第39話:伝わる体温、光の海
世界から音が消えたようだった。
ほんの数十秒前までホールを震わせていた一千人の咆哮。
それが嘘のように完全な静寂が場を支配している。
そのあまりの落差にガラスケースの中のマシロは、きゅっと身を縮めていた。
⋯⋯おこられる?
彼女の小さな頭の中で不安がよぎる。
自分が怖がって隠れてしまったから。
みんな、怒って黙り込んでしまったのかもしれない。
嫌われてしまったかもしれない。
けれど恐る恐る上げた視線の先にあったのは、怒りでも失望でもなかった。
「⋯⋯あ」
マシロの口から小さな吐息が漏れる。
そこには光の海があった。
薄暗い中で揺れる、無数の白い光。
観客たちが手に持っているペンライトだ。
音もなく、ただゆらゆらと優しく揺れている。
まるで冬の夜に降る粉雪のように。あるいは物語で読んでもらった天の川のように。
誰も声を上げない。
ただ、その光だけがマシロに向けて静かに捧げられている。
怖い色じゃない。
あたたかい色だ。
マシロの猫の目がその光景を捉え、瞳孔がゆっくりと丸く戻っていく。
ソファの陰から一歩踏み出す。
誰も動かない。
誰も大声を出さない。
ただ、じっとマシロを見つめ、聖母を見るような穏やかな笑みを浮かべている。
ステージ袖で見守っていたプロデューサーの一ノ瀬奏は、その光景を見て鳥肌が立つのを感じていた。
「⋯⋯なんだ、これは」
異常だ。
そして、美しい。
一千人のオタクたちが示し合わせたように呼吸を整え、微動だにせず、ただ「存在」だけで推しを肯定している。
統率された軍隊よりも静かで、どんな宗教儀式よりも厳かだった。
奏は緊急停止ボタンにかけていた指を、ゆっくりと離した。
この空間に悪意は一ミリグラムも存在しない。
あるのは質量を持った「慈愛」だけ。
* * *
マシロは、トコトコと歩みを進めた。
白いワンピースの裾が揺れる。
首元の鈴が、チリンと鳴る。
その微かな音さえも聞こえそうなほどの静寂の中、彼女はついにステージ中央の分厚いガラス壁の前まで辿り着いた。
目の前にはたくさんの人。
一番前の列にいる強面の男の人(猫耳つき)が、くしゃくしゃの笑顔で泣いていた。
その隣のお兄さんも、後ろの女の人も、みんな泣きそうな、でも幸せそうな顔をしている。
(ここに、いるんだ)
画面の向こうの数字じゃない。
文字だけのコメントじゃない。
生きた人間が、こんなにたくさん。
私のために。
マシロは、ゆっくりと右手を上げた。
小さな手のひらを目の前の透明な壁――防弾ガラスに、ぺたりと押し付ける。
その瞬間だった。
最前列のファンたちが一斉に動いた。
彼らとガラスケースの間には五メートルほどの距離がある。さらに頑丈なセキュリティフェンスもある。
物理的に触れることなど不可能だ。
だが、彼らは吸い寄せられるように手を伸ばした。
マシロの手がある位置に合わせて、遠く離れた場所から虚空に手のひらを重ねる。
一人だけではない。
最前列の数十人が、そしてその後ろの列の人々も、まるで教祖の奇跡に触れようとする信徒のように、虚空へ向かって手を伸ばしたのだ。
傍から見れば、それはシュールきわまりない光景だった。
巨大なガラスの箱に入った幼女。
その遥か手前で空気に向かって「ハイタッチ」の姿勢を取る一千人の大人たち。
滑稽かもしれない。
狂気じみているかもしれない。
だがその空間には間違いなく「回路」が繋がった瞬間があった。
(あったかい⋯⋯)
マシロはガラス越しに伝わるはずのない体温を感じていた。
ひんやりとした無機質なガラス。
けれどその向こう側にある無数の手のひらから目に見えない何かが流れ込んでくる。
それは、奏がいつも頭を撫でてくれる時の温かさに抱きしめてくれた時の匂いに似ていた。
肯定。
守護。
感謝。
愛。
言葉にするには複雑すぎる、けれどとても純粋なプラスの感情が電気信号のようにマシロの魂へ流れ込む。
誰も触れていないのに。
ガラスという「断絶」の象徴があいだにあるのに。
心は皮膚よりも深く直接的に触れ合っていた。
――これが、ライブ。
――これが、生。
マシロの中で恐怖の残りかすが完全に消え去った。
代わりに湧き上がってきたのは、胸が震えるような昂揚感。
嬉しい。
会えて、嬉しい。
「ん⋯⋯!」
マシロの顔が自然とほころんだ。
満開の花が咲くように。
曇り空が割れて太陽が顔を出すように。
とびっきりの笑顔がガラスケースの中で輝いた。
そして――。
ぶんっ!!
スカートの後ろから隠しきれなくなった真っ白な尻尾が飛び出し、左右に激しく振られ始めた。
ぶんぶんぶんぶんっ!
その動きはまるでメトロノームの倍速再生。
嬉しい! 大好き! という感情が全身から溢れ出している。
『――ッ!!!!!』
ホール内の全員が、声にならない叫びを上げてのけ反った。
口を押さえ、胸を押さえ、その場に崩れ落ちる者もいる。
あまりの尊さに物理的な衝撃波を受けたかのようなリアクション。
それでも、誰も大声を出さない。
「今、大声を出したらマシロちゃんが驚く」という理性が、本能的な絶叫をギリギリで抑え込んでいるのだ。
その代わり、彼らが握りしめたペンライトを振る速度が倍になった。
無音の高速振動――光の海が、さざ波から荒波へと変わる。けれど音はない。
奇妙で最高に優しい、光の嵐。
マシロはスタンドマイクに近づいた。
奏が用意してくれた最高級のマイク。
彼女は爪先立ちをして小さな口を近づける。
「⋯⋯みんな」
スピーカーから流れたその声は囁くようでありながら、ホールの隅々までクリアに届いた。
観客たちが祈るように背筋を伸ばす。
「きてくれて、ありがとう」
たどたどしい日本語。
けれど、心を込めた言葉。
「マシロ、みんなのこえ、ききたい。びっくりしちゃって、ごめんね」
「マシロ⋯⋯もっと、おうた、うたいたい」
「だから⋯⋯いっしょに、いてね?」
こてん、と小首を傾げる。
その瞬間、会場のあちこちから「ぐふっ」という吐血にも似た音が聞こえた気がしたが、それは幻聴だろうか。
最前列の権田に至っては白目を剥いて天を仰ぎ、合掌していた。完全に昇天している。
マシロはもう、怖くなかった。
このガラスは私とみんなを繋ぐ、大切な窓なんだって分かったから。
「⋯⋯一曲、うたう!」
マシロが宣言すると同時に奏の指がキーボードを叩いた。
流れてきたのは彼女のデビュー曲であり、始まりの歌。
イントロが響いた瞬間、無音の光の海がリズムに合わせて大きく、力強くうねり始めた。
曲名は『ねこのあしあと』。
奏がマシロのために初めて書き下ろした、大切なデビュー曲だ。
マシロが息を吸う音がマイクを通して鮮明に聞こえる。
そして、紡がれる歌声。
『つめたい雨、ふっていた』
『小さな、箱の中⋯⋯ひとりぼっち』
その第一声が響いた瞬間、会場の空気の色が変わった。
透き通るような、それでいて芯のある高音。
以前の配信で歌った時よりも遥かに表現力が増している。
ただ音程が合っているだけではない。
路地裏で凍えていた時の孤独。寂しさ。
それを知っている者だけが出せる「切なさ」が、歌詞の一音一音に乗っていた。
『でも聞こえたの、温かい音』
『大きな手が、包んでくれた』
サビが近づきマシロの声はパッと明るさを帯びた。
『あなたが、見つけてくれた』
『もう、怖くないよ』
ガラスケースの中で彼女がくるりと回る。
白いワンピースが花のように開き、その動きに合わせて、長い尻尾がリズミカルに弧を描く。
楽しそうに。幸せそうに。
全身を使って「喜び」を表現するその姿は、まさに天使の戯れだった。
『キミがくれた、名前ー!』
『真っ白な、光の魔法♪』
『ねこのあしあと♪ ついていくよ♪』
『あなたの背中、追いかけて~』
『雨、あがりの約束~♪』
『永遠に、ひびくメロディ~♪』
かつては舌っ足らずな印象だった「永遠」の歌詞もはっきりと歌えるようになっている。奏は伴奏を弾きながら、チラリと客席を見た。
泣いている。全員が泣いているのだ。
最前列の権田など、もはや顔面が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、妖怪のような形相になっているが、その目は仏のように慈愛に満ちている。
他の観客たちも同様に、しかし誰も声は発しない。
鉄の結束でマシロを驚かせないための「静寂」を守り抜いている。
揺れるペンライトの光が滲む。
嗚咽を噛み殺すために口元を押さえ、あるいは天を仰ぎ、あるいは拝むように手を合わせている。
それはライブ会場というより、大規模な集団浄化の儀式のようだった。
(⋯⋯すごいな)
奏は改めてマシロの持つ力の凄まじさを知った。
彼女の歌には、人を無防備にさせる力がある。
心の鎧を溶かし、純粋な感情を引きずり出す魔法だ。
『ここが わたしの 帰る場所』
『ずっと ずっと いっしょだよ♪』
最後のフレーズを歌い終え、ピアノの余韻が消えていく。
マシロは肩で息をしながら、まっすぐに前を見つめ――そして、ふにゃりと破顔した。
「⋯⋯えへへ。うたえた!」
その無邪気な一言が決定打だった。
会場のあちこちで、膝から崩れ落ちる音が連鎖する。
尊さの過剰摂取で一千人の魂が今まさにガラス越しの聖域へと昇華されていく。
拍手はなかった。
代わりに会場を埋め尽くす白いペンライトが今までで一番激しく、そして優しく振られた。
音のない喝采。
光の嵐。
それはどんな大歓声よりも雄弁に「ありがとう」と叫んでいた。
「みんな、ばいばい! またね!」
マシロは名残惜しそうに何度も何度も手を振った。
そして振り返り際に意識的にか無意識か――お尻をふりふりと揺らし、尻尾で大きく「バイバイ」を描いてみせた。
瞬間――意識を保っていたファンたちが、あまりの幸福に耐えきれず静かに失神するように沈んだのだった。




