第4話:私の「魔法」
マシロとの共同生活が始まってはや三日。
私は一つの深刻な問題に直面していた。
「⋯⋯あのな、マシロ」
「んぅ?」
「トイレくらい、一人で行かせてくれないか」
私がため息混じりに言うと、太ももにしがみついていた白い毛玉――マシロは、いやいやと首を横に振った。
彼女の猫耳はぺたんと伏せられ、オッドアイが潤んでいる。
「いや⋯⋯いっちゃいや」
「行かないよ。すぐ戻る」
「うぅ⋯⋯たなで、いなくなっちゃう⋯⋯」
その必死な声音に胸が痛む。
マシロは極度の「寂しがり屋」だった。いや、正確には「捨てられることへの恐怖」が骨の髄まで染み付いているように思えた。
私が少しでも視界から消えると彼女は不安からパニックを起こしそうになる。
昨日なんて私がゴミ出しに行った数分の間に、玄関のドアを爪でガリガリと引っ掻きながら泣き叫んでいた。
「はぁ⋯⋯わかった。ドアは開けとくから。な?」
「⋯⋯タナデ、みる?」
「見ないよ! 耳をふさいで後ろを向いてなさい」
結局、私はドアを半開きにしたまま用を足す羽目になった。
隙間からジッーとこちらを監視している青と金の瞳に見守られながら。⋯⋯プライバシーなんてあったもんじゃない。
* * *
マシロが落ち着いた頃を見計らって、私はリビングの奥にある重厚なドアを開けた。
防音室――かつて私が「天才」と呼ばれていた頃の戦場であり、今はただの埃っぽい物置になりかけている場所だ。
「⋯⋯タナデ、ここ、なに?」
背中に隠れながらマシロがおっかなびっくりついてくる。
窓のない密閉された空間、吸音材に囲まれた壁――そして中央に鎮座する黒いグランドピアノ。
マシロは巨大な黒いピアノを怪物か何かだと思ったのか、私の服の裾をギュッと握りしめた。
「私の⋯⋯まあ、遊び場みたいなもんだ」
私はピアノの前の椅子に腰を下ろした。
鍵盤蓋を開ける。並んだ白と黒の鍵盤が薄暗い部屋の中で鈍く光る。
半年ぶりくらいだろうか。スランプに陥ってからはここに来るのが怖かった。何も生み出せない自分を突きつけられる気がして。
でも今はマシロがいる。
彼女に何か聴かせてやるくらいなら気楽に弾ける気がした。
「マシロ、大きな音がするけど、怖くないからな」
「⋯⋯おと?」
私は深呼吸をして適当な和音を鳴らした。
ジャーン、と豊潤な響きが狭い室内に満ちる。
「――っ!」
マシロはビクッと肩を跳ねさせたが逃げることはなかった。
それどころか目を丸くして空気中を漂う残響を目で追うような仕草を見せた。
まるで、音の粒が見えているかのように。
「⋯⋯きらきら⋯⋯」
「ん? どうした」
「たなで、すごい。⋯⋯まほう、だ」
マシロは夢見るような声で呟いた。
魔法、か。
今の私の手垢のついたコード進行が魔法に見えるなら子供の感性というのは偉大だ。
私は苦笑しつつ、指を滑らせた。
かつて作りかけて完成させられなかったバラード。
憂いを帯びた旋律が、静寂を優しく塗り替えていく。
マシロが動いた。
彼女はトコトコとピアノに近づくと椅子の横を通り抜け――ピアノの下へ潜り込んだ。
響板の真下――音が最も大きく、振動として伝わってくる場所だ。
そこで彼女は膝を抱え、じっと耳を澄ませている。
(⋯⋯変なやつ)
心地よい振動が床から伝わってくるのだろうか。
私は少し気分が良くなって、即興のアレンジを加え始めた。
感情のままに、テンポを揺らす。
言葉にできない鬱屈や、マシロと出会った時の雨の冷たさ、そして彼女の体温の温かさ。それらを音に乗せていく。
その時だった。
「⋯⋯ん〜、⋯⋯んん〜♪」
ピアノの音に混じって、別の「音」が聞こえた。
最初は気のせいかと思った。
だけどその音は私の指の動きにピタリと寄り添い、確かな輪郭を持って響いてきた。
ハミングだ。ピアノの下にいるマシロが曲に合わせて歌っている。
私は演奏を止めることなく続けたが我が耳を疑った。
今、私は即興でメロディを変えたはずだ。楽譜なんてない誰も知らない旋律、そもそもマシロが音楽を知っているはずがない。
なのに彼女は一瞬の遅れもなく、完璧に私のメロディをなぞっている。
(――嘘だろ?)
音程のズレが、全くない。
それどころか私が鍵盤に込めた強弱、ビブラートの揺らぎ、息継ぎの間まで、恐ろしいほどの精度で再現している。
これはただの模倣じゃない。
私の感情を彼女の声が増幅させているのだ。
私は試すように転調した。
わざと不協和音スレスレの、難解なジャズコードを叩きつける。
「⋯⋯んー⋯⋯♪」
マシロの声は、それさえも飲み込んだ。
不協和音を解決する美しいトップノートを、彼女が無意識に選び取って歌ったのだ。
ガアンッ!
私は思わず、鍵盤を叩きつけて立ち上がっていた――音が止む。
「⋯⋯? たなで?」
ピアノの下から、マシロがひょっこりと顔を出した。
不思議そうな顔。
なぜ止めるの、と不満そうなオッドアイ。
私は震える手で自分の口元を覆った。背筋がゾクゾクと粟立っている。
これは「可愛い生き物」なんて言葉で済ましていい存在じゃない。
絶対音感? いや、それ以上の何かだ。
音が「視えて」いるかのような感性。そして、それをアウトプットできる喉。
「⋯⋯マシロ」
「ん!」
「お前、歌⋯⋯歌えるのか?」
マシロはきょとんとして、それから無邪気に笑った。
「わかんない! でも、たなでのまほう、きれい! もっと!」
彼女は私の足に擦り寄り、続きをねだった。
私は呆然と、この小さな白い毛玉を見下ろした。
雨の日の路地裏で拾ったのは、ただの捨て猫じゃなかった。
私はとんでもない「原石」を――あるいは、私を焼き尽くすかもしれない「才能」を、家に招き入れてしまったのかもしれない。




