第十二話 嵬と堕嵬
「嫌になっちまった。あやかしにも人間にも馴染めねぇ自分が」
苦々しく那岐が吐き出した言葉には、自責の念とともに諦めの色が滲んでいた。
様々な意味が含まれているのだろうと、それを受け止め咀嚼した磨徒は、沈痛な面持ちで頭を下げる。
「お前がみつを襲った日のことは、すまなかった。罰することをしなければ、あちこちで同じことが続くと思っていた。他の者に任せるより、俺自身が処断を下したかったのだが……お前にとって父の暴力を想起させるものだったかもしれない」
「はぁ? 謝るとこじゃねぇだろう。そこはべつに気にしてねぇし、受けるべくして受けた罰だ。しかもてめぇは、俺が弟だからって加減したじゃねぇか。本来なら死罪なのによ」
「あやかしの本能に抗えず、本意ではない行動だったのだろう? だとしたら俺は、お前を責めることはできない」
良心の呵責に苛まれながら、磨徒は膝の上で強く拳を握った。
婚礼の儀のあとからずっと、ふとした瞬間に己の失態が脳裏をかすめる。誰より許せないのだ、自分自身を。
「品行方正で人間びいきなてめぇが、何かしたのか?」
那岐は事情を知らない。婚礼の儀に参列していないからだ。
人間とあやかしの混血は、基本的に祝いの席に顔を出す権利がない。数百年、そうやって当たり前に冷遇されてきたのだ。
「婚礼の儀の直前に、めでたい席だから一献と、母上からリンカ酒をすすめられてな。一気に飲み干したが、違和感があった。わずかに人間の血の匂いがした。すぐに体が熱を持ちはじめ、頭のなかは煮えたぎるように熱かった。そのまま婚礼の儀に出た俺は、みつに対して取り返しのつかない事を……」
「リンカの実は真っ赤だからな。血を混ぜるにはもってこいだろうよ。そんで、何したんだよ?」
「みつの頭を踏みつけてしまった」
「おう、そんで?」
「……それだけだ」
「何だよ。てめぇにとっちゃ一大事だろうが、たいしたことねぇじゃねぇか。嵬族は人間の血に敏感だからな、普通なら食い殺すところまで行くぜ」
「加虐の衝動を抑え込むのに必死だった。傷だけはつけないようにと」
磨徒の自白に驚いたのは那岐もだが、誰よりも朔夜だった。
眉間に皺を寄せ、口もとに張りついた笑みが消える。
「ばかな。嵬族は人間の血の香りを嗅ぐだけで正気を失い、肉を裂く衝動に抗えない。混血である私ですらそうだ。純血であり、人の血を飲み下した磨徒がそこまで本能を抑え込むことなど、できるわけがない」
「……いえ、抑え込めていないからこその失態でした」
「確かに頭を踏みつける行為自体は非難されるべきものだよ。しかしね、その話が本当なら君は本能に打ち勝ったといって差し支えないと思うよ」
朔夜の言葉に、那岐は黙って頷いてみせる。
嵬族の純血種が、いかに人間に対して本能を隠しきれない生き物か、二人はよく知っている。
朔夜の弟であり那岐の父である雷我などは、人間の肌の香りを嗅ぐだけで本能が暴れだし、手がつけられなかった。
「旦那様はきっと、私を踏みつけた際も加減してくださっています。あまり痛くはありませんでしたし……私は本当に何も気にしておりません。本能に抗い、私を傷つけまいと一人戦ってらっしゃった旦那様を、どうして責められましょう」
みつが、柔らかく表情をほころばせて磨徒の背を撫でる。
磨徒にはあやかしらしくないところがあると日頃から思ってはいたが、あやかしらしさを感じさせないということは、本能を理性で抑え込んでいるということだ。
それがいかに難しく苦痛であるか、みつには想像も及ばない。しかしだからこそ感じるのだ、大切にされていると。
「みつ……ありがとう。いや、しかし、すまない。俺だけが罰を与えられていない」
「嵬の頭領を罰せられる奴なんぞいねぇよ。だから先代があんだけ好き放題やってきたんだ」
「……そうかもしれないな、ならば……」
那岐の言葉に何かを刺激された磨徒は静かに目をつむり、両手の指を複雑に絡ませながら、短く詠唱する。
すると彼を囲む三人が声をかけるより先に、磨徒の腹部を内側から突き破り、黒光りする鋭利な石柱が生えてきた。皮膚は勢いよく剥ぎ取られ、あたりに血が飛び散った。
「何だこれは、見たこともない術法だ……」
朔夜が石柱に手を掛け引き抜こうとするが、びくともしない。
注視してみればそれはゆるやかに渦を巻き、ぐちゅぐちゅと音を立てて、磨徒の体をえぐり続けている。耐え難い苦痛が伴うだろう。
「俺を罰する者がいないのなら、自ら処断を下すまでです」
青ざめた顔で、磨徒はわずかに口もとを歪めた。
肉をえぐる石柱が一本、二本と増えていく。まるで生き物のようにぐりぐりと動きながら、血をしぼりとっていく。
「旦那様、もうやめてください! お気持ちは十分分かりました! お願いですから……!」
磨徒にすがりつき、みつが悲痛な声をあげる。
ぐっと体が密着したことにより、動き回る石柱がみつを傷つけかねないと判断した磨徒は、両手で結んでいた印をほどいた。
すると、体内から生えていたすべての石柱が消えていく。残るのはぐちゃぐちゃに裂かれた傷跡だけだが、嵬の純血種の自然治癒力はさすがなもので、みるみるうちに傷が塞がっていく。
「……気は済んだかよ?」
那岐が尋ねると、磨徒は静かに頷いてみせた。
抱え込んでいた気持ちを吐き出せたことで、幾分か心が軽くなったと感じる。
「すまない、俺の話になってしまったな。あらためて、那岐の気持ちを聞かせてほしい」
「おう」
と、返答したはいいが何から話すべきかまとまらない那岐は、しばし思案したあと、畳の上に視線を落とした。
「俺は、嵬族の頭領に人間が嫁ぐ慣習を良く思ってねぇ。うまくいくわけがねぇと思うからだ」
隣で深く相槌をうつのは朔夜だ。
磨徒とみつも、続きを促すべくぎこちなく頷いてみせる。
「力を振りかざして傲慢に振る舞うあやかしも嫌いだが、無力に飼い慣らされるだけの人間にも反吐が出る。共存なんてできるかよ、嵬族はあやかしの本能のままに七百年も人間の嫁を虐げてきたんだぜ」
那岐は表情を変えずに淡々と言葉を紡いでいるが、強く握りしめた手のひらには深く爪が食い込んで、じわりと血が滲んでいた。
「俺は、あやかしの中で磨徒のことだけは認めてる。人間への接し方が他とは違うからだ。それでも、嵬族の血をひいている以上、どこかで本能を振りかざして嫁を傷つけると思う。そんな姿を見たくねぇんだよ。失望したくねぇ」
那岐の脳裏に、かつての母の面影が浮かぶ。
儚げな印象の、線の細い女だった。
長い髪を一つにたばね、質素な着物をまとい、物静かだった母は、父からの暴力によりどんなに傷を負っても、那岐の前では泣き言を言わなかった。
幼き頃、よく離れまで遊びにきていた磨徒のことも、母は可愛がった。
荒れた庭先で、母に優しく見守られながら磨徒と駆け回った日々を忘れることはない。
口には出さないけれど、自慢の兄だ。その存在を誇りに思う。
だからこそ、磨徒が先代の血を受け継いでいることを危惧している。ふとしたことをきっかけに、理性が壊れるのではないかと。
「俺が本能に負けるようなことがあれば、那岐の手で殺してくれ」
磨徒の目はどこまでもまっすぐに、那岐の双眸を射る。心からの訴えだ。
那岐は呆れたように肩をすくめながら、口を開いた。
「俺じゃてめぇにかなわねぇからな、面倒な役回りは御免だぜ。嫁のこと本気で考えてんなら、離縁してやれ。あやかしになんぞ関わらねぇほうが、人間は幸せだろ」
「離縁するつもりはない。俺がみつをめとったのは、慣例だからではない。己の意志で人間を嫁に迎えたかった。みつとならば古い慣習や種族間のわだかまりを壊すことができると考えたからだ」
「夫婦っつうのは二人だけで完結してるもんじゃねぇだろ。周りがいる。嵬屋敷の誰もが、人間を歓迎してねぇ。必ずまた何か起こるぜ」
「周囲ごと変えていく。いや、もっと大きな枠組みで考えるべきだな。あやかしの世の習わしと常識を変えていくのだ」
二人の話は平行線で、交わる様子がない。
兄弟として互いが互いを想う気持ちは確かなものだ。
けれど、両者の考えには大きな解離があった。
「なんでいじめるんだって、なんで仲良くできねぇんだって、ガキの頃の俺は、先代の顔を見るたびに噛みついてた。先代一人が敵だと思ってた──けど違った。周囲は誰も助けてくれねぇし、見て見ぬふりだ。人間は虐げられて当然だとふんぞり返ってる。そんなモンだぜ、あやかしなんぞ。そうそう変わるわけがねぇ」
「……那岐、化本には書かれていない、嵬族初代当主の話を知っているか。あやかしと人間の婚姻を定めたのは、初代だ」
「化本の中で果敢に戦う姿は好きだが、悪習を広めた張本人なのかよ。虫酸が走るぜ」
「初代は、自らの意志で人間から嫁をめとった。仲睦まじい夫婦だったという。幕府との関係も良好で、あやかしの都には人間が出入りしていたし、あやかしもまた、人の世で働き口を得ることが珍しくなかった。七百年前、間違いなく人間とあやかしは共存していたのだ」
那岐が眉をひそめながら、傍らの朔夜に視線を送る。
朔夜もまた難しい顔をして黙り込んでいたが、やがておもむろに口を開く。
「それは初耳だな。詳しく話を聞かせてくれるかい?」
磨徒は深く頷いてみせる。
虫の声ひとつ響かぬ密室の中、じりじりと行灯の明かりだけがその存在を主張していた。
夜は長い。閉ざしていた心のうちをさらけ出すような魂の応酬は、あと少しだけ続きそうだ──。




