第19話:ハプニングと告白
最後の和音が防音室の吸音壁に吸い込まれて消えていく。
私はピアノのペダルから足を離し、深く、長く息を吐いた。
終わった。
いや、成し遂げた。
私の背中は冷や汗でびっしょりだった。
かつてコンクールの会場で演奏した時よりも数倍は緊張していたかもしれない。自分の失敗なら幾らでもリカバリーできるが、マシロの失敗は彼女の小さな心に傷を残すことになるからだ。
でもそれは杞憂だった。
モニターを見る。
コメント欄は文字の激流と化している。
『8888』『泣いた』『神曲』『アンコール』『最高だった』
スーパーチャットの嵐が止まらない。画面が虹色に発光し続けている。
同接数はピーク時で二十五万人を記録していた。
(⋯⋯大成功だ)
私は震える指先を膝の上で握りしめ、隣のマシロを見た。
彼女は高いスツールの上で肩で息をしている。
白いワンピースが小さく上下し、額には玉のような汗が浮かんでいた。
全力を出し切ったのだ。あの小さな体のどこに、これほどのエネルギーがあったのかと思うほどに。
顔を上げたマシロと目が合った。
右の青と左の金――宝石のような瞳が照明の光を受けて潤んでいる。
彼女はモニターの数字やコメントなんて見ていなかった。
最初から最後まで、私だけを見ていた。
その顔が、ふにゃりと崩れる。
安堵と、達成感と、そして溢れんばかりの喜びが混ざり合った最高の笑顔。
「⋯⋯たなでぇ⋯⋯!」
甘い声が漏れた。
私は「よくやったな」と声をかけようとして――言葉を失った。
マシロが動いた。
台本にはない動きだ。
本来なら、ここで「ありがとうございました、マシロでした!」と手を振って、スマートに配信を切る予定だった。がしかし興奮状態にある彼女に、そんな段取りは関係なかったらしい。
ダンッ!
マシロが勢いよくスツールから飛び降りる。
子供にしては結構な高さがある椅子だ。私は反射的に腰を浮かせマシロをキャッチしようとする。
「おい、危な――」
言いかけた言葉は、物理的な衝撃によって遮られた。
着地したマシロが、そのまま弾丸のように私へ突っ込んできたのだ。
ドスッ。
柔らかくて温かい衝撃。
ピアノの椅子に座っていた私の胸に、マシロが全力で飛び込んできた。
慌てて彼女を受け止めるが勢いで椅子がガタッと揺れ、私の手が大きく空を舞った。
その一連の動作にマイクスタンドが揺れ動き、バランスを崩す――ガシャーンッ!!
金属音が防音室に響き渡る音、数十万円の高級マイクが無残にも床へ倒れ込んだ。
ゴトゴト、というノイズが配信に乗る。きっとリスナーの耳が破壊されているに違いない。
本来なら放送事故、顔面蒼白になる場面、それでも今の私には、そんな高い機材のことなんてどうでもよかった。
腕の中にある温もりが、震えていたからだ。
「⋯⋯たなでっ、たなでぇ⋯⋯!」
マシロは私のシャツを小さな両手でギュッと握りしめ、顔を胸板に埋めていた。
「⋯⋯マシロ?」
私が問いかけると彼女は顔を上げることなく叫んだ。
倒れたマイクが床に転がりながらも、その声を鮮明に拾い上げた。
「タナデ! だいすき!!」
防音室の空気が一瞬止まった気がした。
何の飾り気もない、純度100%の感情。
「歌えて楽しかった」でも「褒めてくれてありがとう」でもない。
ただ私という存在への全肯定の愛。
彼女は泣いていた。
悲しいからじゃない。嬉しくて安心したからだ。
首元のリボンの鈴がチリンチリンと鳴っている。
私の与えたお守りを彼女はずっと信じてくれていたのだ。
「タナデといっしょ、しあわせ! マシロ、タナデがいちばんすき!」
涙声で、しゃくりあげながら彼女は必死に伝えてくる。
その言葉が私の心の奥底にある、冷たく固まっていた「孤独」という最後の氷塊を、跡形もなく溶かしていった。
かつて、私は音楽に裏切られたと思っていた。
人間なんて信用できないと殻に閉じこもっていた。
でも、違ったんだ。
私が世界を拒絶していただけだった。
こんなにも近くに、私を必要としてくれる温もりが落ちていたのに。
そしてそれは、本当はずっと前から存在していたんだ。
(⋯⋯ああ、そうか)
私は悟った。
この瞬間、私の人生における「最高傑作」は、さっきの曲じゃない。
今、私の腕の中にいる、この「家族」との絆こそが、私が生涯をかけて守るべき作品なんだと。
コメント欄がどうなっているか、想像もつかない。
マイクが壊れて雑音が流れているかもしれない。
でも、私はカメラの前であることを忘れて、マシロの背中に腕を回した。
華奢な背中。ふわふわの尻尾。
雪のような髪を、優しく撫でる。
マシロが「んぅ⋯⋯」と喉を鳴らし、さらに強くしがみついてくる。
私は自分でも驚くほど自然に微笑んでいた。
作り笑いじゃない。心からの穏やかな笑みだ。
「⋯⋯私もだよ」
倒れたマイクに向かって、ではなく。
腕の中の少女の耳元に、囁くように。
「私も、大好きだ。マシロ」
それは私の初めての「本音」だった。
プロデューサーとしてでも保護者としてでもない。
一ノ瀬奏という一人の人間としての愛の告白。
マシロが顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、でも世界一幸せそうに、へにゃりと笑った。
「えへへ⋯⋯タナデ、わらった」
「うるさい。泣き虫にゃんこ」
「タナデも、なきむし」
私は親指で彼女の頬を伝う涙を拭ってやった。
カメラには私の背中と私を見上げるマシロの幸福な表情、そして倒れたマイクスタンドというカオスな光景が映し出されているはずだ。
もう、十分だろう。
これ以上のエンディングはない。
私はマシロを抱きしめたまま、片手でキーボードの操作パネルに手を伸ばした。
フェードアウトのボタンを押す。
画面が、ゆっくりと暗転していく。
視界が黒く染まる最後の瞬間まで、マシロのリボンの鈴の音と私たちの体温が重なる気配は、確かに世界中へと届いていた。
* * *
配信終了の表示が出ても、私はしばらく動けなかった。
マシロも私の胸から離れようとしない。
静かになった防音室で、二人の呼吸音だけが重なる。
「⋯⋯終わったな」
「ん! おわった!」
マシロを抱き下ろすとその瞳は、やりきった満足感に輝いている。
「マシロ、マイク倒したの覚えてるか?」
「⋯⋯あ!」
マシロがバツが悪そうに視線を泳がせ、床に転がるノイマンのマイクを見た。
数十万円の鉄塊が、哀れな姿で転がっている。
「⋯⋯ごめんなさい」
「いや、いい。⋯⋯いい音、録れたからな」
私は苦笑してマイクを拾い上げた。
メッシュ部分が少し凹んでいるが、まあ修理に出せばなんとかなるだろう。
それよりも、あの瞬間の彼女の「だいすき」という叫び声。
あれは、どんな高価な機材でも演出できない、最高のライブ音源だった。
「さて、マシロ」
「ん?」
「お祝いしよう。今度、何が食べたい?」
私が尋ねるとマシロは即答した。
いつものツナマヨ? それとも高級猫缶?
予想を裏切り、彼女はニシシと悪戯っぽく笑った。
「タナデのつくった、ハンバーグ!」
「⋯⋯手作りか。面倒くさいな」
「えー! タナデのハンバーグ、大好きだもん!」
尻尾をブンブン振ってねだる姿に、私は降参して両手を上げた。
まあ、今日の功労者のお願いだ。断れるはずがない。
「わかったよ。明日は特大のを作ってやる」
「やったー! タナデすき!」
マシロがまた抱きついてくる。
私はその小さな頭を撫でながら、ふとモニターの向こう側を想像した。
今頃、ネットの海は大荒れだろうな。
「大好き」発言に「私もだよ」の返し。
まあ、なんだっていい。
私たちはこれからもっと騒がしくて、温かい日々を送っていくのだから。
私はマシロの手を引いて防音室を出た。
扉の向こうには日常が待っている。
だけど、それはもう灰色の孤独な日常ではない。
「ねこのあしあと」がついた、鮮やかな色に満ちた明日への入り口だった。




