第18話:開幕、そして歌
それは、インターネットの歴史において、後に「聖夜」と呼ばれることになる夜の始まりだった。
動画配信サイトNikoTube。
チャンネル名『shiro_cat』の待機画面には、配信開始五分前にも関わらず、既に異様な熱気が渦巻いていた。
同時接続者数、20万人突破。
新人、しかも個人勢の配信としては、バグとしか思えない数字だ。
コメント欄は国境という概念を喪失していた。
日本語、英語、韓国語、中国語、スペイン語、ロシア語――あらゆる言語が滝のように流れ落ち、解読不能なほどの速度で加速している。
『Wait wait wait(待て待て待て)』
『Is this the legendary cat girl?(これが伝説の猫娘か?)』
『待機』
『正座した』
『History in the making(歴史的瞬間)』
『モンタナ先生の新作が聴けると聞いて』
『マシロちゃん! マシロちゃん!』
『My heart is ready(心の準備はできている)』
誰もが固唾を呑んで見守る中、画面のカウントダウンがゼロになった。
暗転していた画面が、フェードインで明るくなる。
映し出されたのは、温かな暖色系の照明に包まれた防音室。
画面の左側には黒いグランドピアノ。そこに座る、黒いシャツを着た女性――通称「タナデ」の背中。
そして画面の中央、高いスツールにちょこんと座っている、雪のような少女。
マシロだ。
今日の彼女は、いつものブカブカパーカーではない。
真っ白なワンピース。袖口にはレースがあしらわれ、彼女の純白の髪と溶け合うようだ。
そして何より視聴者の目を引いたのは、その細い首元に巻かれた深い夜空色のベルベットリボンだった。
銀色の小さな鈴が、彼女が動くたびにキラリと光る。
『うわああああああああ』
『天使降臨』
『衣装チェンジ!?』
『リボン破壊力高すぎ』
『New Outfit is SO CUTE(新衣装、めっちゃ可愛い!)』
『首輪⋯⋯だと⋯⋯?(ゴクリ)』
『タナデの趣味全開で草』
『画質良すぎ、肌の質感がやっぱCGじゃないよな』
視聴者たちがその姿に驚愕し、絶叫する暇も与えず。
静寂を破り、ピアノの音が鳴った。
ポロン⋯⋯。
一音。
ただの一音が、騒乱のコメント欄を一瞬で鎮まらせた。
奏の指が鍵盤の上を滑る。
イントロは、まるで雨音のようだった。
冷たいアスファルトを叩く、無機質で、寂しい雨。
都会のノイズ。誰にも見つけてもらえない孤独。
そんな情景が、音だけで鮮烈に脳裏に浮かぶ。
『鳥肌立った』
『ピアノうっま⋯⋯』
『世界観の作り込みがガチ』
『泣きそう』
『モンタナ先生パネェ』
切ない短調の旋律。
そこに小さな息を吸い込む音が重なる。
高性能マイクが拾った、マシロのブレス。
緊張に震えながらも、覚悟を決めた少女の呼吸。
彼女が、口を開いた。
「つめたい、あめ⋯⋯ふってた⋯⋯」
歌声が、世界に放たれた。
それは、技術的に洗練されたプロの歌手のような声ではない。
幼さの残る、あどけない声。
しかし、その音色には不思議な力が宿っていた。
「1/fゆらぎ」と呼ばれる癒やしの成分と、聴く者の鼓膜ではなく心臓を直接震わせるような、無垢な響き。
マシロは目を閉じ、小さな両手で胸元のリボンをギュッと握りしめていた。
奏からもらったお守りを確かめるように。
「だれも、いない⋯⋯くらい、せかい⋯⋯」
「でも、きこえたの⋯⋯あたたかい、おと⋯⋯」
AメロからBメロへ。
ピアノの伴奏が、冷たい雨音から、次第に熱を帯びていく。
誰かが傘を差し出してくれたような。
凍えた体を抱きしめてくれたような、優しい和音への変化。
マシロが目を開けた。
カメラを見据える、右の蒼と、左の金。
その瞳は潤んでいるが、もう怯えの色はない。
『目が合った』
『吸い込まれる』
『歌詞が⋯⋯これ、マシロちゃんの実話か?』
『エモすぎて無理』
『浄化される⋯⋯』
そして、曲はサビへと向かう。
奏がマシロの方を一瞬向き、力強く頷くのが画面の端に見えた。
マシロの猫耳がピクリと反応し、ピンと立つ。
さあ、ここからが魔法の時間だ。
「キミがくれた、なまえ――!!」
突き抜けるようなハイトーン。
前回の配信での失敗を払拭する、完璧な発声だった。
「ねこの、あしあと⋯⋯ついていくよ⋯⋯」
「あめ、あがりのやくそく⋯⋯♪」
「えいえんに、ひびく、メロディ⋯⋯♪」
特訓した「永遠」という言葉。
少しだけ舌足らずだが、それが逆に「一生懸命さ」を際立たせ、聴く者の胸を締め付ける。
マシロの体全体がリズムに乗って動き出す。
頭の上の白い猫耳がピアノのビートに合わせてピコピコと揺れる。
スツールから垂れた長い尻尾が、メトロノームのように左右にパタパタと振られる。
その動きのあまりの自然さ、愛らしさに、コメント欄のスクロール速度が限界を超えた。
『耳! 耳!』
『尻尾の動きとリズムがリンクしてる』
『CGじゃない、これは生きてる』
『可愛すぎて心停止した』
『Lyrics are beautiful...(美しい歌詞だ)』
『スパチャ投げさせもらいます』
『¥50,000』
『$100』
画面がスーパーチャットの虹色で埋め尽くされていく。
しかし、マシロはそれに気づかない。
彼女の世界には今、奏のピアノと自分の歌しかないからだ。
二番に入る。
曲調が少し軽快になる。
雨が上がり、陽だまりの中を二人が歩いていくような展開。
マシロの表情が和らぎ、ふにゃりと笑った。
歌うことが楽しくて仕方がない、という笑顔。
その瞬間、彼女の喉から歌声に混じって、あの音が漏れた。
「⋯⋯んぅ〜⋯⋯(ゴロゴロ)⋯⋯♪」
重低音の振動音。
マイクがその「ゴロゴロ」という猫特有の喜びのサインを拾い、歌のハーモニーの一部としてスピーカーに乗せた。
『入った! ゴロゴロ音!』
『神アレンジか!?』
『これぞマシロちゃんの真骨頂』
『ASMR助かる』
『ヘッドホン推奨、脳が溶けるぞ』
『あぁ~~浄化されるんじゃぁ~~』
奏のピアノもそれに呼応して遊ぶように跳ねる。
ジャズのアドリブのような、お洒落なフレーズ。
二人の音が絡み合い、じゃれ合い、高め合っていく。
それは作曲家と歌手という関係を超えた魂の共鳴だった。
孤独だった女と捨てられた猫。
欠けたピース同士がぴったりとハマり、一つの絵画を完成させる。
「ずっと、そばにいてね⋯⋯タナデ⋯⋯」
歌詞にはない、最後のアドリブ。
マシロがカメラではなく、隣のピアノへ向かって呟いた。
その声は、あまりにも甘く、切実で。
奏の肩が、一瞬だけビクッと震えたのが見えた。
照れ隠しのように鍵盤が強く叩かれ壮大なエンディングへと雪崩れ込む。
ジャン、ジャーン⋯⋯。
最後の和音が、長い余韻を残して消えていく。
マシロは肩で息をしながら、上気した顔でカメラを見つめた。
額にはうっすらと汗が滲み、リボンの鈴がチリンと鳴った。
世界中が、その余韻に浸っているかのような静寂。
数秒の後。
『888888888888(パチパチパチ)』
『Bravo!!!!!!』
『泣いた』
『うぉおおおおおお!!!』
『最高だった』
『神回』
『ありがとう』
『伝説を見た』
大量の弾幕が、画面を覆い尽くした。




