第十四話 すれ違う心
今宵は朔夜の屋敷に宿を借りることとなり、遅い時間ではあるが軽く食事をいただいてから、二人は部屋へと通された。
広い座敷の中央に、布団が二組敷かれている。
「ふああ……旦那様、本日はお疲れ様でございました。わたし、こんなに密度のある一日を過ごしたのは初めてです」
二人きりになった瞬間に力の抜けきったみつが、畳の上にへたり込む。
体力気力ともに限界だった。もう一歩も動けそうにない。
「無理をさせてしまったな、すまない。さあ、布団に入ろう」
畳の上でそのまま眠ってしまいそうなみつの姿に笑みをもらすと、磨徒はみつの背中と膝下に手を回し、軽々と抱き抱えた。
そうしてゆっくり布団の上に横たえる。自然と、磨徒が覆い被さるような形になった。
二人の視線が交わる。互いの顔が間近にあり、息づかいも聞こえてくる。
みつの鼓動が甘く跳ね上がり、ただでさえ思考力の落ちた脳は溶け落ちそうだった。
(私は、旦那様に不義理をしている……)
いつしかうっすらと付きまとっていた暗い感情が、胸の奥でざわざわと音を立てる。
今日一日磨徒と行動を共にし、そして彼の思いを聞いて、もっともっと寄り添いたいと思った。一番の理解者でありたいと思った。
月鬼の面影を抱きながら嫁いだ身である自分が、そんなことを思うなんておこがましいのかもしれない。
けれど、このままでは嫌だと思った。変わりたいと思ったのだ。
磨徒の優しさが好きだ。まっすぐな心根が好きだ。もっと磨徒のことを知りたい。
押し寄せる無数の感情に胸がしめつけられ、みつはぽろぽろと涙をこぼした。
「みつ、どうした? どこか痛むか?」
「いいえ、違います。ごめんなさい、私……」
心配そうに顔を覗き込んでくる磨徒のことを、直視できない。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、みつは両手で顔を覆いながら嗚咽をもらす。
ただただ困惑して言葉に詰まる磨徒は、ぎこちない手つきでみつの頭に触れた。そうしてそっと、あやすように撫でる。
「旦那様の力になりたい……もっともっと寄り添いたい、心の支えになりたいです」
「充分支えてもらっている。ここまでしてもらって、俺は果報者だ」
「そんなことありません。私、妻として全然何もできていなくて──」
「そんなことはない、泣かないでくれ。俺はお前といる時間が何より幸せだ」
みつは、顔を覆っていた手を恐る恐るはずしてみる。
目の前にある磨徒の顔は、困ったように、切なそうに笑っていた。
「旦那様……」
みつはねだるように、磨徒を見上げて両手を広げる。
ただふれ合いたかった。抱き締めてほしかった。
「みつ……」
磨徒はぎゅっと優しい手つきで、みつを腕の中におさめた。小柄で華奢な妻を傷つけてしまわぬよう、そっと大切に扱う。
みつは恥ずかしそうに頬を赤らめながら、しかし幸福そうに磨徒の背中へと手を回す。
密着し互いの体温を感じていると、胸の奥から愛おしさが溢れだしてくる。
好きだ。もっと触れたい。みつを俺のものにしたい。
男として御しがたい衝動が、磨徒の全身を駆け巡る。
けれど、一線は越えられない。
みつには想い人がいるのだから。
頭のなかで必死にそう言い聞かせながら、磨徒はみつの首筋に鼻を寄せ、甘い香りに浸っていた。
「あの、その……旦那様」
「ん、どうした?」
磨徒はわずかに顔を上げて、みつと視線を交わす。
愛しい妻は顔を真っ赤にして目をうるませながら、おずおずと言葉を発した。
「妻としての責を果たしたいです」
「……責?」
「……ですからその……あの……子を、授けてくださいませ」
磨徒の脳内に、甘美な響きが駆け巡る。
みつの言葉のまま、衝動的に体が動きそうになるのを必死で抑え込みながら、磨徒は眉間に皺を寄せ苦しげに目をつむった。
「……俺は、月鬼の代わりにはなれない」
「代わりを求めているわけではありません……! 私は今、他の誰でもなく磨徒様を見ています……ですから……」
「お前に無理はさせたくない、世継ぎのことは心配するな。さぁ、今夜はもう寝よう」
みつの体をそっと引き剥がし、磨徒は布団に身を潜らせる。
みつに背を向ける形だ。まるでこれ以上の対話を拒絶するかのような姿勢に、みつはそっと顔を覆って涙をこぼした。
磨徒は妻には悟られぬよう務めながら、苦悶の表情を浮かべていた。
初めて顔を合わせた時からずっと、みつには強く惹かれている。
嵬族の嫁候補として集まった女達は一様に怯えており、磨徒とまともに会話できる者は少なかった。
しかしみつは異質だった。何を問うてもにこやかにハキハキと受け答えし、あやかしと仲良くなりたいのだと目を耀かせた。
顔合わせののち、磨徒の一存でみつの輿入れが決まった。考えるまでもなく、即決だった。
(俺に気がなくて構わない。しかし──)
胸の奥が灼けるように苦しい。
みつの願いなら何でも叶えてあげたいとは思っている。
けれど子を成すことだけは、軽々しく踏み出せることではない。
どうしても、みつの気持ちが月鬼にあるままでは良くないと思うのだ。
双方にとって、いつしか大きな悩みの種になる。
ぐっと強く拳を握りしめる。揺らぐ気持ちを握りつぶしてしまいたい。
眠れぬ夫婦の長い煩悶は、交わす言葉もないまま、明け方まで続くのだった──。




