第3話:名前は「マシロ」
リビングのローテーブルを挟んで、奇妙な睨み合いが続いていた。
私の目の前に座っているのはブカブカのTシャツを着た銀髪の幼女。
その頭上には白い猫耳、背後にはフサフサの尻尾。
さっきまで泥まみれだった謎の生物はお風呂上がりでふわふわの毛並みを取り戻し、今はじっと私の手元を凝視している。
正確には私の手にある「おにぎり」を。
「⋯⋯食えるか?」
私が差し出すと、幼女の喉がゴクリと鳴った。
コンビニのツナマヨおにぎり。賞味期限が迫り、三十円引きのシールが貼られた、私の晩飯になるはずだったものだ。
パリッ、とフィルムを開ける音が静寂に響く。
その瞬間、幼女の耳がピコッと反応した。
「⋯⋯?」
彼女は身を乗り出し、鼻をひくつかせた。
フンフン、フンフン。
海苔の香ばしい匂いと微かに漂うマヨネーズの香り。野生動物のような仕草で安全確認をしているらしい。
「毒なんて入ってないぞ。ほら」
私はおにぎりを割り、具がたくさん入っている方を彼女の口元へ運んだ。
幼女は一瞬だけ私を見上げ、オッドアイを不安げに揺らした。
けれど空腹は限界なのだろう。
彼女は意を決したように小さな口を大きく開け――パクリ、と齧り付いた。
モグ、モグ、モグ⋯⋯。
咀嚼音が続く。私は固唾を呑んで見守った。
人間の食べ物が口に合うのかどうかも分からない。もし吐き出したらどうしようかと考えていた、その時だ。
カッ!
幼女の目が全開に見開かれ右の青と左の金が、宝石のようにキラキラと輝き出す。
「⋯⋯んっ! ⋯⋯んめ!」
「お、美味しいのか?」
「んめ! こりぇ、んめぇ!」
幼女は感極まったように独特な声を上げると私の手から残りのおにぎりを奪い取った。
そこからは早かった。
まるでリスが木の実を詰め込むような勢いで夢中で頬張っていく。
Tシャツの裾から伸びた尻尾が、嬉しさを隠しきれずにブンブンと左右に振られている。その風圧がこっちまで来そうだ。
(⋯⋯よっぽど腹減ってたんだな)
あっという間に完食してしまった彼女は、名残惜しそうに自分の指についた米粒まで舐め取っている。
その姿を見ていると胸の奥がじんわりと温かくなった。
誰かが自分のあげたものを食べて笑顔になる。そんな当たり前のことが今の私には酷く懐かしくて、尊いものに思えた。
「⋯⋯なあ」
私は空になったコンビニ袋を片付けながら、問いかけた。
「お前、名前は?」
幼女が顔を上げる。
キョトンとして、小首を傾げる。
「⋯⋯な、まえ?」
「ああ。なんて呼べばいい? 名前ないのか?」
彼女はしばらく考え込むように視線を彷徨わせたが、やがて小さく首を横に振った。
分からないのか、それとも最初からないのか。
どちらにせよ、呼び名がないのは不便だ。
「んー⋯⋯」
私は彼女をじっと観察した。
雪のような髪。
透き通るような肌。
そして、白く輝く耳と尻尾。
この汚れた世界には似つかわしくないほど彼女は真っ白だった。
「⋯⋯マシロ」
ふと、その言葉が口をついて出た。
単純すぎるかもしれない。でも、それ以外の言葉が浮かばなかった。
「お前は今日から『マシロ』だ。どうだ?」
「⋯⋯ま、しろ⋯⋯」
幼女は私の唇の動きを真似て、ぽつりと呟いた。
マシロ。マシロ。
彼女は何度か繰り返し、その響きを確かめるように頷く。
そして、パァッと花が咲くような笑顔を見せた。
「ましろ! にゃあ!」
「お、気に入ったか」
「ん! ましろ!」
彼女――マシロは立ち上がり、嬉しそうに私の膝に手を置いた。
喉からは先ほどよりも大きく「ゴロゴロ⋯⋯」という重低音が響いている。どうやら、この音は彼女なりの「喜びのサイン」らしい。
と、マシロがふと気づいたように私を指差した。
「⋯⋯なまえ?」
言葉はおかしいが意味は伝わる。「お前の名前は何だ」と聞いているのだろう。
「私か? 私は一ノ瀬奏」
「いち⋯⋯の⋯⋯?」
「長いか。⋯⋯カナデでいい」
「⋯⋯た⋯⋯なで?」
マシロが眉を寄せて、一生懸命発音しようとする。
「違う、カ、ナ、デ」
「た、な、で!」
「カ」
「た!」
ダメだ。どうやってもマシロは「タ」になってしまうらしい。
舌足らずな声で必死に「タナデ! タナデ!」と連呼する姿を見ていると、訂正する気力が急速に失せていく。
というか、可愛い。
破壊力がすごすぎる。
「⋯⋯はぁ。もういいよ、タナデで」
「ん! タナデ!」
マシロは満足そうに頷き、私のTシャツの裾をギュッと握った。
その信頼しきった瞳に見つめられ、私は観念したように息を吐く。
まあ、悪くない。
「元天才作曲家」なんて肩書きよりも今の私には「タナデ」の方がしっくりくる気がした。
「それにしても、お前⋯⋯」
私は苦笑して、手を伸ばした。
至近距離で見上げるマシロの顔。
その愛らしい口の端に、黒い何かが張り付いている。
「海苔くっついてるぞ」
「あう?」
おにぎりの海苔の欠片だ。
まるで泥棒猫のようなマヌケな顔になっている。
私は親指でそっと海苔を拭い取ってやった。
「ふふっ⋯⋯ほんと、手がかかるな」
自然と笑みがこぼれた。
そういえば、こんな風に笑ったのはいつぶりだろう
私の静かで灰色だった部屋は、この小さな「マシロ」という光によって、少しずつ色づき始めていた。




