第15話:歌詞に込めた想い
膝の上にある小さな重みとゴロゴロという温かい振動。
それが私の心に張り付いていた分厚い氷を、あっけないほど簡単に溶かしてしまった。
(⋯⋯なんだ、そうか)
私は大きな勘違いをしていたのだ。
「売れる曲」を作らなきゃいけない。「元天才」の名に恥じない傑作じゃなきゃいけない。
そんな顔も見えない誰かの評価ばかりをまだ気にしていた。
「バカだな私は⋯⋯」
違うだろう。私の音楽を「魔法」だと言ってくれたのは、この子だ。
私が捨てたクシャクシャの譜面を「宝物」だと言って拾い集めてくれたのはマシロだけだ。
「⋯⋯誰かのためじゃない。真実、この子の音楽を書けばいいんだ」
簡単なことだった。
かつて私が初めて曲を作った時の衝動は何だった?
誰かを笑顔にしたい、褒められたい、でもそれを超えた溢れ出る音楽への「好き」の気持ち。
ただそれだけの純粋な想い、それを私は「プロ」として曲を生み出す過程で、いつの間にかすり減らしてしまっていた。
ウケるとかウケないとか、消費されるだとかされないだとか。そんなことはどうでもいい。
私のためでもなく、ファンのためでもない。
ただマシロという奇跡の体現者を音楽で表現できればいい。それが私の作曲家としてのスタートラインだった。
その想いこそがもっとも重要だとマシロのおかげで気づけた。結局、私は自分を貫くと口では言いつつも、他人の評価を気にせずにはいられなかったらしい。
マシロの背中を一定のリズムでトントンと叩く。
次第に彼女の呼吸が深く、ゆっくりになっていく。
安心しきった寝息。私の体温を信じ切っている無防備な姿。
「⋯⋯ありがとう、マシロ。私の宝物」
私は眠りに落ちた彼女を壊れ物を扱うようにそっと抱き上げた。
寝室へ運び、ベッドに寝かせる。
布団を肩までかけ、乱れた雪色の髪を指で梳いた。
月の光を吸い込んだような綺麗な寝顔。
私は自然と身を屈め、その小さなおでこに唇を寄せた。
「おやすみ天使様。⋯⋯お陰様でもう一度、やり直せそうだ」
柔らかくて、ミルクのような甘い匂いがした。
その温もりを唇に残したまま、私は静かに寝室を出た。
* * *
防音室に戻った私は、まるで憑き物が落ちたような気分だった。
もう、白い五線譜は怖くない。
ゴミ箱に捨てた失敗作未満のメモたちも、今の私には必要な「助走」だったと思える。
私はピアノの前に座り、目を閉じた。
思い出すのは、あの日の光景。
冷たい雨の匂い。
路地裏の湿った空気。
震えていた小さなダンボール箱。
――そして差し伸べた手と繋がった温もり。
『マシロ⋯⋯お前は今日からマシロだ』
名前をつけて自分で繰り返したあとの、あの輝くような笑顔。
指が勝手に動いた。
メロディが泉のように湧き出てくる。
計算も、理論も、トレンドもいらない。
ただ、あの日の情景を音になぞるだけでいい。
「⋯⋯歌詞は、マシロの視点で」
ペンを走らせる。
言葉が次々とメロディに乗っていく。
冷たい雨が降っていたこと。
世界は灰色で、怖かったこと。
でも、大きな手が私を見つけてくれたこと。
ツナマヨおにぎりの味。
初めてもらった「名前」という宝物。
それは世界一優しくて、少しだけ切ない子猫の物語。
譜面が黒く埋まっていく。
迷いは一切なかった。
かつての「天才」と呼ばれた頃の私ですら、これほどの集中力を発揮したことはなかったかもしれない。
ゾーンに入っていた。きっとマシロへの愛おしさが、私の才能の全てを引き出し、限界を超えさせていたと思う。
* * *
気づけば窓の外が白み始めていた。
防音室のドアを開けると朝の青い光が差し込んでくる。
「⋯⋯できた」
私は完成したばかりの楽譜と、デモ音源が入ったデータを手に取った。
徹夜したはずなのに疲労感はない。むしろ体中にエネルギーが満ち溢れている。
タイトルは、もう決めてある。
飾り気のない、でも、これしかないという名前。
『ねこのあしあと』
これはマシロが私と出会い、私の隣を歩き始めた「最初の一歩」の曲だ。
私はモニターに映る完成品を見て、小さくガッツポーズをした。
間違いなく私の最高傑作だ。
グラミー賞なんかよりもずっと価値のある、たった一人の「私の歌姫」のための曲が、ここに誕生した。




