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第2話:お風呂は戦場です

 ドサッと玄関の床にコンビニ袋を置く。

 私の城――防音室完備の2LDKマンションに帰還した瞬間、安堵よりも先に焦りが押し寄せてきた。


「と、とりあえず暖房⋯⋯!」


 抱えていた「白い毛玉」を廊下に下ろす暇もなく、リビングへ雪崩れ込む。

 部屋は散らかり放題で飲みかけのペットボトル、絡み合ったケーブル類、山積みの楽譜と足の踏み場もない惨状だが、今は気にしていられない。


 リモコンをひっつかみ、エアコンの暖房を最大出力に設定する。


「⋯⋯ぅ、⋯⋯ぶる、ぶる⋯⋯」


 腕の中の幼女が濡れた子犬のように激しく震えている。

 泥と雨水でぐしょ濡れのパーカーは冷たい鉄のように重かった、このままでは肺炎を起こしかねない。


「まずは風呂だ。悪いが剥くぞ」


 有無を言わせず浴室へ直行する。

 脱衣所でボロボロのパーカーを脱がせると私は息を呑んだ。

 あばら骨が浮くほど痩せ細った体。白磁のような肌には無数の擦り傷や泥のこびりつきがある。

 

 それでも何よりも目を引くのは――頭頂部の耳と腰のあたりから伸びる尻尾だ。


(やっぱり作り物じゃない。⋯⋯しっかりと神経が通ってる)


 尻尾が不安そうに内股に巻き付いているのを見て私は覚悟を決めた。

 これはただの迷子保護で済む話じゃない、もっと厄介な案件が絡んでいる。

 それでもこの子の震えを止められるなら、多少のリスクは背負ってやる。


「よし、入るぞ。暴れるなよ」


 浴室のドアを開け幼女を抱えて入る。

 ここまでは順調だった。

 しかしシャワーの蛇口を捻り「シャーッ」と水が出る音が響いた瞬間――戦いのゴングが鳴った。


「――ッ!! フギャアアアッ!!」


「うおっ!?」


 幼女が弾かれたように飛び上がった。

 野生動物のような悲鳴をあげ彼女は私の腕をすり抜け、浴室の隅へと逃げようとする。濡れたタイルに爪を立てるような必死の形相だ。


「ま、待て! 熱湯じゃない! ただのお湯だ!」


「シャーーッ!」


 威嚇された。

 幼女は壁際に追い詰められた猫そのもので髪を逆立てて私を睨んでいる。オッドアイが恐怖で見開かれていた。


 水が怖いのか、それとも過去に何かされたのか。

 私が一歩近づくと彼女は怯えたように身を縮め、けれど鋭い爪(人間のものより少し鋭利)を構える。


「⋯⋯参ったな」


 無理やり洗うこともできるが、これ以上怖がらせたくはない。

 私はため息をつき、シャワーヘッドを床に置いた。水圧を弱め、洗面器にお湯を溜める。


「ほら、見てろ。怖くないだろ」


 手ですくったお湯を、自分の腕にかけて見せる。

 ちゃぷ、ちゃぷ、と優しい音を立てながら私はゆっくりと膝をついて目線の高さを合わせた。


「温かいぞ。⋯⋯お前、寒いの嫌いだろ? 猫っぽいし」


 幼女の耳がピクリと動く。私は両手にお湯をすくい、そっと彼女の方へ差し出した。

 警戒心剥き出しの瞳が私の手とお湯を交互に見る。やがて寒さに耐えきれなくなったのか、彼女はおずおずと指先をお湯に触れさせた。


「⋯⋯ん」


「ほらな? 大丈夫だろ」


 抵抗が弱まった隙に私はガーゼにお湯を含ませ、泥だらけの頬を優しく拭った。

 温かさが伝わったのか、強張っていた小さな肩から力が抜けていく。

 それを合図に私は少しずつ、本当に少しずつ、彼女の体にかけ湯をしていった。


 シャンプーを泡立てる。柑橘系の香りが浴室に広がる。

 モコモコの泡を頭に乗せると幼女は「あう?」と不思議そうな声を上げた。


 指の腹を使って頭皮をマッサージするように洗う。

 特に猫耳の付け根あたりを慎重に撫でると――


「⋯⋯んぅ、⋯⋯ごろ、ごろ⋯⋯」


 私の手が止まる。浴室の反響音に混じって低いモーターのような音が聞こえた。

 幼女が目を細め、私に頭を押し付けている。

 喉が勝手に鳴っているのだ。気持ちいいと全身で訴えている。


「⋯⋯ふふっ、なんだよ現金なやつだな」


 思わず口元が緩んでしまった。


 さっきまで私を敵だと思って威嚇していたくせに今は無防備に身を委ねている。

 その温かさと重みが私の指先を通して伝わってくる。


 泥水が洗い流され、排水溝に吸い込まれていく。それと一緒に私の中に溜まっていた澱のような鬱屈も、少しだけ薄れていく気がした。



       * * *



 戦いは第二ラウンドへ移行した。

 場所は脱衣所、そして敵はドライヤー。


「ほら、じっとしてろ。乾かさないと風邪引くぞ」


「⋯⋯ぅぅ⋯⋯」


 ドライヤーのスイッチを入れた途端、幼女はビクッとして耳をぺたんと伏せた。大きな音が苦手らしい。


 私は風量を「弱」にして、できるだけ音を立てないように風を当てる。


 温風が濡れた髪を解きほぐしていく。

 その過程は、まるで魔法のようだった。


 こびりついていた泥汚れが落ち、濡れて灰色に見えていた髪が乾いていくにつれ、驚くべき変化が現れた。


 それは雪だった。

 あるいは発光する真珠。


 一本一本が光を透かすような混じりけのない純白の髪。そして、それに呼応するように頭上の耳も、お尻の尻尾も、ふわふわとした真っ白な毛並みを取り戻していく。


「⋯⋯すごいな」


 ボサボサだった髪がサラサラと指の間をすり抜ける。

 天使の輪なんて陳腐な言葉では表現できない。薄暗い脱衣所の中で彼女だけが発光しているような錯覚を覚える。


 あらかた乾いたところで私はドライヤーを止め静寂を取り戻す。

 鏡の前でバスタオルにくるまった幼女が私を見上げていた。


 顔にかかっていた髪をそっと耳にかける。

 露わになったその顔立ちに私は完全に言葉を失った。


 長い睫毛に縁取られた、大きな瞳。

 右は、深海のような蒼。

 左は、夜空の月のような金。

 オッドアイの輝きが純白の髪と肌に映えて、この世のものとは思えない色彩を放っていた。


 芸術だと思った。

 私が今まで追い求めてきたどんな旋律よりも、目の前の彼女の存在の方が圧倒的に美しかった。


「⋯⋯綺麗」


 無意識に声が出ていた。

 私の呟きに幼女はキョトンとして小首を傾げる。


「⋯⋯き、れい?」


 拙い言葉で、オウム返しにする。

 その仕草があまりにも無垢で、破壊的なまでに愛らしくて。

 ズキュン、と胸の奥で何かが撃ち抜かれる音がした。


「あー⋯⋯うん。綺麗だよ。すごいな、お前」


 照れ隠しにガシガシと優しく頭を撫でると彼女は嬉しそうに目を細め、また喉をゴロゴロと鳴らし始めた。

 その振動が手のひらに伝わる。

 

(⋯⋯やばい)


 私は心の中で顔を覆った。

 これはちょっと、想像以上に可愛い生き物を拾ってしまったかもしれない。


「⋯⋯とりあえず、服だ」


 私は自分へのダメージをごまかすように立ち上がり、棚から自分のTシャツを引っ張り出した。

 当然、彼女には大きすぎる。


 着せてみると膝まで隠れるワンピースのようになった。袖も長すぎて手が完全に隠れている。いわゆる「萌え袖」というやつだ。

 幼女は袖の先をぶんぶんと振り回し不思議そうに自分の格好を見ている。


「よし、飯にするか」


 これ以上見ていると庇護欲かなにかでおかしくなりそうだ。

 私は彼女をひょいと抱き上げた。

 お風呂上がりで温まった体からは、私のシャンプーと同じ匂いがした。


「ツナマヨ、食えるか?」


「つま、まよ?」


「ツナマヨだ。⋯⋯まあ、食べてみりゃわかるさ」


 私は彼女を抱えたまま、リビングへと戻った。

 雨音はもう、気にならなくなっていた。

 私の腕の中には、世界で一番温かい「音」があったから。

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