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第37話:箱入り娘の決意と鉄壁の要塞

 日曜日の昼下がり、配信を終えたばかりのリビングには穏やかな時間が流れていた。


「⋯⋯んめっ! ⋯⋯んめっ!」


 私の膝に頭を乗せ、マシロが幸せそうな声を漏らしていた。

 彼女の手には細長いスティック状のパウチ、中身は高級ペースト状おやつ――通称『猫用チュール』だ。


 本来は猫用のおやつだがマシロがあまりにも興味深そうにCMを見ていたため、買ってからは猫缶と並んで大好物になっている。


 マシロはそれを小さな舌でペロペロと懸命に舐め取っている。

 ひと舐めするたびに喉の奥から「ゴロゴロゴロ⋯⋯」という重低音が響き、私の太ももに振動が伝わってくる。


「タナデ、これ、すき。んめっ」


「そうか、よかったな。まだあるからゆっくり食べろ」


 私は彼女の雪のような白髪を指で梳くように撫でた。

 さらさらとした髪の感触と温かい体温。


 右の青、左の金。宝石のようなオッドアイが、とろんと細められている。

 先ほどの『お歌配信』で同接三十万人を相手に堂々たる歌声を披露していた歌姫と同一人物とは思えないほど、今の彼女は無防備な幼女(猫)だった。


 平和だ。

 ネット上では私のことを「狂犬」だの「モンタナ先生」だのと呼ぶ声が絶えないが、私の本質はただの平和主義者である。


 マシロがこうして幸せそうにしていてくれれば、それだけでいい。

 世界平和よりもマシロの安寧。それが私、一ノ瀬奏の行動原理の全てだ。


 最後の一滴までチュールを絞り出し、名残惜しそうにパウチの端を噛んでいるマシロの口元をティッシュで拭ってやる。


「マシロ、ごちそうさまでした」


「ごちそーさまでした! タナデ、ありがと」


「うん、えらい」


 頭を撫でるとマシロは嬉しそうに目を細め、私の手に頬を擦り付けてきた。

 猫特有のマーキング行為、そのあまりの愛らしさに私のIQは著しく低下しそうになる。


 だが、その直後マシロがふと真剣な顔つきで私を見上げてきた。


「ねえ、タナデ」


「ん? どうした? おかわりか?」


「ううん。あのね⋯⋯マシロ、あいたい」


「⋯⋯誰に?」


 私は少し身構えた。

 まさか、生き別れの両親とか言い出すんじゃないだろうな。あるいは先日コラボしたワンダか?

 しかし、マシロの口から出た言葉は私の予想を遥かに超えるものだった。


「いつも、がめんのむこうに、いるひとたち」


 私は撫でていた手を止めた。


「⋯⋯リスナーのことか?」


「りすなー? うん、そう。みんな」


 マシロは小さな手を広げ、空間を指し示すような仕草をした。


「マシロのおうた、きいてくれるひと。いつも、かわいいって、いってくれるひと。マシロね、そのひとたちに、ありがとうって、いいたい」


「⋯⋯⋯⋯」


 私は言葉を失った。


 マシロが自分から「他者」に関心を示したのだ。

 出会った当初の彼女は私以外の人間を恐れていた。チャイムの音が鳴るだけでベッドの下に潜り込み、私が見えなくなっただけで震えていたこの子が⋯⋯。


 ワンダという友人ができ、そして先日の「お出かけ」で外の世界の空気に触れたことで、彼女の中の認識が変わったのだろう。


 世界は怖いだけの場所じゃない。

 自分に向けてくれる「好き」という感情に直接応えたい。

 それは表現者として、そして一人の知性ある存在として、あまりにも真っ当で尊い成長だった。


 しかし保護者としての私は即座に脳内で警報を鳴らす。


(駄目だ。危険すぎる)


 マシロを公衆の面前に晒す? 

 ありえない。


 ネット越しでさえ、これだけの熱狂を生んでいるのだ。リアルで彼女を前にしたらファンが暴徒化しない保証はない。


 握手会? 以ての外だ。

 見知らぬ他人の雑菌だらけの手でマシロに触れるなど言語道断。

 もし変質者が紛れ込んでいたらどうする? 誘拐未遂が起きたら? 


「マシロ、その気持ちはとても大切だけど⋯⋯すこし難しいな」


 私はできるだけ優しく、しかし毅然と言った。


「画面の向こうには、たしかにマシロを応援してくれる人が沢山いる。でも中には悪い人もいるかもしれない。マシロを怖がらせるようなことが起きるかもしれないんだ」


「うん⋯⋯」


 マシロは食い下がった。

 いつもなら私が「駄目」と言えば素直に引くはずの彼女が今日は真っ直ぐに私の目を見ていた。


「マシロ、お外、ちょっとこわかった。でも、たのしかった」


 先日の楽器屋への外出のことを言っているのだろう。


「タナデがいてくれたから、だいじょうぶだった。わんわんも、いる。だから⋯⋯マシロ、ありがとうって、いいたい」


 その瞳には純粋な感謝とほんの少しの勇気が宿っていた。

 自分の歌を聴いてくれる人たちへの愛。

 それを「危険だから」という理由だけで封じ込めるのは彼女の「心」の成長を止めることにならないか?


 私は葛藤した。

 安全か、成長か。

 沈黙が落ちる。マシロは不安そうに、けれど期待を捨てずに私の服の裾をぎゅっと握っている。


(⋯⋯くそっ)


 負けた。

 こんな顔をされて、「絶対に駄目だ」と突っぱねられる親がどこにいる。

 私は大きく溜息をつき、ガシガシと頭を掻いた。


「⋯⋯わかった」


「ほんと!?」


 マシロの尻尾がピンと立ち、パタパタと左右に揺れ始める。


「ただし! 条件がある」


 私は人差し指を立てて、マシロの鼻先に突きつけた。


「マシロの安全が百パーセント、いや、一万パーセント保証される形じゃないとやらない。私が考えた最強の安全対策に従うこと。いいな?」


「うん! タナデのいうこと、きく!」


 マシロは満面の笑みで飛びついてきた。

 その温かさを抱き止めながら私の脳内では既に常軌を逸したセキュリティプランの構築が始まっていた。


 * * *


 その日の夜、私は通話アプリである人物を呼び出した。


『あ、もしもし? 一ノ瀬さんですか? 夜分にどうしたんですか、珍しい』


 スピーカーから聞こえてきたのは、元気ハツラツな――しかし、どこか素の気怠さをはらんだ女性の声――Vtuber『ワンダ・バウ』の中の人、戌井くるみだ。


「急にすみません。折り入って頼みがあるんです」


『頼み? 一ノ瀬さんが私に? ⋯⋯え、まさかマシロちゃんに何かあったんですか!? 病気!? 怪我!? それとも誰かにいじめられた!? 住所特定して火を放ちに行きましょうか!?』


「落ち着いて、相変わらずの限界オタクですね。マシロは元気ですよ」


『はぁ⋯⋯よかった⋯⋯。寿命が縮みましたよ。で、用件は?』


 私は一呼吸置いて、切り出した。


「リアルイベントを開催したいと考えています」


『⋯⋯⋯⋯はい?』


 間の抜けた声が返ってくる。無理もない反応だ。


『え、ちょっと待ってください。一ノ瀬さん、以前言ってましたよね? 「マシロを危険に晒すのは許さない」って。リアルイベントなんてリスクの塊じゃないですか』


「いいました。今でもそう思っています」


「じゃあなんで⋯⋯」


「マシロが、やりたいと言ったからです」


『⋯⋯!』


 通話の向こうで息を飲む気配がした。


「ファンにありがとうを言いたいと。あの子の⋯⋯初めての我儘だから叶えてやりたい」


『うぅ⋯⋯マシロちゃん⋯⋯なんて健気な⋯⋯尊い⋯⋯』


 グスッと鼻をすする音が聞こえる。


『わかりました。協力します。いや、させてください。うちの事務所のリソース、全部使ってもいいです』


「助かります。それで場所と形式についてなんですけど」


『とりあえず大きめのホールを押さえましょうか? ライブ形式で、ステージと客席を離して⋯⋯』


「いや、駄目です。ステージと客席の距離なんて数メートルでしょう? 物が投げ込まれたらどうします。ウイルスを持った人間が最前列でくしゃみをするかもしれません」


『⋯⋯あの、一ノ瀬さん? 過保護が過ぎません?』


「そこでです。私はあるプランを考えました」


 私は手元のタブレットに描いた設計図(ラフ画)を見ながら言った。


「マシロを『箱』に入れます」


『箱?』


「厚さ五センチの防弾ガラス、ないしは強化ポリカーボネート製の特注ボックスです。サイズは六畳一間くらい。内部には独立した空調システムとマシロがリラックスできるソファやクッションを完備します。高性能マイクとスピーカーを通してのみ会話が可能!」


『⋯⋯⋯⋯』


 長い沈黙。


『えっと、それは⋯⋯動物園の展示室、みたいなイメージですか?』


「その通りです。名付けて『マシロちゃん観察会 ~ガラス越しだよ全員集合~』」


『タイトルが昭和! あとコンセプトが人権ギリギリ!』


 くるみはツッコミを入れたが、私は大真面目だった。


「これなら物理的な接触は不可能なので飛沫感染のリスクもない。防弾ガラスなら万が一スナイパーに狙われても耐えられます」


『スナイパー想定してるVtuberのイベント、聞いたことないですよ』


「どうでしょうか? そちらの事務所のコネで、この設備を用意できますか?」


 くるみは呆れたように笑った後、少し真面目な声色になった。


『⋯⋯まあ、マシロちゃんの安全を最優先にするなら、それくらい極端な方がいいのかもしれませんね。最近は変な人も多いですし。「箱入り娘」を物理的にやるわけですね』


「上手いことを言いますね」


『任せてください。一ノ瀬さんのその狂った設計図、うちのマシロちゃんファンの美術スタッフに実現させます。場所は⋯⋯都内のイベントスタジオでいいですね?』


「お願いします。費用はいくらかかっても構いません。私が全部出します」


『いえ、費用は事務所持ちでいいですよ。その代わり、当日の司会進行はワンダがやります。特等席でマシロちゃんを愛でる権利をください』


「⋯⋯分かりました。交渉成立ですね」


 こうして前代未聞のリアルイベント計画が始動した。


 * * *


 数日後。動画のコミュニティ投稿とSNSにて告知が行われた。


 【重大発表】

 いつも『shiro_cat』を応援していただきありがとうございます。

 皆様に感謝を伝えるため、初のリアルイベントを開催します。


 イベント名:『マシロちゃん観察会 ~ガラス越しだよ全員集合~』

 日時:〇月〇日 14:00~

 場所:都内某所(当選者のみに通知)

 内容:完全防備のガラスケースに入ったマシロちゃんを、外から眺めたり、手を振ったり、お話ししたりする会です。


 ※握手、接触は一切できません。

 ※撮影は指定の時間のみ可能です。

 ※当日は金属探知機および身分証による厳重な本人確認を行います。


 チケット:抽選制(限定1000名)

 応募開始:本日20:00より


 この告知が出た瞬間、インターネットは揺れた。物理的にではないが、情報量の質量で揺れた。


 『観察会wwwww』

 『握手会じゃなくて観察会なの草』

 『ガラス越しwww動物園のパンダかな?』

 『いや、マシロちゃんは実質パンダ以上の希少生物だから間違ってない』

 『一ノ瀬ママの「指一本触れさせねえぞ」という殺意を感じる』

 『防弾ガラス越しに幼女を愛でるイベントとか、字面がヤバすぎるだろ』

 『行きたい行きたい行きたい』

 『倍率エグそう』


 賛否両論⋯⋯いや、概ね「マシロちゃんなら仕方ない」「むしろその過保護さが信頼できる」という好意的な反応が大半だった。


 やはり、私の判断は間違っていなかった。


 マシロはアイドルではない。あくまで「路地裏で拾われた奇跡の存在」なのだ。

 ファンも彼女に触れたいというよりは「実在を確かめたい」「拝みたい」という宗教的な熱量を持っている者が多い。


 そして20時――チケットサイトの受付開始時刻。


 私はマシロと一緒にモニターの前でその様子を見守っていた。


「タナデ、みんな、きてくれるかな?」


 マシロは不安そうに私の袖を引っ張る。

 彼女の中では、まだ「誰も来なかったらどうしよう」という不安があるらしい。


「大丈夫だ。むしろ、来すぎて困るくらいだと思うぞ」


 私はコーヒーを啜りながらリロードボタンを押した。


 ――『503 Service Temporarily Unavailable』


 画面に表示されたのは、無慈悲なエラーメッセージだった。


「⋯⋯ん?」


 もう一度リロードする。

 繋がらない。

 SNSを確認すると阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。



 『鯖落ちたあああああああああ!』

 『入れねえ! 一歩も入れねえ!』

 『瞬殺どころか、サイト自体が消し飛んだぞ』

 『日本中のロリコン⋯⋯じゃなくて紳士淑女が殺到してんのか』

 『倍率が宝くじレベルってマジ?』

 『運営、サーバー増強しろやあああ!』



「⋯⋯ごめんマシロ。どうやらみんなマシロに会いたくて必死すぎて、入口のドアを壊してしまったようだ」


「どあ、こわしちゃったの? みんな、ちからもち?」


「ああ、ある意味な。愛という名の物理攻撃だ」


 私は苦笑いしながらタブレットを操作してサーバー管理者への連絡を急いだ。

 限定1000名、この狭き門をくぐり抜けるのは果たしてどんな猛者たちなのか。

 そして私は彼らからマシロを守り切れるのか。


 不安と期待が入り混じる中、マシロは「みんな、きてくれるんだ⋯⋯」と、嬉しそうに尻尾を揺らしていた。

 その笑顔が見られただけで、サーバーが落ちた甲斐があったというものだ。


「よし、マシロ。当日は一番可愛い服を着ていくぞ。私がコーディネートする」


「うん! タナデといっしょなら、なんでもいい!」


 こうして、マシロの初めての「お外」イベント。

 厳重警戒態勢の『観察会』へ向けて、カウントダウンが始まった。

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