくなってしまう。
私は何度も何度もタオルを替えては、体を冷やさないように毛布を掛け直し汗を拭いてやった。
何もできない自分が歯がゆくて惨めで情けなかった。
数時間前まで彼女はあんなに輝いていたのに。
何千人、そして何万もの人々を笑顔にし光の海の中で歌っていたのに。
「⋯⋯まさか、代償なのか?」
ふと不吉な考えが脳裏をよぎる――路地裏で拾った奇跡。
人間離れした歌声と愛らしさ、その奇跡を行使した代償として彼女の命が削られたとでもいうのか?
だとしたら彼女をステージに上げたのは私だ。
私がマシロを殺そうとしているのか?
「違う⋯⋯やめろ、無駄なことを考えるな⋯⋯」
私は首を振ってネガティブな思考を振り払おうとした。
今は彼女を繋ぎ止めることだけを考えろ。
私が諦めたら、そこで終わりじゃないか。
「なぁマシロ⋯⋯明日の朝ごはんはハンバーグだぞ。約束しただろ?」
私は意識のない彼女に語りかけ続けた。
「旗も一緒に作ろう、いちばん背の高い旗を作った方の勝ちだ。おやつも奮発する。だから⋯⋯」
その時――マシロがうっすらと目を開けた気がした。
いや、瞼が痙攣しただけかもしれない。
だけど彼女の口から小さく「ぅ⋯⋯」という声が漏れた。
私は弾かれたように身を乗り出した。
「マシロ!? わかるか? 私だ、タナデだ!」
反応はない。
ただ、苦しそうに顔を歪め布団の上に出していた右手が何かを探すように空を彷徨った。
タナデ、と呼ぼうとしているのか。
あるいは、あの光の海を思い出して手を伸ばしているのか。
「ここにいる。私はここにいるぞ! マシロ⋯⋯!」
私は彼女の手を握ろうと自分の手を伸ばした。
細い手首――折れてしまいそうなほど華奢な腕。
それを優しく包み込み、安心させてやりたかった。
私の指がマシロの手首に触れる。
――その瞬間だった。
ズルリ。
「⋯⋯え?」
私の口から間の抜けた声が出た。
掴んだはずだった。
確かに、そこに腕があった。
視覚情報は私の指がマシロの手首を掴んでいると認識していた。
けれど触覚がそれを否定した。
手応えがなかった。
まるで水の中に手を入れたような。濃い霧を掴んだような。
私の指は抵抗なくマシロの手首を『すり抜け』て、そのままシーツを握りしめてしまったのだ。
「⋯⋯あ? ⋯⋯なに」
心臓が早鐘を打つ。
見間違いだ。疲れているんだ。
そう自分に言い聞かせて、私は震える手でもう一度、マシロの腕に触れようとした。
今度は、ゆっくりと。
指先を、彼女の白い肌へと近づける。
触れる。
いや、触れない。
私の指先がマシロの肌に沈んでいく⋯⋯肉体に食い込んでいるのではない。
重なっているのだ。
私の指と彼女の腕が同じ空間に共存している。
マシロの実体がない。
「嘘だろ⋯⋯?」
私は息を呑み目を凝らした。
ベッドサイドランプの薄暗い明かりの中で信じがたい光景が広がっていた。
マシロの指先――そして布団から投げ出された尻尾の先端が、ぼんやりと透けていた。
半透明のガラス細工のように。あるいは消えかけのホログラムのように。
輪郭が曖昧になって揺らぎながら、その向こう側にあるシーツの皺がうっすらと透けて見えている。
「⋯⋯消えるのか? マシロ⋯⋯?」
物理的に?
そんな馬鹿なことがあってたまるか。
彼女はここにいる。生きている。
ご飯を食べて、笑って、歌って、生きていたんだ。
それが、どうして。
おとぎ話の妖精が役目を終えて帰るみたいに、泡になって消えるなんて。
「ふざけるな⋯⋯!」
恐怖が怒りに変わる。
私は震える両手でまだ実体の残っているマシロの肩を掴もうとした。
肩はまだ、ある。
熱い体温も感じる。
だがその感触さえも数分前より希薄になっている気がした。
砂時計の砂が落ちるように、彼女の存在が世界から零れ落ちていく。
「いか、ないで⋯⋯」
私はマシロの頬に手を添えた。
ここはまだ触れられる。
柔らかい頬が手のひらを包むけれど、私の指先が少しでも力を込めればそこも霧散してしまいそうな脆さがあった。
「頼むよマシロ、行くな。私を置いていくな。お願いだから行かないで」
懇願するような言葉が口をついて出る。
どんなアンチだって悪徳事務所だって私は論破し、ねじ伏せてきた。
言葉と法律と音楽で、あらゆる敵を退けてきた。
だけどこの現象には言葉も法律も通用しない。
相手がいない。ただ、喪失だけがそこにある。
「たな⋯⋯で⋯⋯」
うっすらと透け始めた唇から微かな声が落ちた気がした。
それは私を呼んでいるのか。
それとも別れを告げているのか。
「マシロ! ここにいる! 私はここにいるから! 頼む、消えないでくれ⋯⋯!」
私は彼女の頭を抱きしめることができなかった。
もし抱きしめて、その腕が彼女の体をすり抜けて空を切ってしまったら。
その事実を突きつけられるのが死ぬほど怖かったからだ。
だから私はただ、消えゆく彼女の頬に手を添えて祈るようにその名前を呼び続けることしかできなかった。
夜はまだ明けない。
絶望的な静寂の中でマシロの輪郭は、残酷なほど静かに揺らぎ続けていた。




