第五話 月鬼の面影
みつが回復したのは、事件から三日後のことだった。
日常が戻ると同時に、磨徒は家中のすべてのあやかしを集め、みつに対して無礼を働いた者には処罰を与えると厳重に注意を促した。
あやかしに嫁いだ人間は、これまでひどい扱いを受けてきた。
嫁いだその日から離れに幽閉され、外に出ることは許されない。
夫となるあやかしにも人間に対する差別意識が根付いており、ほとんどの頭領は顔をあわせることなく生活していた。
ただ、子を成すという一点のみ、通過せねばならなかった。
人間側からの使者に表向き「円満である」と示すためにも、子が必要だ。そこにはひとかけらの情もなかった。
そういった経緯もあり、嵬族の歴代頭領は、馴染みのあるあやかしの女を側室として迎えてきた。
世継ぎに正室の子を選ぶか、側室の子を選ぶかは、頭領の一存で決まった。
幕府に恩を売りたい者は人間の血をひいた子を世継ぎにし、あやかしの血が薄まることを危惧する者は、あやかしの血が色濃く流れる子を世継ぎにする。
人間に対する恩讐によってはかられるところである。
「磨徒様は、側室に関してはどうお考えですか?」
お滝が尋ねる。磨徒が指名すれば、都に住むどんな女も喜んで駆けつけるだろう。
「俺は側室は持たん」
即答する磨徒の言葉にお滝は目を丸くする。
どうにも、最近はこの主に驚かされっぱなしだ。
それもそう。立て続けに慣習を打ち壊してくるからだ。
「しかしそれでは人間の奥方との間にしか、子が生まれませぬ。あやかしの血が薄まりますゆえ、ここ何代かは忌避されておりますよ」
「構わん。俺の代からはそうするのだ。それでは、仕事に出てくる」
呼び止めるお滝の声には耳を貸さず、磨徒はずかずかと廊下を歩いていく。
(世継ぎ……か)
磨徒は難しい顔をして考え込む。
みつには別に想い人がいる。気のない相手に体を預けるのは、やはり本意ではないだろう。
日々のみつとのやりとりで、庇護欲と同時に、心の内がぽっとあたたかくなるような感覚をおぼえる。かけがえのない存在だ。
(しかし、今のままでは……)
この関係に変化はないだろう。
世継ぎを望むのであれば、もっと必要になってくるのだ。夫婦間の歩み寄りが。
大きく息を吐き出しながら、磨徒はやわらかな妻の笑顔を思い出していた。
磨徒が外出し、手持ち無沙汰となったみつは、磨徒から借りた書物を手に、縁側に腰かけていた。
あやかしの書物はあやかし言葉で綴られており、みつには読むことができない。
挿し絵のひとつもない本なので、ただただ理解できぬままぼーっと文字を眺めていた。
「つまんねーだろ、それ」
心地よいまどろみに片足をつっこもうとしていたその時、隣に現れたのは那岐であった。
あくびをしながら、どかりと立て膝で腰をかける。
「那岐様、おはようございます。私は文字を読めませんが、内容も難しそうで……」
「読めねぇのに見てんのかよ。どんだけヒマなんだ」
「ええと、何をしたらいいのか分からなくて……家事を手伝うこともダメみたいですし」
「そりゃそーだろ。人間の嫁は隠して表に出すな、家中のことにでしゃばらせるなってな。代々そんなもんだ」
那岐の顔や腕は、もうつるりとして火傷痕もまるで目につかない。
あの温厚な磨徒があそこまで怒りをあらわにするなどみつには信じられなかったが、人間への対応を重視し事を進めている磨徒にとって、那岐の行動は悪質な妨害に他ならなかった。
「でしゃばる気はありませんが、皆さんと仲良くしたいです」
「仲良くっつうのは、相手もそう思って初めて成り立つんじゃねぇのか?」
「そう、ですよね。私は、那岐様とも仲良くしたいのでがんばります!」
「……まァ、また血ィ吸わせてくれたらちょっと仲よくしてやってもいいぜ」
と、那岐は牙を見せつけるように口を開く。
しばし考えた後、みつは意を決したように腕を差し出した。
「少しだけなら……大丈夫です」
みつの眼には、狩られる者特有の悲壮感がない。ただまっすぐに那岐をとらえ、眼は爛々と光っている。
「……冗談だよバァカ。てめぇのまずい血なんぞいらねーよ」
那岐が大きくため息をついて、顔をしかめる。みつの行動がいちいち癇にさわるようだ。
にも関わらず、わざわざこうして隣り合わせに座ったのはなぜか。
(クソが。兄貴ヅラしやがって……)
磨徒から朝一番で、みつの相手をするよう頼まれたのだ。
みつの人柄のあたたかさを知り、親睦を深めてほしいとの思いからこのようなことになったのだが、当然那岐は乗り気ではない。
牙をむくことはもちろん、罵ることも乱暴な扱いも禁じられている。優しく丁重に扱えと。調子が狂うというものだ。
「そういえば那岐様は先日、あやかしの都にも架空の出来事を記した書物があると仰っておりましたね」
「ああ、化本な。歴史譚とか怪異譚とか……あとはバカな男が女に溺れて破滅する話とかな、いろいろある」
「わああ! すてき! とっても面白そうです!」
人間の世にもよくある題材となんら変わりない豊富な品揃えに、みつは胸をふるわせる。
「まァでもてめぇ、読み書きできねーんだろ?」
「そうなんです。夜に旦那様に相談してみますね」
「あいつ、てめぇにゃやたら甘ぇから教えてくれんじゃねーの?」
「……そうですか? 皆様にお優しいのかと」
みつから見て磨徒は、人間の血さえ飲まなければどこまでも優しく寛容な存在だ。
当然誰に対してもそうあるのだろうと思っている。
「皆にってわけじゃねぇよ。変わりもんだからよ、人間に友好的なぶん、あやかしにはけっこう厳しいぜ」
「そうなのですか? 意外です……」
「あいつが家督を継いでまずやったことは、人間の扱いをめぐる取り決めの厳罰化だ。人間に手を出した奴は容赦なく処罰する。傷をつけるような真似をしたら基本的に死罪だな。俺が生かしてもらってんのは奇跡としか思えねぇ」
「そうだったのですね。そこまで人間のことを……」
磨徒があやかしと人間の和を保つことに専心していることは知っていたが、その目的にかける思いの強さを改めて実感する。
そこまで徹底して人間を尊重してくれるからこそ、みつに対しても優しい眼差しを向けてくれるのだ。
──そう考えると、やはり婚礼の儀での磨徒は普通ではなかった。
「あの、あやかしの皆様は、人間の血を飲むとどうなるのですか?」
「人間を虐げたい、蹂躙したいっつう気持ちで満たされるな。肉を裂きたい衝動で頭どうかなっちまうんだわ。気のすむまで吸い尽くして、そのあとは食らう。俺もあの時、邪魔が入らなきゃてめぇを食ってただろうよ」
「そうだったのですね。では、血を飲んだ後そういった衝動をおさえるのは……」
「鋼の精神がねぇとムリだな。磨徒でも耐えられねぇだろう」
那岐の言葉通り、事実磨徒は血がもたらす衝動に抗えなかった。
目の前のみつの肉を裂き食らう衝動はかろうじて抑えたが、三つ指をつき上目使いで己を見上げたその表情を見た瞬間、抑えていたものが切れそうだった。
ゆえに、思ってもいない暴言を吐き、頭を踏みつけた。沸騰しそうに煮えたぎった加虐の衝動を鎮めたい一心だった。
そんな磨徒の静かな戦いを、みつは幾分か理解した。
(旦那様……ご自身を責めてらっしゃったけれど、お辛かっただろうな)
そう思うと同時に、ある疑問にたどり着く。
(確か、誰かに血を飲まされたと仰っていたな……一体誰が、どんな目的で?)
考えてみれば恐ろしい話だ。誰かしらが何らかの企みの元、婚礼を台無しにしようとしたのではないか。
みつは一人深刻な顔で黙り込む。
「あー、なんか怖がらせちまったな。まァ、磨徒は無闇にてめぇを襲ったりしねぇだろうから心配いらねーんじゃねぇの?」
「あ、はい……それはもちろん、信頼しておりますので大丈夫です」
「そうかよ。んじゃ、とりあえず化本一冊貸してやるよ。夜に磨徒と読みな」
「ありがとうございます!」
那岐なりに気を遣ってくれている。それが痛いほど伝わってきて、みつは頭のなかに浮かんだ暗い考えを払拭する。
磨徒のことだ。すでに何かしら手は回していることだろう。
借りた化本を抱えて、みつはそっと夫婦の居室に戻った。
本には挿絵もあると聞いて、さっそく広げてみる。
紙面を大きく埋める絵は、力強い線で描かれたおどろおどろしい武者だ。
化け物じみた描写をされてはいるが、恐らく人間を描いたものだろう。
「わぁ……すごい迫力」
借りたのは歴史譚。嵬族初代当主の活躍を描いたものだそうだ。当然あやかしが英雄で、人間が悪逆非道な行いをする。
(月鬼様も、物の怪から見たら英雄なんだよね。敵である人間を討伐しているんだから)
かっこいいなぁと、みつは空想の世界へまっしぐらだ。
人相が悪く口も悪い。人を殺めることに躊躇がなく、血が似合う月鬼──。
(あれ? 最近そんなお方を見た気がするな)
思案するまでもなく、一瞬で思い浮かぶ顔があった。
那岐である。
月鬼の表層的な要素と照らし合わせてみれば、確かに似ている。似ているが……。
(月鬼様の代わりなんていません)
にこにこと再び妄想の中の月鬼を追いかける。
頭の中で思い描くうち、月鬼の存在はみるみる大きくなっていった。
月鬼のことを考えている時間は、嫌なことを忘れられる、幸せなひとときだ。
かつて、朝も晩もなく心身が擦りきれるまで酷使されていたみつの、唯一の心の拠り所だった。
けれども、みつはまだ気づいていなかった。
あやかしの都に嫁いできて以来、月鬼に想いを馳せる時間が少しずつ減ってきていることに。




