第24話:狂犬モンタナの交渉術
リビングに漂う、張り詰めた空気。
私は膝の上で震えるマシロの背中を規則的なリズムで叩き続けた。大丈夫という無言の合図を送りながらも、テーブルの上に置かれた分厚い「契約書」の束を左手でパラパラと無造作にめくる。
「阿久津さん。⋯⋯いくつか、確認してもよろしいですか?」
私の問いかけに阿久津は「どうぞ、何なりと」と余裕たっぷりの返答とともに笑みを浮かべた。隣の弁護士も眼鏡の奥で「素人に何がわかる」と言いたげな、蔑むような光を宿している。
私は契約書の十五ページ目あたりを指先で弾いた。
「まず、この『収益分配』の項目。マージン率、これ本気で仰っていますか? 事務所七、演者三。しかもここから経費を差し引く? 今の時代、個人勢が投げ銭の七割以上を手にできるプラットフォームで、わざわざあなた方に七割も上納するメリットがどこにあると? 国立競技場? ドーム? そんな不確かな将来の約束で、今の実益をドブに捨てるほど私は馬鹿じゃない」
阿久津の眉がピクリと動く。
「⋯⋯一ノ瀬さん、それはあくまで『初期投資』の回収期間の話でして――」
「次。二十八ページの『著作権および肖像権の帰属』について。マシロの名前、外見、歌声、そして配信のアーカイブすべてを事務所に譲渡する? これを飲んだら万が一退所することになった時、マシロは自分の名前すら名乗れなくなる。これ実質的な奴隷契約ですよね」
「奴隷だなんて人聞きの悪い。それはタレントのブランドを守るための、業界では一般的な管理体制ですよ」
弁護士が横から口を挟むが、その声には法的な正当性を盾にした傲慢さが滲んでいた。
私はそれを一笑にふせる。
「『一般的』? 笑わせないでください。それは知識のない子供を騙す時の常套句でしょう。⋯⋯五年前、スターライト・プロがプロデュースしたアイドルグループ『ルミナス』の解散訴訟、忘れていませんよね。あの時、未払い報酬と不当な権利拘束で敗訴した時の判決文、読み返してみては? あの時とこの契約書の文言、ほとんど変わってないでしょう」
その瞬間、阿久津と弁護士の顔色が変わった。
二人の間に初めての動揺が走る。まさか、一人の「元」作曲家ごときが自分たちの暗部である過去の判例まで即座に引き合いに出してくるとは思っていなかったのだろう。
「なぜ、貴女がそれを⋯⋯」
「あなたが言ったはずですよ、かつての天才作曲家だって。あなた達の事務所の幹部が接待の席でどれだけ下劣な話をしていたか、私の耳が覚えています。⋯⋯それから阿久津さん。あなた、数年前は第三制作部のチーフだった方じゃないですか? 新人声優へのパワハラ疑惑で左遷されたって噂、業界じゃ結構有名ですよ」
「な、なにをバカな⋯⋯」
私はあえてマシロを抱き上げたまま、スッと立ち上がった。
冷たい視線で座っている二人を見下ろす。
「この契約書はゴミです。マシロを商品としてしか見ていないのが一文字一文字から滲み出てる。⋯⋯マシロは私の家族です。私の、かけがえのないパートナー。それを金を生む機械扱いするような連中に、彼女の未来を預けるわけがないでしょ」
「一ノ瀬さん、言葉が過ぎますよ!」
阿久津が、これまでの余裕をかなぐり捨てて立ち上がった。顔を真っ赤に染めて指を差してくる。
「貴女の勝手な感情で、この子の輝かしい未来を潰す気か! 猫獣人なんていう正体不明の存在を、このまま野放しにしておけると思っているのか? 公的機関が動けば貴女だってタダじゃ済まないんだぞ!」
「それは脅しのつもりですか? 面白い。やってみればいい」
私は一歩も引かずに言い返した。
マシロが私の腕の中で、びくびくと耳を動かしている。その恐怖を怒りに変えて私はドスの効いた声で畳み掛けた。
「公的機関? どうぞ通報して下さい。その代わり、この会話の録音データとあなた達が強引に部屋に上がり込んできた証拠映像、そしてこの不当な契約書を全部、今のマシロのチャンネルで全世界に公開しますね。⋯⋯同接二十五万人の視聴者が、スターライト・プロの『誠実な交渉』をどう見ることでしょうか」
「な⋯⋯録音だと!?」
「⋯⋯」
「当たり前でしょ。狂犬モンタナを侮らないで下さい。マシロを傷つける奴なら、たとえ巨大事務所だろうが社会的に抹殺するまで徹底的にやりますよ」
私はリビングの扉を指差した。
「二度と、うちの敷居を跨がないで下さい。次は警察を呼んで不法侵入と脅迫罪で現行犯逮捕して貰います。顧問弁護士を連れてきているなら、そのくらいの法的リスクは理解できていますよね?」
阿久津は口をパクパクと金魚のように開閉させた。
隣の弁護士は既に勝ち目がないと悟ったのか、無言で書類を鞄に詰め込み始めている。
「⋯⋯後悔しますよ、一ノ瀬さん。我々を敵に回して、この業界で生きていけると思わないことだ」
「業界? そんな狭い世界の話をしてるのは、あなた達だけですよ。私たちは世界と繋がってる。⋯⋯さあ、早く消えて下さい」
「し、失礼する! その言葉⋯⋯後になってから取り消せませんよ!」
阿久津は捨て台詞を吐き捨てて、逃げるように部屋を飛び出していった。
バタン! と玄関のドアが閉まる音が静かなリビングに響き渡る。
――私は大きく溜息をつき、肩の力を抜いた。
こちらをただの小娘だと侮っていたおかげで何とかなった。奴らが家にやって来る間『スターライト・プロモーション』について検索をかけて情報を集めた。そして過去の記憶と照らし合わせ、憶測を交えて虚勢を張ったが功を奏したようだ。
⋯⋯窓の外を見れば、あの黒塗りの車がゆっくりと走り去っていくのが見えた。
彼らはこんなことでは諦めないだろう。そしてマシロの存在が有名になればなるほど、こういった「お外の大人たち」の悪意は、より巧妙な形で忍び寄ってくる。
(マシロを守り抜く。⋯⋯そのためにはなりふり構っていられない)
私はマシロの白い髪を撫でながら、改めて決意を固めた。




