第22話:平和な朝と不穏な電話
ネット空間の喧騒が嘘のように部屋の中には穏やかな空気が流れていた。加湿器の微かな動作音とキッチンから漂うパンが焼ける香ばしい匂い。それが私にとっての「新しい日常」の音と香りだった。
「ん⋯⋯にゃあ⋯⋯」
ソファの方から小さく甘えるような鳴き声が聞こえる。
視線を向ければ、そこには私の古着のTシャツに身を包んだマシロが大きなあくびをしながら、もそもそと起き上がるところだった。
マシロにとってはワンピースどころかドレスのようなサイズ感で、首元からは白い鎖骨が覗き、裾からは細い足と寝起きのせいで少し毛羽立った真っ白な尻尾が突き出している。
マシロ用の女児服は買ってあるが、どうにも私の着ていたものが一番いいらしい。
「おはよう、マシロ。よく眠れたか?」
「⋯⋯タナデ。おはよ。⋯⋯おなか、しゅいた」
まだ半分夢の中にいるようなトロンとした眼差しで、マシロが私を見上げる。
左右で色の違う宝石のようなオッドアイ、あの同接二十五万人を記録した伝説のライブを経て、この瞳は世界で最も有名な瞳の一つになった。けれど私の目の前にいる彼女はただの腹ペコな四歳児(推定)だ。
「今焼けたぞ。今日はマシロの好きなハチミツたっぷりだ」
「はちみちゅ! わーい、はちみちゅ!」
「ハチミツ」という単語を聞いた瞬間、マシロの頭上の三角形の耳がピコンと跳ねた。
パタパタと小走りでテーブルに寄ってくると彼女は椅子によじ登り、行儀よく⋯⋯といっても尻尾をぶんぶんと左右に振って期待を隠しきれない様子で、皿が置かれるのを待つ。
厚切りトーストにたっぷり塗られたハチミツが熱で溶けて黄金色に輝いている。
マシロはそれを小さな手で抱えるように持つと大きな口を開けて「はむっ」とかじりついた。
「んめ⋯⋯タナデ、はちみつ、んめ!」
「美味しい、な⋯⋯ほら、喉に詰まらせるなよ。ココアも飲め」
口の周りをベタベタにしながら、至福の表情を浮かべるマシロ。
その様子を眺めながら、私は自分の分のブラックコーヒーを口に含んだ。
あの日――。
マシロが私の作った曲『ねこのあしあと』を歌い上げ、最後に「だいすき」と告げたあの日から、私を取り巻く世界は劇的に変わった。
今、私の手元には新しい五線譜がある。
次はどんな曲を彼女に歌わせようか。どんな風に彼女の「好き」を表現しようか。
スランプに喘いでいた頃が嘘のように、頭の中には次々とメロディの断片が浮かんでは消えていく。
(⋯⋯ああ、そうか。私はこの子のために音楽を作れることが、こんなにも嬉しいんだな)
かつては「売れるため」や「評価されるため」に磨いていた技術を、今はただ、目の前でハチミツまみれになっている小さな少女を笑顔にするためだけに使いたい。
それがこれほどまでに創作意欲を刺激するとは思わなかった。
マシロが夢中でトーストを平らげ、ココアを満足そうに飲み「ぷはぁ」と息を吐いたその時だった。
――ヴ、ヴ、ヴ⋯⋯。
木のテーブルの上に置いていた私のスマートフォンが、無機質な振動音を立てた。
マシロがビクッと肩を揺らし、耳を伏せる。
「⋯⋯おと。こわい?」
「大丈夫だ。ただの電話だよ」
マシロの頭を軽く撫でて安心させ画面を覗き込む。
表示されているのは登録されていない電話番号だった。
本来なら無視するところだが最近はマシロの件で法的な手続きや、機材の調整などで知らない番号からかかってくることも多い。私は警戒しながらも、通話ボタンをスライドさせた。
「はい、一ノ瀬です」
『――失礼。突然のお電話、失礼いたします。一ノ瀬奏⋯⋯いえ、今は「タナデ」様とお呼びした方がよろしいでしょうか?』
受話器から聞こえてきたのはやけに落ち着いた、そしてどこか芝居がかった男の声だった。
年齢は三十代後半から四十代といったところか。プロフェッショナル特有の丁寧だが踏み込ませない壁を感じさせるトーン。
私の眉がぴくりと動く。
私が「一ノ瀬奏」であること。そしてマシロの配信のプロデューサー「タナデ」であること。それを結びつけて電話をかけてきたということは単なる間違い電話でも、適当な営業電話でもない。
「⋯⋯どちら様ですか。この番号は一般には公開していないはずですが」
『おっと、警戒しないでください。私は『スターライト・プロモーション』でスカウト部長を務めております、阿久津と申します』
スターライト・プロ――その名を聞いて、私の奥歯に力がこもった。
日本最大手の芸能事務所の一つでアイドル、俳優、そして最近ではVtuber事業にも手を広げている、業界の巨大な「捕食者」だ。
『貴殿がプロデュースされている「マシロ」さんの配信、拝見しましたよ。素晴らしい。実に素晴らしい! あのような「奇跡」を、路地裏の個人勢として腐らせておくのは、エンターテインメント業界に対する背信行為だと思いませんか?』
「⋯⋯要件を簡潔に。私は今、朝食の最中なんです」
『直球ですね。嫌いじゃありません。――単刀直入に申し上げましょう。マシロさんを、弊社の「特待生」として迎え入れたい。彼女の才能、そしてその特殊な「容姿」⋯⋯それを活かすための最高のステージと最高の報酬を用意します。もちろん、一ノ瀬様、貴方にも専属作曲家としての椅子を――』
へらへらとした口調の裏に獲物を値踏みするような冷徹さが透けて見える。
こいつらはマシロを「一人の子供」として見ていない。ただの「金を生む珍しい商品」として見ている。そのことが吐き気がするほど伝わってきた。
「お断りします。マシロはどこにも所属させない。彼女は私の――私たちが自由に音楽を楽しむために歌っているんです。あなた達の商売道具にするつもりはありません」
『おや、もったいない。一ノ瀬様、貴方は過去の挫折で業界に失望されているのかもしれませんが、我々は合理的ですよ? 個人で守れるものには限界がある。今や彼女は時の人だ。今後、さらに過激になるファンやメディアの攻勢から、貴方一人で彼女を守り抜けるとお思いですか?』
「守りますよ。法的措置でも何でも使います」
『ククク、頼もしい。ですが、我々との協力関係があればその労力も省ける。⋯⋯まあ、電話では誠意が伝わりにくいですね。ですので――』
阿久津の声が、一段と低くなった。
『――直接お話ししましょう。今、マンションの下まで伺っております』
背筋に冷たいものが走った。
「⋯⋯なっ」
『オートロックの前です。ああ、逃げないでくださいよ? こちらは顧問弁護士も同行させております。不法侵入などという野蛮な真似はいたしません。ただ、お互いの未来のために少々「相談」をしたいだけなのですから』
通話が切れた。
私は即座に立ち上がり、窓の外を見下ろした。
普段は静かな高級マンションの入り口に、黒塗りの高級車が数台停まっているのが見えた。
その傍らには仕立てのいいスーツを着た男たちがこちらを見上げるように立っている。
「タナデ⋯⋯? どうしたの? こわいかお⋯⋯」
私の異変を察知したマシロが、不安そうにTシャツの裾をギュッと握りしめてきた。
その小さな手の震えが、私の怒りに火をつける。
(住所が割れている⋯⋯? いや、それだけじゃない。このタイミングの良さは、誰かが内部情報を流したか、徹底的に洗われたかだ)
私は一ノ瀬奏として活動していた時期がある。業界の裏側も連中の強引なやり方も知っているつもりだった。それでも、まさかこれほど早くしかもなりふり構わず直接乗り込んでくるとは。
「マシロ。⋯⋯ごめんな、少し嫌な奴らが来るかもしれない」
「いやなやつ⋯⋯? マシロ、たたかう? しゃー、する?」
マシロが健気にもシャーと威嚇のポーズをとる。その可愛らしさに一瞬だけ心が和らぐが、状況は最悪だ。
相手は巨大資本の塊。そして、マシロという「猫獣人」という存在の不透明さを突いてくる可能性がある。
もし、マシロの身元や存在そのものを盾に法的なグレーゾーンで攻められたら?
私一人の力で、彼女を奪おうとする「大人たち」を退けられるか?
だが、迷っている暇はなかった。
インターホンの呼び出し音が、静かなリビングに鳴り響く。
ピンポーン――。
その音は、ネットで戦ってきたアンチたちの嫌がらせとは比較にならない、現実的で、かつ巨大な「敵」の襲来を告げるゴングだった。
「⋯⋯大丈夫だ、マシロ。何があっても、お前は私が守る。指一本触れさせやしない」
モニター越しに映る男の、貼り付いたような笑みが、これからの嵐を予感させていた。




