第38話:サイレント・コール
特別な朝の空気は、少しだけくすぐったい匂いがした。
「マシロ、準備はいいか?」
タナデの声にマシロは鏡の前で「うん!」と元気よく返事をした。
今日のマシロはいつもと違う。
タナデが選んでくれた真っ白なワンピース。裾にはフリルがたくさんついていて、動くたびにふわりと広がる。
胸元には淡い水色のラインが入っていて、マシロの右目と同じ色だと言ってくれた。
「似合ってるぞ。世界一⋯⋯いや、銀河一可愛い」
タナデはマシロの姿を見て満足そうに頷きながらも、どこか少し緊張しているように見えた。
いつもは冷静なタナデが今日は朝から何度も鏡をみたり、スマホを確認したりしている。
「タナデ、だいじょうぶ?」
「ああ、大丈夫だ。ただ今日は敵⋯⋯じゃなくて、お客さんが多いからな。マシロを守るためのシミュレーションを三百通りほど脳内で再生していただけだ」
「さんびゃく⋯⋯?」
よくわからないけれど、タナデはマシロのために頑張ってくれているんだと思う。
マシロはドレッサーの上に置いてあった、大切な宝物を手に取った。
小さな銀の鈴がついている深い青色のベルベットのリボン。
これはタナデがマシロに初めてくれたプレゼント。マシロがお歌を歌うための、勇気の魔法だ。
「タナデ、これつけて」
マシロがリボンを差し出すとタナデは優しい手つきでマシロの首元にそれを結んでくれた。
チリン、と小さな音が鳴る。
その音を聞くと胸の奥が温かくなる。
タナデが近くにいる音。マシロがマシロでいていい音。
「よし。完璧だ」
結び目を整えてタナデがポンとマシロの頭を撫でた。
尻尾が勝手に揺れてスカートの中で暴れそうになるのをぐっと堪える。
今日は「お外」で、たくさんの人に会う日だ。
画面の向こうにいる「りすなー」さんたち。
いつも「かわいい」とか「癒やされる」って言ってくれる人たち。
どんな顔をしているのかな。
ワンワン(くるみお姉ちゃん)みたいに元気なのかな。
それともタナデみたいに優しいのかな。
「行こうか、マシロ」
「うん! タナデ、いく!」
マシロはタナデの手をぎゅっと握った。
楽しみとほんの少しのドキドキ。
胸の中の鈴がチリンと鳴った気がした。
* * *
会場となる都内某所のイベントホール前には、異様な熱気が渦巻いていた。
俺、権田清志38歳。職業、鳶職。
強面でスキンヘッド、目つきが悪いせいでカタギに見られたことは一度もないが今の俺の頭には「白猫の耳」が装着されている。
これでも町内会の掃除ボランティアには毎回参加している善良な市民だ。
だが今日ばかりは俺の中の血が騒いでいた。
「おい、列乱すんじゃねぇぞ! マシロちゃんに迷惑かけんじゃねぇ!」
「チケット確認は早めに済ませろ! 転売ヤーがいたら即通報だ!」
周囲を見渡せば俺と同じような「歴戦の猛者」たちが自主的に警備を行っていた。
スーツ姿のサラリーマン、アニメTシャツを着た学生、そして俺のような強面のおっさん。
属性はバラバラだが目を見ればわかる。
全員が「選ばれし者」だ。
倍率数百倍とも噂された、この『マシロちゃん観察会』のプラチナチケットを勝ち取った、幸運な一千人。
俺たちは同志であり、同時にライバルであり、そして何より――マシロちゃんの平穏を守る「壁」だ。
「まさか本当に当たるなんて⋯⋯」
隣に並んでいた大学生くらいの青年が震える手でスマホの画面を見つめている。ちょっと前に話しかけ仲良くなった仲間だ。
「俺、一生分の運を使った気がします」
「おう、兄ちゃん。運を使ったんじゃない。マシロちゃんがお前を呼んだんだよ」
俺はニカっと笑って、青年の肩を叩いた。
「今日は『観察会』だ。一ノ瀬の旦那が用意した特製ガラス越しに、あのご尊顔を拝む儀式だ。粗相すんじゃねぇぞ」
「は、はい! 目に焼き付けます!」
会場に入るとそこには異様な光景が広がっていた。
薄暗いホールの中心にライトアップされた巨大な構造物が鎮座している。
まるで美術館の展示ケースか、あるいはSF映画に出てくる宇宙船のポッドのような、四角いガラスの部屋。
あれが――『聖域』か。
ステージとの距離は5メートルほど空けられており最前列には頑丈な柵。
さらに黒服の屈強なSPたちが目を光らせている。
過保護だ。あまりにも過保護だ。
だがそれがいい。
俺たちの天使を守るにはこれくらいで丁度いい。
ブーッ、というブザー音が鳴り響き、会場の照明が落ちる。
一瞬の静寂の後、ステージ上のガラスボックスにスポットライトが集中した。
『――さあ、皆様! 大変長らくお待たせいたしました!』
スピーカーから響いてきたのは聞き覚えのある元気な声。
司会のワンダ・バウがステージの横に用意された画面から飛び出してきた。
『本日の主役! 奇跡の歌姫! マシロちゃんの登場でーーす!!』
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!
一千人の咆哮がホールを揺るがした。
地鳴りのような歓声。
全員がペンライトを白一色に点灯させ、力の限りその名を叫ぶ。
「マシロちゃーーーん!!」
「うおおおお! 可愛い! 存在したんだ!!」
「天使! いや神!!」
「生マシロだあああああ!!」
ガラスケースの中にある重厚なカーテンがゆっくりと開いていく。
その瞬間、俺たちは息を呑み、そしてさらに絶叫した。
そこにいたのだ。
雪のような髪。宝石のような瞳。
ちょこんと生えた猫耳。
そして緊張したように小さな手を胸の前で握りしめている、儚い少女が。
画面越しに見ていた姿よりもずっと小さく、ずっと繊細で、そして圧倒的に――生きていた。
* * *
まぶしい。
カーテンが開いた瞬間、目の前が真っ白になった。
そして音。
ドォォォォォ⋯⋯という雷みたいな音が身体中に響く。
「ッ⋯⋯!」
怖い。
ガラスの壁があるはずなのに、音が突き抜けてくるみたいだった。
目の前にはうねるような光の海。
白い棒が波のように揺れていて、その奥には無数の「目」があった。
千個、いや、もっとたくさんの目が一斉にマシロを見ている。
大きく開かれた口。振り上げられた手。
みんな、何かを叫んでいる。
(⋯⋯がおーって、してるの?)
マシロを食べるつもりなの?
違う、と頭ではわかっている。
タナデは「みんなマシロが好きなんだ」って言ってた。
ワンワンも「歓迎してくれるよ」って言ってた。
でも本能が警報を鳴らす。
野生の動物が巨大な捕食者の群れに囲まれた時のような恐怖。
質量を持った「熱」が、ガラス越しにマシロを圧迫する。
「う⋯⋯」
足がすくんだ。
耳が勝手にペタンと伏せてしまう。
尻尾が恐怖で太く膨らんで、股の間に巻き込まれる。
笑顔で手を振らなきゃいけないのに。
「ありがとう」って言わなきゃいけないのに。
喉が張り付いて、声が出ない。
一歩、後ずさる。
マイクに向かうことができずに、マシロは部屋の隅にあるソファの陰に隠れるように身体を縮こまらせた。
タナデ、怖い。
助けて。
マシロの小さな動きに目の前の光の波がさらに激しく揺れた気がした。
音の波が、さらに大きくなる。
みんなの興奮が、マシロには攻撃のように感じられてしまう。
チリン。
首元の鈴が鳴ったけれど、その音は外の轟音にかき消されてマシロの耳にさえ届かなかった。
* * *
俺は最前列でその異変に気づいた。
周囲の連中は興奮のあまりトランス状態に入っている。
「可愛い! 隠れた! 隠れ方も可愛い!」
「こっち見てー!」
「尊すぎて死ぬ!!」
だが違う。
俺の目は誤魔化されない。鳶職として高所で一瞬の風の変化を読むのと同じ感覚だ。
マシロちゃんの耳が完全に寝ている。
瞳孔が開ききっている。
あの尻尾の巻き込み方は、甘えているんじゃない。
――怯えているんだ。
俺たちの歓声が彼女を攻撃している。
数千の視線と怒号のような愛が、あの小さな器には大きすぎるんだ。
このままじゃ、トラウマになる。
せっかく「お外」に出てきてくれたのに、俺たちが彼女をまた「路地裏」に追い返すことになる。
ふざけるな。
俺たちはファンだろ。
守るって決めたんだろ。
俺は息を大きく吸い込んだ。
腹の底に力を溜める。
現場でクレーンの誘導ミスを怒鳴りつける時以上の人生最大の大声。
「静かにしろォォォォォォッ!!!」
ドスの効いた怒声がマイクも通さずに最前列から響き渡った。
ビリビリと空気が震えるほどの音量。
近くにいた数人が驚いてビクッと身体を震わせ、口を閉ざす。
「見ろ!! 天使が怯えてるだろうがッ!!!」
俺はガラスケースを指差した。
ソファの陰でガタガタと小さく震えている白い塊。
それを見た周囲の連中が、ハッと息を呑んだ。
「あ⋯⋯」
「ほんとだ、震えてる⋯⋯」
「俺たちの声が、大きすぎたのか⋯⋯?」
波紋は一瞬で広がった。
俺の声を聞いた周囲が静まり返り、その静寂に気づいた後ろの連中が「どうした?」と黙り、さらにその後ろが黙る。
異常事態だと思ったスタッフすらも足を止めた。
そして連鎖反応的に「シーッ!」というジェスチャーが会場全体を駆け巡る。
ものの十数秒だったと思う。
先ほどまでジェットエンジンのような轟音が支配していたホールが完全な静寂に包まれた。
一千人がいるはずなのに衣擦れの音すらしない。
誰もが息を潜め、ペンライトを下ろし、ただ祈るようにステージを見つめている。
ごめんね。
怖がらせて、ごめんね。
俺たちは敵じゃないんだ。
言葉の代わりに、そんな意思が会場を満たしていく。
静寂という名の最大の敬意。
サイレント・コール。
しん、と静まり返ったホールの中。
ガラスケースの中の、小さな鈴の音が聞こえるはずもないのに聞こえた気がした。
マシロちゃんが顔を上げた。
恐る恐る、ソファの陰からこちらを覗き込む。
俺たちは動かない。
石像のように、ただ優しく微笑んで(俺の場合は強面だが)、彼女を見守る。
さあ、大丈夫だ。
ここは安全だ。
俺たちは君の声を聴きたいだけなんだ。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
マシロちゃんが立ち上がり、ガラスの前に歩み寄ってきた。
その瞳から恐怖の色が少しずつ消えていくのを俺は息を止めて見つめていた。




