第23話:スーツの大人と怯える子猫
鳴り止まないインターホンの音――それはこの家の平穏を脅かし強引にこじ開けようとする、無慈悲な警告音のようだった。
私は裾をぎゅっと掴んで震えるマシロの体温を感じながら奥歯を噛み締めた。
「⋯⋯マシロ、大丈夫だ。私がついている」
努めて冷静な声でそう告げた。
かつて「一ノ瀬奏」として業界の荒波に揉まれていた頃の冷徹なプロとしての仮面を被る。マシロに私の不安を悟らせてはいけない。
私はマシロを一度寝室へ誘導しようとしたが、彼女は私の側を頑なに離れようとはしなかった。大きな瞳には涙が溜まり、猫耳はこれ以上ないほどぺたりと伏せられている。
「タナデ⋯⋯いかないで。いっちゃ、だめ⋯⋯」
「行かない。ただお話をするだけ。⋯⋯怖かったら、ずっと私の後ろに隠れてろ」
マシロは小さくコクンと頷き、私の背中にぴったりと張り付いた。
私は覚悟を決め、玄関のロックを解除した。
* * *
玄関には二人の男が立っていた。
一人は先程、電話をしてきた阿久津と名乗る男だろう。仕立てのいい、だがどこか成金趣味な光沢のあるスーツを着た細身の男だ。顔には貼り付いたような笑みが浮かんでいるが、その目は笑っていない。
もう一人は対照的に無表情で分厚い眼鏡をかけたガッシリとした体格の男。脇には黒いブリーフケースを抱えている。こちらが「顧問弁護士」というわけだ。
「やあ、一ノ瀬さん改めてご挨拶を。スターライト・プロモーションの阿久津です。⋯⋯ほう、やはり実在したのですね」
阿久津の視線が、私の背後から恐る恐る覗くマシロへと注がれる。
その瞬間、彼の瞳に宿ったのは純粋な感嘆などではなく、もっと卑俗で、ギラついた「強欲」だった。
「素晴らしい⋯⋯。CGでもコスプレでもない本物の『猫耳』。そしてこの、庇護欲をそそる完璧な造形。噂以上の⋯⋯いえ、期待を遥かに超える『素材』だ」
素材――その言葉を聞いた瞬間、私の背筋を冷たい怒りが駆け抜けた。
彼らにとってマシロは一人の少女ではなく、ただの「珍しい商品」に過ぎないのだということが、その一言に凝縮されていた。
「⋯⋯立ち話も何ですから。中へどうぞ」
私は彼らをリビングへ通した。
本来なら一歩も入れたくはなかったが、ここで門前払いをしたところで彼らは次の一手を打ってくるだけだ。大手企業の汚さは嫌というほど知っている。ならば、ここで奴らの出方を見極めるのが最善。
ソファに座った阿久津は部屋を見渡しながら、値踏みするように鼻を鳴らした。
「一ノ瀬奏さん。貴女のような才能ある方が、こんな――失礼、質素なマンションで燻っているのは、実に忍びない。かつての『天才作曲家』の隠れ家としては、あまりに夢がありません」
「私の生活について、あなたに評価される筋合いはありません。本題に入ってください」
私はマシロを膝の上に抱き上げた。
マシロは「知らない匂い」に怯えきっていた。阿久津たちから漂う高級な香水と、紙と、インクと⋯⋯何より彼らが纏う「打算」という名のどろりとした気配。それがマシロの鋭い嗅覚を刺激しているのだろう。
彼女は尻尾を足の間にきつく挟み、私の胸に顔を埋めてブルブルと震えている。喉からは、威嚇にもならない、消え入りそうな小さな「うう、うう⋯⋯」という唸り声が漏れていた。
「マシロ、大丈夫だ。安心しろ」
私はマシロの背中を優しく撫で、男たちを冷たく見据えた。
「では、単刀直入に」
阿久津が合図を送ると隣の弁護士がブリーフケースから一束の書類を取り出した。
テーブルの上に置かれたのは、辞書のように分厚い、重厚な装丁のファイルだ。
「マシロさんの専属マネジメント契約書です。我々スターライト・プロは、彼女を『次世代の世界的アイコン』として売り出す準備を整えています」
「世界的アイコン?」
「ええ。この容姿、そしてあの歌声。これをネットの、たかが同接数十万程度の枠に閉じ込めておくのは宝の持ち腐れだ。我々の資本を投入すれば来年には世界ツアー、再来年には国立競技場でのライブだって夢じゃない。もちろん、それに伴うマシロさんの――『猫獣人』としての法的な保護、そして世論のコントロールも、弊社が完璧に行います」
阿久津は身を乗り出し、言葉を畳み掛ける。
「今の貴女に何ができます? アンチを法的措置で黙らせる? ククッ、そんなのは子供の火遊びですよ。マシロさんの存在が大きくなればなるほど、国家レベルの倫理問題や、人権団体、あるいはもっと過激な連中が押し寄せてくる。個人でそれら全てを捌けると? 彼女を傷つけずに守り抜けると?」
言葉の刃が私の痛いところを正確に突いてくる。
確かにマシロの認知度が上がれば上がるほど、私の手には負えない事態が起こる可能性はある。それは、私が一番恐れていたことでもあった。
「⋯⋯それで?」
「この契約書にサインを。そうすれば、マシロさんは『スターライトの至宝』として、最強の盾と矛を得ることになります。貴女にも彼女のメインコンポーザーとして、年間数億のロイヤリティを約束しましょう。どうです? 彼女にとっても貴女にとっても、これ以上の幸福はないはずだ」
阿久津はまるで救世主のような顔をして微笑んだ。
その傍らで弁護士が無機質な声で付け加える。
「現在、マシロさんの法的な身分は極めて不安定です。最悪の場合、公的な保護、あるいは『研究対象』としての拘束という事態も考えられますが⋯⋯弊社と契約いただければ、そのあたりの書類も私共のルートで完璧に整えることが可能です。これは彼女を『守る』ための提案ですよ」
それは暗黙の脅迫だった。
「契約しなければ、彼女の身分を告発し、引き離すこともできる」と、そう言っているのだ。
私の腕の中で、マシロがビクッと大きく跳ねた。
彼女は言葉の全ての意味は分かっていないだろう。けれど目の前の男たちが自分と「タナデ」を引き離そうとする、底知れない悪意を持っていることだけは本能で察していた。
「⋯⋯マシロ⋯⋯いかない。⋯⋯タナデと、いっしょ⋯⋯」
震える声で、マシロが私の服を握りしめる。
その小さな手の力が私に冷徹な決断を促した。
私はテーブルの上の分厚い契約書に手を置いた――阿久津の目が、獲物を仕留めた確信に輝く。
「賢明な判断だ、一ノ瀬さん。貴女はやはり、我々と同じ側の人間――」
私の内側で静かに、けれど激しく燃え上がる炎がある。
それは音楽を愛していた自分を裏切られた時よりも、もっと根源的な、大切なものを踏みにじられたことへの怒り。
(マシロを「素材」と呼んだこと。彼女の不安を無視して、自分たちの都合を押し付けていること。⋯⋯そして、マシロを私から奪おうとしていること)
私はゆっくりと口を開いた。
その声は自分でも驚くほど氷のように冷たく、鋭かった。
「阿久津さん。⋯⋯いくつか、確認してもよろしいですか?」
私の問いかけに、阿久津が怪訝そうに眉を上げる。
ここからが私の、そしてネットで「狂犬」だの「モンスターペアレンツ」だのと称されるタナデの本領発揮だった。




