表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/16

第1話:世界なんて滅びればいい


 世界なんて、今すぐ滅びればいい。

 本気でそう思っていた。


 六月の冷たい雨が、アスファルトを容赦なく叩いている。

 安物のビニール傘に当たる雨音は、壊れたドラムマシンのように不規則で、耳障りだった。


 私は傘の柄を握り直し、大きなため息を一つ吐く。


「⋯⋯寒」


 一ノ瀬(かなで)、二十六歳。

 職業、無職――いや、正確には「作曲家」を名乗っているが、ここ二年ほどまともな曲は書けていない。


 かつては「十年に一人の逸材」「天才高校生クリエイター」なんて持て囃されたこともあった。だが、今の私はただの「過去の人」だ。


 搾りカスになるまで才能を吸い尽くされ、スランプに陥った途端、潮が引くように周囲から人が消えた。


 右手に提げたコンビニ袋が歩くたびにカサカサと鳴る。

 中身は、度数の高い缶チューハイが二本と、値引きシールの貼られたツナマヨおにぎり。

 ビタミンも希望も足りない、底辺の晩餐。それが今の私にお似合いだ。


 大通りの信号が青に変わる。

 楽しげに笑う学生の集団や、相合傘のカップルが視界に入った瞬間、吐き気がした。


 光が、眩しすぎる。


 私は逃げるようにして街灯の少ない路地裏へと足を踏み入れた。

 ビルの隙間を吹き抜ける風が濡れた頬を刺す。室外機の回る重低音と遠くで聞こえるサイレン。


 ここは世間から弾き出された場所の匂いがする。私と同じだ。


「⋯⋯ん?」


 ゴミ集積所の陰に、ふやけたダンボール箱が放置されていた。

 本来なら気にも留めないけれど、その箱が微かに揺れた気がした。


 ――捨て猫か。


 よくある話だ。無責任な人間に飼われ、無責任に捨てられる。

 可哀想だとは思うが今の私には自分の生活すら先行き不安定、見なかったことにしよう。そう決めて、足を速めた時だった。


「⋯⋯ぅ、⋯⋯ぁ⋯⋯」


 声が聞こえた。

 猫の鳴き声じゃない。もっと弱々しくて、細い、何かが擦れるような音。

 それは音楽を捨てた私の耳に鋭い棘のように引っかかった。


「⋯⋯チッ」


 舌打ちをして足を止めた。

 戻るな。関わるな。頭の中で理性が警告する。

 それでも私の足は吸い寄せられるようにダンボール箱の前へと戻っていた。


 雨に濡れたダンボールは触れると簡単に崩れそうだった。

 私は傘を肩に挟み、恐る恐る箱のフタを開ける。


「――は?」


 思考が、真っ白になった。

 中にいたのは猫ではなかった。


 泥だらけのボロ布――いや、サイズの合わないパーカーに包まった小さな子供だった。

 年齢は三歳か、四歳くらいだろうか。肌は陶器のように白く、雪のような銀髪が泥水で汚れている。


 そして何よりも異様だったのは。

 その白髪の頭にピクリと動く三角形の「猫の耳」が生えていたことだ。


「⋯⋯コスプレ? いや⋯⋯」


 精巧すぎる。それにパーカーの裾から覗くふさふさとした白い尻尾は、寒さに反応して毛が逆立っていた。


 幻覚かと思った。酒を飲む前から酔っ払ったのかと。ついに頭がおかしくなったかと。けれど、その幼女がゆっくりと顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。


 右目が透き通るようなサファイアブルー。

 左目が溶けた黄金のようなゴールド。

 神秘的なオッドアイが、虚ろに私を見上げていた。


「⋯⋯ぁ、⋯⋯」


 幼女の唇が微かに震え、小さな白い息が漏れた。


 限界だった――こんな冷たい雨の中で、どれくらい耐えていたのか。体は小刻みに痙攣し、瞳の焦点も合いきっていない。


 このまま放っておけばこの子は確実に死ぬ。今夜中に、静かに、誰にも知られずに。


「⋯⋯クソッ」


 私は持っていた傘を放り出した。

 コンビニ袋を地面に置き、雨に打たれるのも構わずにしゃがみ込む。


「おい、生きてるか。聞こえるか」


 声をかけながら躊躇いがちに手を伸ばす。

 触れたら壊れてしまいそうなほど小さくて儚い存在。

 私の指先が幼女の頬に触れようとした、その時だった。


 ガシッ。


「え⋯⋯」


 幼女が、私の手を掴んだ。

 小さな両手で私の人差し指と中指を、万力のような力で握りしめる。

 氷のように冷たい手。けれどその奥には燃えるような「生への渇望」があった。


「⋯⋯ま、⋯⋯ま⋯⋯」


 幼女は私の指を頼りに、必死に身を起こそうとする。

 そして、バランスを崩しながら――私の胸に飛び込んできた。


「うわっ、ちょっ⋯⋯!」


 ドスン、と小さな衝撃。

 濡れたパーカー越しに幼女の心音が伝わってくる。トクトクトクと速くて弱いリズム。

 彼女は私のジャケットを小さな指で鷲掴みにし、顔を私の腹部に埋めた。


「⋯⋯んぅ⋯⋯」


 逃がさない。絶対に離さない。

 そんな意志を感じるほど、しがみつく力は強かった。


 私の体温が伝わったのか幼女の喉から「ゴロゴロ⋯⋯」という、猫特有の音が漏れ始める。

 それは私の空っぽだった心臓のあたりを、奇妙な熱で満たしていくようだった。


(⋯⋯あぁ、もう)


 私は天を仰いだ。

 雨は相変わらず降り続いている。世界は冷たくて、不条理で、クソみたいだ。

 でも⋯⋯。


「⋯⋯温かいのが、こんな人間の懐しかなくて残念だったな。運の悪いやつめ」


 私は観念して震える小さな背中に腕を回した。

 持ち上げると驚くほど軽い。命の重さだなんて陳腐な言葉じゃ足りないくらい、脆い重み。


 地面に置いたコンビニ袋を拾い上げる。

 ツナマヨおにぎりが一つ。これじゃあ二人分には足りないだろう。


「帰るぞ。⋯⋯しっかり掴まってろ」


 私は誰に言うでもなく呟き、来た道を引き返した。

 傘はもう、拾わなかった。

 腕の中の温もりを逃がさないように、私は雨の中を走り出した。


 これが、私とマシロの――世界を変える出会いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ