第21話:ひだまりの中で
嵐が過ぎ去った後の朝は、嘘みたいに静かだった。
カーテンの隙間から穏やかな陽光が差し込んでいる。
空気中を舞う埃がキラキラと光り、部屋にはコーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。
私はマグカップを片手に少し重たい瞼をこすった。
昨夜の興奮はネットの海ではまだ続いているらしい。
スマホの通知はいまだに鳴り止まず、SNSのトレンドには『マシロちゃん』『ねこのあしあと』『タナデ』の文字が居座り続けている。
世界中が、あの小さな猫耳の少女に夢中になっている。
けれど、今のこの部屋にあるのは、そんな熱狂とは無縁の「平和」そのものだった。
「⋯⋯よく寝てるな」
私はベッドの方を振り返り、苦笑した。
ベッドのど真ん中にモフモフの毛玉――改め私の愛娘であるマシロが豪快に寝ていた。
ポーズはいわゆる「へそ天」で仰向けになり、手足を大の字に広げ、お腹を丸出しにしている。
猫としても、女の子としても、あまりに警戒心皆無な姿だ。
「⋯⋯むにゃ⋯⋯ハンバーグ⋯⋯おかわり⋯⋯」
幸せそうな寝言と共に白い尻尾がパタンとシーツを叩く。
夢の中ではもう特大ハンバーグを平らげているようだ。
昨夜は興奮してなかなか寝付けなかった彼女だが、今は電池切れのおもちゃのように泥のように眠っている。
昨日のライブで着けていたリボンは、危ないから外してサイドテーブルに置いてある。
その鈴が朝の光を受けてチロリと光った。
「お疲れ様。⋯⋯ほんとによく頑張ったな」
私は音を立てないように近づき、はだけたタオルケットを掛け直してやった。
マシロが「んぅ」と声を漏らし、無意識に私の指をギュッと握り返してくる。
その体温の温かさに、胸の奥がジンと痺れた。
これが私が守るべき日常だ。
あの日、雨の降る路地裏で拾い上げた、小さな命。
あの時は震えていた手が今はこんなにも力強く私を頼ってくれている。
「さて⋯⋯と」
私はマシロの手をそっと離し、デスクへと向かった。
余韻に浸っている暇はない。
「保護者」には、やるべき仕事が山積みだからだ。
デスクの上に広げられているのは楽譜ではない。
分厚い封筒の束と書類の山だ。
『発信者情報開示請求書』
『損害賠償請求準備書面』
『誹謗中傷ログ_保存データ.pdf』
元より減っていたアンチだが昨夜のライブ配信によって殆ど消えた。
感動的な歌声とマシロの「大好きだ」という言葉が、多くの視聴者の心を打ったからだろう。
それでもマシロが傷つく言葉を吐いた人間を、私は許すつもりはない。
「⋯⋯ふん。逃げ得は許さないからな」
私は冷めた目で書類に目を通し、ボールペンを走らせた。
かつての私は世間に対して無関心で、攻撃されても「面倒くさい」と受け流していた。
今の私には守るべき「家族」がいる。その最愛の存在を汚そうとする侵入者は、法という名の棍棒で殴り、社会的に抹殺する。それが一ノ瀬奏という人間に芽生えた新しい生きがいだった。
マシロのあどけない寝顔をちらっと見ながら、淡々と「敵」を追い詰める書類を作成する。
客観的に見れば狂気じみているかもしれないが、これが私なりの愛情表現だ。
ペンを置き、再びコーヒーを啜る。
ふと部屋を見渡した。
以前のこの部屋はモノクロだった。
機材とゴミと絶望だけが転がっていた色のない場所。
でも今はどうだ。
床にはマシロの積み木が転がり、ソファには猫じゃらしが突き刺さり、冷蔵庫には「マシロのプリン」という張り紙がある。
そして何より、ベッドの上には太陽のような白い光が眠っている。
色がついたのだ。
私の止まっていた時間は、この子が動き出させてくれた。
「⋯⋯救われたのは、私の方だったな」
独り言が静寂に溶ける。
私はマシロに「魔法」を見せてやるつもりでいた。
けれど、本当の魔法使いは彼女の方だったのかもしれない。
枯れ果てていた私の心に水をやり、音楽という喜びを思い出させてくれたのだから。
「⋯⋯たなでぇ⋯⋯」
再び寝言が聞こえ、マシロが寝返りを打った。
今度はうつ伏せになり、顔を枕に埋めている。耳がぺたんと潰れているのが愛らしい。
私は椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
カーテンを軽く開け放つと初夏の眩しい光が、部屋全体を黄金色に染め上げた。
外の世界は騒がしい。
きっとこれからもマシロの存在を巡って色々な騒動が起きるだろう。
彼女の正体を探ろうとするマスコミ、利権を狙う大人たち、あるいは単なる好奇の目。
「平穏な生活」なんて、もう望めないかもしれない。
でも、怖くはなかった。
私には取り戻した「音楽」がある。
そして何より私を愛してくれる「家族」がいる。
「⋯⋯起きるまで、もう少し寝かせておくか」
私はマシロの頭をひと撫でして、パソコンの画面を切り替えた。
ディスプレイには作りかけの新しい曲のファイルが表示されている。
昨日のライブの余韻から生まれた、アップテンポで楽しげなメロディ。
雨は上がった。
私たちの歩く道には今、あたたかな陽だまりが続いている。
私はキーボードに指を置いた。
次はどんな世界を、この子に見せてやろうか。
そんな幸福な悩みに胸を躍らせながら、私は新しい一日を始めた。




