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第41話:祭りの後、崩れる日常

 イベント会場の裏口からタクシーに滑り込み、ドアが閉まった瞬間、世界は静寂を取り戻した。

 窓の外を流れる東京の景色、色とりどりのネオンが窓ガラスに滲むように後ろへと飛び去っていく。


「タナデ、タナデ! すごかったね!」


 後部座席の隣でマシロが興奮気味に私の腕を揺さぶった。


 イベントが始まってすぐは極度の緊張と初めて見る大勢の人間に怯えていたはずだが、終わってみればアドレナリンが勝っているらしい。


 純白のワンピースを着た身体から隠しきれない熱気が伝わってくる。


「ああ、すごかったな。マシロが頑張ったからだ」


「みんな、キラキラしてた! ペンライト、おほしさまみたいだった!」


 マシロは両手を大きく広げて、会場で見た光の海を表現しようとしている。


「最初はこわかったけど、みんなニコニコしてた。ガラスにおてて、ペッタンしてくれた。マシロ、うれしかった!」


「そうか。⋯⋯みんな、マシロの歌が聴けて嬉しかったんだよ」


 私は彼女の頭を撫でた。

 柔らかい白髪の感触。猫耳が私の手のひらをくすぐるようにピクピクと動く。


 本当に、よくやったと思う。


 数千人の視線に晒されながら轟音のような歓声を浴びる。

 普通の四、五歳の子供なら泣き出して終わりだ。


 それを彼女は歌声ひとつで空間を支配し、笑顔で乗り切ってみせた。

 あのガラスケース越しに見せた笑顔は間違いなく伝説になるだろう。


「お疲れ様でした一ノ瀬様、マシロお嬢様」


 運転席から穏やかな声がかかる。


 ハンドルを握っているのは私が以前から信頼して指名している個人タクシーの運転手、山田さん。

 白髪の紳士で私たちの事情を知りながら詮索せずに「可愛らしいですね」と微笑んでくれる得難い人物である。


「うん! やまださん、ただいま!」


「はい、おかえりなさい。マシロ様がテレビ⋯⋯じゃなくて、ネットで活躍していると孫から聞きましたよ。すごいですね」


「えへへ、すごいの!」


 マシロはふんぞり返るように胸を張った。尻尾がシートの上でパタパタと踊っている。


 私はシートの背もたれに深く身を預け、長く息を吐いた。


 終わった。

 無事に終わったのだ。


 あのガラスの要塞も厳重な警備も、すべては徒労に終わるほど平和なイベントだった。

 いや、私が過剰なまでに準備をしたからこそ平和だったのだと自分に言い聞かせる。


 ワンダやスタッフたち、そして「騎士団」と呼ばれ始めたファンたちの協力。

 すべてが噛み合って奇跡が起きた。


 これでまた一つ、マシロは成長した。世界が広がった。

 これからは、もっと色々なことができるかもしれない。

 そんな希望的観測が疲労した脳内に甘く広がっていく。


「さて、今日の主役にはご褒美が必要だな」


 私はマシロに向き直り、尋ねた。


「夕飯、何がいい? 今日は特別だ。なんでも作ってやるぞ」


 マシロの目が輝いた。

 オムライスか? それとも特製チュール入りおにぎりか?

 彼女は人差し指を口元に当てて、少しだけ考えてから満面の笑みで言った。


「タナデのはんばーぐ! ちーず、とろーんってしてるやつ!」


「チーズインハンバーグか。よし、いいだろう」


「あとね、はた! うえに、はた、たてるの!」


「お子様ランチ風だな。わかった、爪楊枝とマスキングテープで旗も作くろうか」


「わーい! タナデだいすき!」


 マシロが抱きついてくる。その体温が心地よかった。


 愛しい重み。私の守るべき世界の全て。


 今夜は腕によりをかけて肉汁たっぷりのハンバーグを作ろう。付け合わせは甘い人参のグラッセとフライドポテトだ。


 マシロが口の周りをソースだらけにして頬張る姿が容易に想像できた。


        * * *


 マンションのエントランスに到着した頃にはマシロのテンションは少し落ち着いていた。

 さすがに疲れたのだろう。

 タクシーを降りる足取りは少しふらついていたが、手を繋ぐとしっかり握り返してきたので、ただの眠気だと思った。


「山田さん、ありがとうございました。またお願いします」


「いえいえ、一ノ瀬様もゆっくり休んでくださいね。マシロ様もおやすみなさい」


「⋯⋯ん、おやすみなさい」


 マシロは目を擦りながら、小さく手を振った。

 遠ざかるタクシーのテールランプを見送ってから私たちはオートロックを抜け、エレベーターに乗り込んだ。


 上昇する箱の中、マシロは無言で私のコートの裾を掴んで立っていた。

 下を向いて少し呼吸が荒い気がする。


「マシロ? 眠いか?」


「⋯⋯うん。ちょっと、あつい」


「はしゃぎすぎたな。帰ったらすぐにご飯にして、お風呂に入って寝よう」


 私は気楽に考えていた。

 子供は体温調整が未熟だ。興奮すれば熱も出る。

 一晩ぐっすり眠れば、また明日の朝には「タナデ、おなかすいた!」と元気に飛び起きてくるはずだ。


 ⋯⋯そう、信じて疑わなかった。


 玄関の前に着く。

 鍵を取り出し、ドアを開ける。


 慣れ親しんだ我が家の匂い。

 廊下の明かりをつけると、フローリングが白く浮かび上がった。


「ほら、マシロ、ウチに着いたぞ。靴を脱いで⋯⋯」


 私が先に上がり靴を脱ごうとした時だった。

 背後でマシロの気配が消えた。


 いや、正確には。

 何かが「落ちる」鈍い音がした。


 ドサッ。


「⋯⋯マシロ?」


 振り返った私の視界に入ってきたのは、玄関のたたきに崩れ落ちている小さな白い背中だった。

 糸が切れた人形のように。あるいは電池が抜けた玩具のように。

 不自然な体勢で、彼女は突っ伏していた。


「おい、どうした!?」


 私は慌てて靴を履いたまま駆け寄り、その体を抱き起こした。

 マシロの顔は真っ赤で目は固く閉じられている。

 呼吸が浅く、速い。

 肌に触れた瞬間、火傷しそうなほどの高熱が手のひらを焼いた。


「熱い⋯⋯! 知恵熱か? いや、それにしても⋯⋯」


 だが私の思考を真に凍りつかせたのは、熱ではなかった。

 その直後に感じた、ある「違和感」だった。


 抱き上げた腕の中に確かな感触がない。


「――っ?」


 軽い。

 異常なほどに軽い。


 マシロは小柄だ。元々体重は軽い。

 だが、これはそういう次元の話ではなかった。


 生物としての「中身」が詰まっている重さではない。

 まるで骨も、内臓も、血液も、すべてがどこかへ蒸発してしまったかのような。

 そこに残っているのは薄い皮一枚と空気だけのような。

 中身のない、空っぽのうつわ。


 風船の空気が抜けていくような頼りない軽さ。

 今にも私の腕をすり抜けて、空気中に霧散してしまいそうな恐怖を伴う軽さ。


「な、なんだよこれ⋯⋯」


 背筋に冷たいものが走った。

 今まで感じたことのない種類の恐怖が心臓を鷲掴みにする。


 マシロは人間ではない。猫獣人だ。

 その生態は謎に包まれている。

 だからこそ、何が起きてもおかしくはないと思っていた。


 だが、これは。

 この「消失感」は生物として致命的ではないのか?


「マシロ! おい、マシロ! 聞こえるか! マシロ! 返事をしろ!」


 私は必死に呼びかけた。

 頬を軽く叩く。反応がない。


 長い睫毛はピクリとも動かず、ただ苦しげな喘鳴(ぜんめい)だけが静まり返った玄関に響く。

 尻尾はだらりと垂れ下がり、先ほどまであんなに元気に動いていた生命力を微塵も感じさせない。


「う、ぅ⋯⋯」

 微かにマシロの唇が動いた。


「⋯⋯たな⋯⋯で⋯⋯」


 言葉にもならない、空気の漏れるような音。

 それが最期の呼びかけに聞こえてしまった私は、なりふり構わず彼女を抱きしめた。


「しっかりしろ! 今、病院に⋯⋯いや、病院なんて行けるか⋯⋯!?」


 混乱する頭の中で理性が警告を発する。

 マシロを普通の病院に連れて行っていいのか?


 獣医? 小児科?


 レントゲンを撮られて骨格が人間と違うことになっても直せるのか?

 血液検査で未知のDNAが検出されたら?

 彼女は実験動物として隔離されるかもしれない。


 だが、このままでは。

 このままマシロが消えてしまったら。


 腕の中の軽さが私の決断を責め立てる。


 チーズインハンバーグ。

 旗を立てる約束。

 ついさっきまでの笑顔。


 それが砂の城のように崩れ落ちていく。


「誰か⋯⋯くそっ、誰に頼ればいい!?」


 私は高熱を発するマシロの体を壊れ物を扱うように抱きしめることしかできなかった。

 その体は刻一刻と物理的な存在感を失っていくように感じられた。


 まるで彼女が元いた場所――音楽の精霊か何かが住む、あちら側の世界へ強制的に連れ戻されようとしているかのように。


 玄関の明かりがチカチカと不吉に明滅した気がした。

 私の腕の中でマシロの意識は深い、深い闇の底へと沈んでいった。

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