第1話:世界なんて滅びればいい
世界なんて、今すぐ滅びればいい。
本気でそう思っていた。
六月の冷たい雨が、アスファルトを容赦なく叩いている。
安物のビニール傘に当たる雨音は、壊れたドラムマシンのように不規則で、耳障りだった。
私は傘の柄を握り直し、大きなため息を一つ吐く。
「⋯⋯寒」
一ノ瀬奏、二十六歳。
職業、無職――いや、正確には「作曲家」を名乗っているが、ここ二年ほどまともな曲は書けていない。
かつては「十年に一人の逸材」「天才高校生クリエイター」なんて持て囃されたこともあった。だが、今の私はただの「過去の人」だ。
搾りカスになるまで才能を吸い尽くされ、スランプに陥った途端、潮が引くように周囲から人が消えた。
右手に提げたコンビニ袋が歩くたびにカサカサと鳴る。
中身は、度数の高い缶チューハイが二本と、値引きシールの貼られたツナマヨおにぎり。
ビタミンも希望も足りない、底辺の晩餐。それが今の私にお似合いだ。
大通りの信号が青に変わる。
楽しげに笑う学生の集団や、相合傘のカップルが視界に入った瞬間、吐き気がした。
光が、眩しすぎる。
私は逃げるようにして街灯の少ない路地裏へと足を踏み入れた。
ビルの隙間を吹き抜ける風が濡れた頬を刺す。室外機の回る重低音と遠くで聞こえるサイレン。
ここは世間から弾き出された場所の匂いがする。私と同じだ。
「⋯⋯ん?」
ゴミ集積所の陰に、ふやけたダンボール箱が放置されていた。
本来なら気にも留めないけれど、その箱が微かに揺れた気がした。
――捨て猫か。
よくある話だ。無責任な人間に飼われ、無責任に捨てられる。
可哀想だとは思うが今の私には自分の生活すら先行き不安定、見なかったことにしよう。そう決めて、足を速めた時だった。
「⋯⋯ぅ、⋯⋯ぁ⋯⋯」
声が聞こえた。
猫の鳴き声じゃない。もっと弱々しくて、細い、何かが擦れるような音。
それは音楽を捨てた私の耳に鋭い棘のように引っかかった。
「⋯⋯チッ」
舌打ちをして足を止めた。
戻るな。関わるな。頭の中で理性が警告する。
それでも私の足は吸い寄せられるようにダンボール箱の前へと戻っていた。
雨に濡れたダンボールは触れると簡単に崩れそうだった。
私は傘を肩に挟み、恐る恐る箱のフタを開ける。
「――は?」
思考が、真っ白になった。
中にいたのは猫ではなかった。
泥だらけのボロ布――いや、サイズの合わないパーカーに包まった小さな子供だった。
年齢は三歳か、四歳くらいだろうか。肌は陶器のように白く、雪のような銀髪が泥水で汚れている。
そして何よりも異様だったのは。
その白髪の頭にピクリと動く三角形の「猫の耳」が生えていたことだ。
「⋯⋯コスプレ? いや⋯⋯」
精巧すぎる。それにパーカーの裾から覗くふさふさとした白い尻尾は、寒さに反応して毛が逆立っていた。
幻覚かと思った。酒を飲む前から酔っ払ったのかと。ついに頭がおかしくなったかと。けれど、その幼女がゆっくりと顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。
右目が透き通るようなサファイアブルー。
左目が溶けた黄金のようなゴールド。
神秘的なオッドアイが、虚ろに私を見上げていた。
「⋯⋯ぁ、⋯⋯」
幼女の唇が微かに震え、小さな白い息が漏れた。
限界だった――こんな冷たい雨の中で、どれくらい耐えていたのか。体は小刻みに痙攣し、瞳の焦点も合いきっていない。
このまま放っておけばこの子は確実に死ぬ。今夜中に、静かに、誰にも知られずに。
「⋯⋯クソッ」
私は持っていた傘を放り出した。
コンビニ袋を地面に置き、雨に打たれるのも構わずにしゃがみ込む。
「おい、生きてるか。聞こえるか」
声をかけながら躊躇いがちに手を伸ばす。
触れたら壊れてしまいそうなほど小さくて儚い存在。
私の指先が幼女の頬に触れようとした、その時だった。
ガシッ。
「え⋯⋯」
幼女が、私の手を掴んだ。
小さな両手で私の人差し指と中指を、万力のような力で握りしめる。
氷のように冷たい手。けれどその奥には燃えるような「生への渇望」があった。
「⋯⋯ま、⋯⋯ま⋯⋯」
幼女は私の指を頼りに、必死に身を起こそうとする。
そして、バランスを崩しながら――私の胸に飛び込んできた。
「うわっ、ちょっ⋯⋯!」
ドスン、と小さな衝撃。
濡れたパーカー越しに幼女の心音が伝わってくる。トクトクトクと速くて弱いリズム。
彼女は私のジャケットを小さな指で鷲掴みにし、顔を私の腹部に埋めた。
「⋯⋯んぅ⋯⋯」
逃がさない。絶対に離さない。
そんな意志を感じるほど、しがみつく力は強かった。
私の体温が伝わったのか幼女の喉から「ゴロゴロ⋯⋯」という、猫特有の音が漏れ始める。
それは私の空っぽだった心臓のあたりを、奇妙な熱で満たしていくようだった。
(⋯⋯あぁ、もう)
私は天を仰いだ。
雨は相変わらず降り続いている。世界は冷たくて、不条理で、クソみたいだ。
でも⋯⋯。
「⋯⋯温かいのが、こんな人間の懐しかなくて残念だったな。運の悪いやつめ」
私は観念して震える小さな背中に腕を回した。
持ち上げると驚くほど軽い。命の重さだなんて陳腐な言葉じゃ足りないくらい、脆い重み。
地面に置いたコンビニ袋を拾い上げる。
ツナマヨおにぎりが一つ。これじゃあ二人分には足りないだろう。
「帰るぞ。⋯⋯しっかり掴まってろ」
私は誰に言うでもなく呟き、来た道を引き返した。
傘はもう、拾わなかった。
腕の中の温もりを逃がさないように、私は雨の中を走り出した。
これが、私とマシロの――世界を変える出会いだった。




